大阪城の秀頼
慶長十六年(1611)三月、二条城での対面で秀頼が家康に臣従し、徳川公儀が豊臣公儀に優越することが明確に示されました。しかし、それによって秀頼が一大名に過ぎなくなったわけではありませんでした。
① 親王・公家衆・門跡衆など年賀のための大坂下向は、大坂の陣まで続いた
② 御手伝普請が秀頼には課せられなかった
③ 慶長十六年四月の諸大名の起請文に、秀頼は署名していない。
④ 秀頼と大坂衆の叙任は幕府の制約の埒外であった。
秀頼が豊臣公儀を背負って大坂城にいたままでは、「並みの大名」とはいえず、徳川氏の覇権確立のためには、少なくとも秀頼を大坂城から転封させ、「並の大名」として完全に臣下に組む込むことが必要でした。
しかし、二条城に出仕して礼を尽くして、何のとがもない秀頼に対して、転封を命じることはできませんでした。
ところが、家康にとってそれを迫る絶好の機会が訪れます。方広寺大仏殿の鐘銘問題と棟札問題です。
方広寺の鐘銘と棟札問題
方広寺の大仏殿は秀吉時代に建立が始まり、たびたび災害に見舞われながら、慶長十四年(1609)から秀頼があらためて再建を始めていました。
同十七年春には再建工事がほぼ完了し、慶長十九年四月には釣鐘の鋳造も行われました。
五月には片桐且元が駿府に下り、大仏開眼供養・堂供養の日時や法会を行う僧侶についても家康の了承を得ていました。
ところが、七月二十一日に大仏の鐘銘に関東不吉の語があり、上棟の日が吉日ではないと家康が腹をたてます。
同二十六日に且元から開眼供養・堂供養は八月三日と伝えてきたのに対して、鐘銘(鐘に刻まれた銘文)・棟札(棟上げに際して打ちつけられた、工事の由来を記した板)の草案を送るように要求しただけでなく、上棟および両供養の延期を命じます。
【鐘銘問題】
鐘銘は秀頼が帰依した東福寺の清韓文英が起草したもので、長文の序と三八句の銘がありましたが、そのうち「国家安康」「君臣豊楽、子孫殷昌」の部分が問題となりました。
林羅山によると前者は諱を書き込んでいて無礼不法、しかも「家康」の名を切り裂いており、後者は豊臣を君として子孫の殷昌(豊かで盛んなこと)を楽しむと読め、全体として徳川氏を呪い、豊臣氏を寿ぐ内容となっているというものでした。
さらに序文では家康のことを「右僕射る」(右大臣の唐名)源朝臣家康公 となっており、家康を射る下心とまでいっていました。
鐘銘の良し悪しについては京都五山の禅僧たちの意見を聞くことになりました。
程度の差がありましたが、家康という諱を書き込み、しかもその二字を書き分けたことについては批判的でした。
清韓の弁明は「国家安康」「君臣豊楽」はいずれも「家康」と「豊臣」を隠題(事物名を直接表面に表さないで詠み込むもの)として入れたもので、名乗りを切り分けることも昔からよくあることだというものでありました。
そうであれば、諱の折り込みを事前に断るか、草案の被閲を受ける必要があり、このような清韓や豊臣方の手抜かりに、家康がつけこんだのでした。
【棟札問題】
上棟の期日と棟札問題は、大工頭中井正清の入れ知恵によるものでした。
上棟は八月一日という希望であったが、これは家の悪日でふさわしくないとうことでした。
しかし、真意は大仏殿の棟札に、大壇那豊臣秀頼と奉行片桐且元の名前しか記載されておらず、大工棟梁であった正清の名前がないというところにありました。
豊臣方の対応
この事態に豊臣方からは、さっそく弁明のために片桐且元が駿府に下りました。且元は八月十九日に駿府に入りますが、家康には会えませんでした。
他方で、淀君の使者大蔵卿(大野治長の母)らが、二十九日に駿府に着くと、家康は時をおかず対面し、鐘銘問題など案ずることはないといいます。
しかし、且元とは最後まで会わず、本多忠純と金地院崇伝を遣わし、解決策については且元の分別に委ねました。
九月十八日に大坂に帰った且元は、家康の意向を忖度して、
① 秀頼が江戸へ参勤するか
② 淀君が証人(人質)として江戸へ下るか
③ 大坂城を明け渡して国替えするか
という三策を献じます。
しかし、家康に会った大蔵卿らの報告は、そのような対応を必要としない内容だったので、且元の献策は家康におもねった姦計(かんけい)とみなされます。
姦計:悪いはかりごと。悪だくみ。
対徳川強硬派は且元の殺害を図ろうとしたため、身の危険を感じた且元は一族を引き連れて大坂城から退去し、摂津茨木城(大阪府茨木市)に立て籠ります。
家康にとってこのことは開戦する絶好の口実となりました。
【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著 徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社 本多隆成著 徳川家康の決断
中央公論新社 和田裕弘著 信長公記 戦国覇者の一級資料
ウィキペディア
コトバンク
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