徳川家康 小山評定から関ヶ原へ

徳川家康

【今回の記事に関連する場所】

①佐和山城、②大阪城、③伏見城、④下野国犬伏、⑤下野国小山、⑥下野国宇都宮、⑦江戸城、
⑧清須城、⑨岐阜城、⑩美濃国赤坂、⑪美濃国岡本、⑫上田城、⑬大垣城、⑭犬山城、
⑮竹ヶ鼻城
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真田父子「犬伏の別れ」

 家康には七月十九日か、二十日頃に、三奉行(増田長盛、前田玄以、長束正家)から上洛を求める十二日付け書簡で、石田三成・大谷吉継の挙兵を知ります。
 その後も、大坂城の淀君や三奉行、前田利長から、上洛して三成・吉継挙兵へ対処するよう求められていました。

 この時、徳川勢として進軍中の真田昌幸のもとに、離反した三奉行の連署書状と挙兵に応じるように促す三成からの書状が届き、昌幸・信繁父子が嫡男信幸と袂を分かち、上田城へ引き返したことは「犬伏の別れ」として知られます。

小山評定

 会津攻めは豊臣政権の公儀の戦いであったため、家康の軍勢のみならず、東海道沿いの福島正則(尾張清須)、池田輝政(三河吉田)、山内一豊(遠江懸川)らをはじめ、黒田長政(豊前中津)、細川忠興(丹後宮津)、藤堂高虎(伊予板島)、浅野幸長(甲斐甲府)、など多数の豊臣系大名たちが従軍していました。

吉田城(愛知県豊橋市)
懸川城(静岡県掛川市)

 家康には軍事指揮権が与えられていたとはいえ、三成らの挙兵という不測の事態を受けて、主従関係にないこれらの豊臣系諸将に一方的に命令を下すということはできず、今後の行動については、諸将の同意と納得を得る必要がありました。
 七月二十四日、下野国小山(栃木県小山市)に着いた家康は、先行する福島正則ら諸将を呼び寄せ、翌二十五日に諸将が一同に会した「小山評定」を開き、このまま会津攻めを続けるかどうかについて諮ります。

 その結果、上方で起こった事態に対処することを優先すべきということに決し、駿河から上の豊臣系諸将は、翌二十六日から、いっせいに、まずは福島正則の清須城を目指して西上することにななりました。
 (徳川実紀によると福島正則の「我に於いてはかゝる時にのぞみ。妻子にひかれ武士の道を踏違う事あるべからず。内府(家康)の御のため身命をなげうちて御味方つかまつるべし」との発言から、諸将は、なだれをうって三成打倒を約したといいます)

 その後、家康は八月五日に江戸へ帰陣。
秀頼が率いる軍勢は下野国宇都宮に駐在させ、東海道を西上する諸将には宿老の井伊直政、本多忠勝を先勢として派遣し、指図を委ねます。

関ヶ原に向けた家康の対応

 この後、家康は自分が豊臣政権の公儀性を失ったことを知り、江戸城に留まります。
三成らは大老の毛利元就を大阪城に引き入れ大将に担ぎ、同じく大老の宇喜多秀家も三成に加担します。さらに三奉行(前田玄以、増田長盛、長束正家)も寝返り、豊臣政権に対する家康の非道を「内府違いの条々」にまとめ、諸大名に配布します。同時に、三成らは、諸大名に勝利後の莫大な褒美を確約しました。 
 家康は、上方へ向かった豊臣系大名たちが東軍としてはたらくかどうかや、上杉景勝や佐竹義宣の動向が読めない中、江戸の留まらなけばならなかったのです。また、多数派工作も必要でした。

 家康は小山評定から関ヶ原までの約五十日間、家康の手紙は百五十五通も現存しています。その大半は、味方の武将との絆を深めたり、敵に加担した大名の投降を促す内容でした。

 宇都宮にあった秀忠は中山道方面に進ませることにします。また、清須城にあった福島正則や池田輝政など徳川方の諸将(「東軍」)は、十九日に家康の使者村越直吉が到着すると行動を起こすことに決し、反徳川勢力の織田秀信(信長の孫)がいる岐阜城を攻めました。

岐阜城(岐阜県岐阜市)

 「天下分け目」の関ケ原の決戦では、秀忠率いる三万八千ともいわれる徳川氏の主力部隊が、決戦の場に間に合わず、家康が率いた東軍は、これらの西上した豊臣系諸将に依拠して勝利を収めます。そのため、「小山評定」で豊臣系諸将が家康を支持して西上に決したことは、関ケ原合戦の帰趨(きすう)を決定づけることになったので、その歴史的意義は大きかったといわざろうえません。

小山評定の真偽

 この小山評定の開催そのものに現在では懐疑的な説が出ています。

・家康は遅くとも二十日には、三成挙兵の報に触れながら、二十一日に江戸城を出発している。
 二十五日に小山で軍議を開き、会津征伐を中止を決定するのであれば、江戸出発の時点で中止の
 判断をできたはずだ。

・上方における反家康の動向を察知した家康は、七月十九日付福島正則宛徳川家康書状で
 「それに対応するため、福島正則の軍勢の西上を命じ、家康がいる江戸まで来るように命じた」

 一方では小山評定を肯定したり、小山ではないかもしれないが、東軍諸将が集まり、意思疎通をはかったとする説も存在ます。

天下分け目の関ヶ原へ

 八月二十三日、福島・池田の諸将は岐阜城を落とします。

 攻撃の第一報は二十五日に、その攻略の報は二十七日に家康の元に届きます。家康は諸将の戦攻を賞するとともに、早急に出馬をするので、それ以上の行動をやめ、東海道を上る家康と中山道を進軍中の秀忠と「我ら父子の到着を待つように」と指示を出します。

 家康は九月一日に江戸を出陣し、その道中からも各地の諸将に頻繁に指示や要請を出しながら、十一日に清須城に到着します。
 秀忠が率いる軍勢の遅参を知りますが、これを待たずに決戦を急ぐことに決し、十四日には美濃国赤坂(大垣市)に着陣し、岡山(大垣市)に本陣を置きます。

 秀忠が会津の上杉方への備えを見届けて、宇都宮を発ったのは八月二十四日のことでした。中山道を西上し、美濃辺りで東海道を西上してくる家康率いる旗本部隊と合流する予定でした。
 しかし、西軍に与した上田城(長野県上田市)の真田昌幸・信繁父子の攻略に手間取ることになります(第二次上田合戦)。
 家康からの指示で上田城には押さえの兵を残し。西上に転じますが、すでに九月十日になっていました。このため、十五日の肝心の決戦の場に間に合わなくなります。

三成の防衛線

 他方、石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家らの西軍諸将は、大垣城(岐阜県大垣市)に入っていました。三成の東軍を迎え討つ決戦の場の想定や戦略には三段階の変遷がありました。

大垣城(岐阜県大垣市)

・第一段階は八月初め頃で、三河・尾張間での決戦を想定して、福島正則の説得にも意欲を示して
 いました。しかし、これらは希望的な想定でした。

・第二段階は八月半ば以降で、三成が描く現実的な防衛ラインは尾張・美濃へ後退します。木曽川
 長良川などの大河をたのみ、岐阜城を核として、東の犬山城(愛知県犬山市)、南の竹ヶ原城
 (岐阜県羽島市)などと連携して防戦しようとするもので、三成自身は十日に大垣城に入りま
  した。しかし、二十一日に木曽川上流の河田(愛知県一宮市)池田輝政隊と、下流萩原・起
 (同前)の二手に分かれた東軍諸将の岐阜城攻めが始まると、翌日には竹ヶ鼻城、二十三日には
  岐阜城が、それぞれわずか一日であっけなく攻略され、犬山城は戦わずして東軍の軍門に下り
  ます。 

 三成は戦の再構築を迫られ、大垣城に籠って東軍を引き付け、その間に西軍の総大将毛利輝元と豊臣秀頼を大坂城から出馬させる方針をとったといいます。

・八月末以降の第三段階で、三成は大垣城を拠点としながら、伊勢方面に展開した西軍の部隊を
 呼び寄せて南宮山にに配置し、連携して赤坂・岡山・垂井に展開する東軍に対峙しようとしま
 した。しかし、西軍は家康西上の情報を掴んでいなかったようで、九月十四日に大垣城からわ
 ずか四キロメートルほどの岡山本陣に家康の金扇の馬印(戦場で大将の居場所を示した目印)
 とせい旗(葵紋章 の旗七本と源氏を示す白旗二十本)が掲げられると、意表を突かれて動揺
 したといわれます。

 西軍は軍議を開き、佐和山城(滋賀県彦根市)を衝かれることを恐れ(家康が佐和山城を攻撃するという噂を流した?)、大垣城を出て関ケ原に向かうことに決します。
 九月十四日夜、石田隊を先頭に、西軍の諸将は夜の雨を衝いて関ケ原に向かいます。良夜半過ぎにこれを知った家康は全軍に進発を命じ、東軍も関ケ原に向かいました。

 翌十五日の午前一時に石田三成が北国街道を押さえ、笹尾山に本陣を置きます。続き到着した小西行長は北天満山を背にして布陣。山中にいた大谷吉継は藤古川を前にて、赤座直保・緒川祐忠・朽木元網・脇坂安治らと中山道を挟む形で陣取りました。
 松尾山には小早川秀秋、南宮山一帯には毛利秀元、長曾我部盛親らが陣取りました。

 東軍は午前三時から中山道を西上し始めました。二列縦隊で進み、左は福島正則、右は黒田長政が先頭となりました。家康は桃配山に本陣を構えました。

 こうして九月十五日「天下分け目」の関ケ原合戦となります。

関ヶ原布陣

関ヶ原の戦い

 東西両軍が布陣を終えたのは、九月十五日午前六時から七時の間だったと思われます。
東軍の最前列には藤堂高虎、加藤嘉明、細川忠興、黒田長政といった豊臣系大名が最前線に並んでいました。
 合戦の先手一番は、福島正則と決められていましたが、午前八時頃に徳川家直臣として最前列の一群に唯一加わっていた松平忠吉(家康四男)と井伊直弼が、物見と称してわずか五十騎で出かけた所、敵と遭遇し合戦の火ぶたが切って落とされました。
 これを見た正則は中山道を進んで宇喜多隊を射撃。この銃声によってほかの東軍の攻撃が開始されました。藤堂高虎らは大谷隊、加藤嘉明、細川忠興らは石田隊、織田有楽らは小西隊を攻撃しました。

 家康の政治工作や家康に味方した黒田長政の離間工作が功を奏し、西軍大名の多くが戦いに参加せず、西軍八万のうち戦闘に参加したのは半数以下であったといわれます。
 南宮山お布陣した毛利郡一万六千も傍観し、近くに陣を敷いた吉川広家、長束正家、長曾我部盛親も動きませんでした。

 少数ながら西軍はすさまじい戦いぶりを見せ、戦線は膠着状態になります。もし傍観している西軍諸将が東軍に攻撃を仕掛けてきたら、絶体説明となる状態でした。
 通説としては・・・
裏切りを約束していた松尾山の小早川秀秋が動かず、気を揉んだ家康は松尾山に大砲を撃ち込みます。このため秀秋は松尾山を駆け下り、大谷吉継へ攻め入り、つられて赤座直保・緒川祐忠・朽木元網・脇坂安治も味方に攻めかかり、大谷隊が壊滅したのを機に、西軍は瓦解します。
 小早川秀秋の寝返りによって西軍に動揺が広がり、小西行長、宇喜多秀家が敗走。石田三成も激戦を繰り広げますが、小西・宇喜多の敗走を受けて崩れます。
 午後二時半に戦闘は終了します。

 小早川秀秋の行動については諸説ありますが、秀秋の行動が西軍を壊滅に追い込んだのは確かなことです。
 

【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著  徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社  本多隆成著 徳川家康の決断
中央公論新社  和田裕弘著 信長公記 戦国覇者の一級資料
株式会社PHP研究所 河合敦著 徳川家康と9つの危機
株式会社講談社 渡邊大門編 徳川家康合戦録 戦下手か戦巧者か
ウィキペディア
コトバンク

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