徳川家康 家康の関東統治構造

徳川家康

【今回の記事に関連する場所】

①江戸城、②武蔵国忍(埼玉県行田市)、③下総国小金(千葉県松戸市)、
④下総国佐倉(千葉県酒々井町)、⑤下総国関宿(千葉県野田市)、⑥相模国小田原
⑦上野国箕輪(群馬県高崎市)、⑧下野国館林(群馬県館林市)、⑨下総国矢作(千葉県香取市)
⑩万喜城、⑪大多喜城
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家康の関東入部

天正十八年(1590)七月、小田原城が開城した後、正式に関東移封を命じられた家康は江戸城に入り、関東における新たな領国の統治を始めます。

家康の関東入部は一般的に八月一日とされます。しかし、七月十八日には江戸に入っていたことが「家忠日記」から確認できます。
 ただ、七月二十八日から八月四日の間に行われた宇都宮城での関東仕置きによって、領国の範囲が確定され、常陸佐竹氏の領国確定が八月一日付となっていることから、八月一日とは豊臣政権の関東仕置により、徳川関東領国の範囲が政治的に確定したと位置づけられた日付であったようです、

 豊臣政権から与えられた徳川氏の関東領国は、旧北条領国のうち、伊豆・相模・武蔵の各国、上野・下総両国の大部分と下野国の一部、安房里見氏より没収した南半分の領地を合わせた上総一国がその範囲として設定されました。

 これは、豊臣政権のもと、徳川氏が関東・奥羽統治の軍事・外交の要の役割を担い、その立場に見合う権威ある大名として、関東領国が北関東・奥羽方面に対する前線領域として設けられたことによります。
 その知行高は石高で二百四十万二千石、天正十七年(1589)から与えられていた近江国での在京賄領を合わせると二百五十万余であったといわれます。

家康入部当時の江戸

 家康が入部した頃の江戸は、すでに中世の関東における水陸交通の要地でありました。

 十五世紀、関東を舞台とした享徳の乱(1458―83)の時に、太田道灌によって江戸城が築城されると、そのことで江戸の政治性は高まりました。

 ※享徳の乱:第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺したことに端を発し、室町幕府・
  足利将軍家と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が鎌倉公方の足利成氏と争い、関東地方一円に拡大し
  た。
  現代の歴史研究においては、享徳の乱は、関東地方一円に拡大した。

 天正年間(1580年代)には北条氏が政治の拠点とし、さらに小田原合戦になると、北関東・奥羽地方への進軍に備える秀吉が、東海道の掌握を図るため、江戸城に「御座所」の設置を指示しました。

関東の統治区分:本国領

 家康が直接管轄した「本領国」は武蔵南半分・相模東半分(東京都、埼玉県南部、神奈川県東部から中部の地域)、伊豆国といった北条氏の本領国に加え、北条一門衆による自治運営がなされていた武蔵国八王子、鉢形、岩付、さらに北条氏の領国だった時から江戸城と関わりを持っていた下総国葛西地域(東京都葛飾、江戸川両区)も本領国に組み込まれました。

関東の統治区分:一門領

 本領国周縁には「一門領」が設けられました。

 北面にあたる武蔵国忍(埼玉県行田市)に四男の松平忠吉、東面の下総国小金(千葉県松戸市)のち同国佐倉(同酒々井町)に穴山武田氏を継承した五男の武田信吉を配置します。また、下総国臼井(千葉県佐倉市)に穴山武田氏と縁戚関係にある重臣の酒井家次(酒井忠次の嫡男)を配置して信吉を後見させました。東北部の下総国関宿(同野田市)に異父弟の久松松平康元がそれぞれ配置されました。

関東の統治区分:外縁部

 徳川氏は江戸に繋がる水陸交通と流通の要地を押さえることで、本領国の守衛と外縁領域の軍備補完を図りました。

 相模国小田原には関東領国の西側の防衛と連携のため、重臣の大久保忠世 、上野国南半分・下野国東半分において、西上野の統治拠点だった箕輪(群馬県高崎市)には井伊直政、下野国との関わりを持つ統治拠点の館林(同館林市)には榊原康政が入りました。

 この井伊直政と榊原康政の配置には秀吉の意向があったといわれます。両名は徳川家重臣でありつつも、その一方で豊臣政権の一員として箕輪と館林が北関東・奥羽地方ヘつながる東山道の掌握に備えるという重い任務を担っていたためと考えられます。
 そして、上野国には三河・信濃両国の国衆らを、下野国にはもとからの国衆皆川氏を配して、関東領国外郭の守備を固めました。

 下総国東端部では、領国の東北方面の最前線に位置する矢作(千葉県香取市)に重臣の鳥居元忠を配置、上総国では重臣の本多忠勝を万喜に配置されました。

 小田原合戦において、北条氏と敵対する安房里見氏は、秀吉方として北条氏と戦い、その恩賞として、上総一国の領有が承認されることを望んでいました。
 しかし、秀吉は里見氏には本国の安房国(千葉県南部)のみを保証するだけで、上総国にあった支配領域は没収します。
 この時忠勝は支配領域を没収された里見氏への備えと徳川氏による同国の領有確保を目的として、万喜城に入りました。また、上総国の掌握は、江戸(東京)湾の制海権を確保することにもつながりました。

 この制海権を握るために鎌倉幕府、室町時代の鎌倉府は上総国の掌握を重要視していました。そのため、戦国時代には江戸湾の制海権を巡り北条氏と里見氏はたびたび戦争を行っていました。
 このように相模・武蔵両国を政治的本拠とする武家政権や戦国大名にとって、上総国を掌握することは、江戸湾の制海権を確保し、権力基盤を安定させることも意味していました。

 秀吉が里見氏の上総国領有を認めず、家康に上総国を与え、忠勝の万喜城への配置を承諾した背景には江戸湾の制海権の確保が、江戸を本拠とした。徳川関東領国の安定につながるためでした。

 なぜ、忠勝の配置に秀吉の承認が必要であったか。
小田原合戦後、秀吉は北条氏に代わる関東統治を樹立を示すため、中世東国の政治都市鎌倉を直轄地にします。鎌倉を直轄地とした秀吉にとっても、江戸湾の制海権確保のために上総国を掌握することは、徳川関東領国の安定にとどまらない重要なことだったからです。

 翌天正十九年(1591)初頭までに上総国の徳川領国化が実現。忠勝は大多喜城に移ります。

 徳川関東領国は、当主の家康が中核部の本領国を管轄し、それぞれの領域の地縁・外縁部に一門・重臣のもと、松平諸家と従属国衆を配するという、それぞれの領域の地理的・歴史的態様をふまえた、重曹的複合構造を成していました。

家康の統治構造

 戦国から江戸初期の大名は、広大な領国の運営を円滑に行うため、大名が直接携わるよりも、一門や有能な重臣に要地の統括を委ね、彼らに大名の方針に基づく政務を執らせました。

 徳川関東領国においても、井伊直政の上野国箕輪領、榊原康政の上野国館林領、本多忠勝の上総国大多喜領など領国外縁部の要地に展開した枝城領域では、各領域の支配担当者に地域事情に応じた自治運営を任せました。従って、こうした枝城領では、それぞれ独自の裁量で検地を実施するなどして支配が進められました。

 そして、江戸城を拠点に、家康が本領国を直接統治することで、領国支配が進められました。

豊臣政権の統治構造

 豊臣政権は、天下を掌握した中央権力に、大名領国が、重層的複合構造に組み込まれることによって成立していました。そこでは、中央権力(羽柴氏)の政治的・軍事的保護のもと、大名領国=地域「国家」の自治運営が保証される仕組み、惣「国家」構造に基づいた「日本国」の国内統治が進められました。
 このため、諸大名は、中央権力との政治関係のもとに領国支配を進めることが求められ、自立的な活動や立場の表明は次第に制限されていきました。

 各大名は領国「平和」の維持に努めつつ、それを保証する中央権力のもとに連なり、大名権力としての権威を保つことが求められました。家康も豊臣政権下で活動し、有力大名としての勢威を確保していったのでした。

【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著  徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社  本多隆成著 徳川家康の決断
中央公論新社  和田裕弘著 信長公記 戦国覇者の一級資料
ウィキペディア
コトバンク

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