徳川家康 大御所政治の外交政策とキリスト教への対応

徳川家康

外国との関係 ・・・ オランダとの交易開始

 慶長十四年(1609)五月末、ポルトガル船を追撃してきた二艘のオランダ船が平戸に入港し、日本との通商を求めてきました 
 この時期の対外関係は、旧教国のポルトガル・スぺインに対して、貿易に必ずしも布教を伴わないオランダ・イギリスが新たに進出してきました。とりわけ、オランダはジャワ島のバンテンを押さえると、慶長七年に東インド会社を設立して、東南アジアへの進出を積極的に図るようになりました。
 平戸に入港したオランダ人は、長崎奉行の許可を得て、駿府に向かい家康に謁し、平戸に商館を置くことを許可しされました。これ以降、ヨーロッパの国としては唯一幕末まで続くオランダとの交易が、始まりました。

朝鮮との和平

 朝鮮との関係では、秀吉の二度にわたる出兵のため、和平交渉は容易ではありませんでした。
長年にわたり日朝貿易に携わってきた対馬の宗氏を通じて、折衝が行われた結果、慶長九年(1604)末になって朝鮮側は講和交渉の使節を送ってきました。
 宗氏は使節を伴って上洛し、翌年三月に伏見城で家康・秀忠に暍し、それ以降は交渉の全権が宗氏に委ねられました。

 慶長十一年(1606)朝鮮は宗氏に、以下の二つの講和条件を示します。
1.家康の方から先に国書を朝鮮国王に送ること(これは家康の降伏を意味します)
2.秀吉の朝鮮出兵の際に、朝鮮で先王の陵墓を荒らした犯人を引き渡すこと。
 宗氏はこの二つの条件を受け入れてしまいます。宗氏は国書を偽造し、対馬にいた罪人を犯人に仕立てて送りました。

 朝鮮側はそのような工作を察知しながらも、慶長十二年(1607)に正使・副使・従事の三使をはじめ、総勢四六九人といわれる一行を対馬に送ってきました。
 宗義智は一行とともに江戸に向かい、五月六日に将軍秀忠に暍し、偽造された朝鮮国王の国書を献上し、十四日に秀忠から復書を与えられて帰国の途につきました。
十九日には興津の清見寺(静岡市清水区)で一泊し、翌二十日には家康にも暍しました。

琉球との関係

 慶長七年(1602)に琉球船が伊達領内に漂着すると、家康は明との国交回復を斡旋させようと島津氏に本国への送還を命じ、謝礼の使者の派遣を求めました。
 しかし、琉球側がこれに応じようとしなかったため、島津家久は琉球侵攻を願い出て、家康もこれを許しました。

 慶長十四年(1609)三月に、島津氏は三千余りの軍勢を派遣して、途中の島々を平定しながら琉球島に至り、四月五日に首里城を落としました。家康は島津氏の功賞し、琉球を与えました。
 翌慶長十五年、家久は尚寧王を伴い、駿府で家康に、ついで江戸で秀忠と謁します。この後琉球使節もまた、琉球国王が自らの襲封を感謝する「謝恩便」や、将軍の代替わりなどを祝賀する「慶賀使」を、近世を通じて派遣しました。

キリスト教禁圧契機・・・岡本大八事件

 朱印船貿易による利益は大きく、これを重視する家康は、当初はキリスト教に対しては比較的寛大でした。しかし、慶長十七年(1612)に岡本大八事件と呼ばれる収賄事件が露見すると、キリスト教の弾圧に大きく舵を切りました。

 事の起こりは慶長十四年に遡ります。
その前年に家康も投資して肥前日野江(長崎県南島原市)四万石の有馬晴信が派遣した朱印船がマカオで襲撃されたため、その報復として長崎でポルトガル船を撃沈しました。
 家康は晴信の功を賞し、ポルトガルが運んできた荷物を分け与えました。

 この晴信に対して、本多正純の家臣である岡本大八が、さらに報償として領地の加増もありそうだと持ちかけ、多額の賄賂を受け取ります。
 ところが加増の沙汰がなかったため、晴信は正純に書状を送り、直接督促に及びました。
事情が分からない正純は大八を呼んで詰問しましたが、言い逃れしたため、慶長十七年二月になって両人を召し出し、正純の屋敷で対決させました。
 晴信は大八からの書状を証拠として提出したため、大八は抗弁しきれず自白しました。

 その後、大八は獄中から、有馬晴信は長崎奉行長谷川藤広を殺害しようとしたことがあるとその旧罪を訴えます。
 そこで三月十八日に今度は大久保長安の屋敷で対決し、晴信はこれに抗弁できませんでした。
結局、大八は三月二十一日に府中引き回しのうえ、安倍河原で火刑に処せられ、晴信は翌二十二日に甲斐に配流となり、五月に切腹を命じられました。

 この事件では、当事者の大八や晴信がいずれもキリシタンであったことから、幕府によるキリシタン禁圧が本格化する契機となりました。
 大八を火刑に処した同日、家康は幕領である駿府・京都・長崎などの幕府直轄都市に禁教令を発し、キリシタン施設の破却と信者の処罰を命じました。同年八月に関東地域に発せられた禁令五ヶ条ではキリシタンの禁制をいっそう明確にしました。

キリシタンの取り締まり

 その当時、本多正信・正純父子と大久保忠隣に代表される権力闘争が依然として存在していました。岡本大八が正純の家臣であったことは、本多父子にとって打撃となりました。
 ところが、慶長十八年(1613)四月に大久保長安が駿府で死去すると、両者の力関係が大きく変わることになります。長安が死去すると多額の金銀の蓄財など生前の不正が摘発され、嫡男藤十郎ら七人の子息もと捕らえられ、七月には切腹を命じられました。このため長安の庇護者であった大久保忠隣の幕閣での立場は苦しいものになりました。

 同年十二月に忠隣はキリシタン取り締まりの命を受けて、京都に派遣されます。
翌慶長十九年(1614)正月に、上京した忠隣はキリシタンの摘発を行い、二ヵ所あった南蛮寺は焼き払われ、宣教師たちは長崎に追放されました。
 ところが、正月十九日、忠隣は謀叛の廉で改易されてしまいます。本多父子との暗闘が、その背景にあったとみられます。

 忠隣の改易後も弾圧は続き、京都・大坂のキリシタンの多くは改宗しましたが、改宗しなかった七〇名ほどは奥州津軽に流されました。
 九月には各地から長崎に集められた宣教師や信徒たち百数十名が、マニラやマカオへ追放となりました。キリシタン大名として名高い高山右近もマニラに送られましたが、これを「大追放」といいます。

 慶長十八年(1613)十二月には家康が金地院崇伝に起草を命じた伴天連追放令も出され、幕府のキリシタン禁圧方針は明確でした。

【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著  徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社  本多隆成著 徳川家康の決断
中央公論新社  和田裕弘著 信長公記 戦国覇者の一級資料
ウィキペディア
コトバンク

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