徳川家康 全国統治への布石と征夷大将軍就任

徳川家康

都市や鉱山の直轄化

 家康は関ケ原の合戦で圧勝し天下の実権を握ると、開幕以前からさっそく全国統治への意欲を示しめしていきます。

第一に、主要な都市や重要な鉱山を直轄化します。
 都市では京都・伏見・堺・奈良・伊勢山田・長崎などがあげられ、とりわけ京都については、
 関ケ原の合戦直後に奥平信昌を所司代に任命させて、治安の回復にあたらせました。
 その他の都市では、基本的に奉行が置かれ、その地の民政を担当しました。
 特色があるのは長崎奉行で、長崎の民政、長崎会所や出島の監督、清国・オランダとの通商、
 各種船舶などの管理や諸外国の動静監視など、その任務は多方面に及んでいました。

 鉱山では、石見銀山、佐渡相川の金銀山、伊豆土肥の金山、甲斐黒川の金山、但馬生野の銀山
 などがありました。

東海道の整備

第二に、東海道をはじめとする街道の整備に着手しました。
 東海道の宿駅設置は、関ケ原の合戦からわずか三カ月後の、慶長六年(1601)正月でした。
 このことから家康が江戸と上方を結ぶ東海道の整備をいかに重視していたかが伺われます。

 宿駅設置の指定は以下の3つによって行われました。
 ・伝馬朱印状
  「この御朱印がなければ伝馬を出してはならない」という簡単もので、馬子が馬を曳いている
  図柄の朱印が押されていました。
 ・副状
  家康の奉行衆伊奈忠次・彦坂元正・大久保長安の連署状によって、伝馬はこの御朱印によって
  仰せ付けるので、よくよく引き合わせて勤めるようにと通達されました。
 ・伝馬定書
  この3名の奉行によって通達されました。
  例えば由比宿(静岡市清水区)に下された「由比百姓年寄中」宛の伝馬定書では
  ・常備する伝馬は三六疋と定める。
  ・上りは興津、下りは蒲原まで継ぎ送ること。
  ・伝馬は一疋あたり、居屋敷(屋敷地)で三〇坪(一坪は約三.三平方メートル)まで地子
   (土地税)を免除する
  ・合わせて一〇八〇坪(三六疋分)を居屋敷で引き取ってよい
  ・荷積(荷物の重量)は一駄につき三〇貫目(一貫は約三.七五キログラム)までとする
  としています。

 近世の宿駅伝馬制度では、物質の輸送は宿から宿へと継ぎ送る方法を採っていました。
「東海道五十三次」とは、江戸日本橋を起点として京都に上る場合には最初の宿が品川宿で、京都に入る最後の大津宿が五十三番目ということで五十三の宿場があったことを意味しています。
 これを「五十三宿」といわず「五十三次」というのは、宿ごとに荷物を継ぎ送るということで「五十三継 = 次」とよばれたからです。

対外政策

第三に、対外政策においても、早くから取り組みを始めていた。
 関ケ原合戦の直前、慶長五年(1600)三月に豊後臼杵(大分県臼杵市)にオランダ船リーフデ号が
 漂着します。
 大坂にいた家康はこれを堺に回航させ、船長のヤコブ・クワケルナックらから海外事情などを
 聞き、さらに浦賀への回航を命じます。
 その後、船長らは帰国を許されましたが、イギリス人の航海長ウィリアム・アダムス(三浦按
 針)とオランダ人の航海士ヤン・ヨーステン(耶揚子(やようす))は帰国を許されず、外交
 顧問になったことはよく知られています。

 家康は早くから外国諸国との交易に関心を持ち、関ケ原合戦翌年の慶長六年(1601)十月から、いわゆる朱印船貿易を始めます。
 この後、寛永の鎖国令までの三十年余りの間に派遣された朱印船は三五六艘に及ぶといわれ、家康存命中は二〇六艘と六割近くに及んでいます。
 多くの日本人が東南アジア各地に出かけ、タイのアユタヤ、フィリピンのマニラなどでは日本人町が栄えました。

征夷大将軍就任

 慶長八年(1603)二月十二日、家康は伏見城に勅使を迎え、征夷大将軍に任ぜられます。
同時に源氏長者(※1)、淳和(※2)・奨学(※3)両院別当に任じられ、牛車・兵仗(※4)も許され、さらに右大臣に昇進します。  
三月二十一日には上洛して二条城に入り、二十五日には将軍宣下の御礼として参内します。後陽成天皇と対面し、三献の儀(※5)がありました。
※1:源氏一族全体の氏長者の事を指す。
   原則として源氏のなかでもっとも官位が高い者が源氏長者となる。
※2:淳和天皇の離宮・後院。後に源氏長が奨学院とともに別当を務めた。
※3:平安時代の大学別曹の一つ。大学別曹とは、平安時代の貴族(公家)の教育機関。
※4:貴族が用いた乗り物と武器のこと。
   牛車:牛に引かせた屋形の乗り物。
   兵杖:武器を持ったまま家臣を引き連れても良い、という権利。
※5:中世以降の酒宴の礼法。
   一献・二献・三献と酒肴の膳を三度変え、そのたびに大・中・小の杯で1杯ずつ繰り返し、
   9杯の酒をすすめるもの。

 関ケ原の合戦後に天下の実権を握り、実質的に天下人にはなりましたが、豊臣公儀のもとでなお秀頼の臣下という地位に甘んじざるをえませんでした。
 しかし、将軍に任ぜられ、新たに江戸に幕府を開いたことは、徳川公儀を打ち立て、家康と秀頼や諸大名の関係が大きく変化しました。
 例えば、諸大名が年賀の礼を行う順序が以前は秀頼が先で、家康も大坂に下りましたが、将軍就任後は、豊臣公儀と並ぶ徳川公儀という権威を手中したことで、家康が大坂に下ることもなく、諸大名の秀頼への年賀も幕府をはばかって次第になくなっていきました。
 しかし、豊臣公儀は依然として残っており、諸家康の将軍就任後も、親王・諸公家・諸門跡などが年賀の礼のために大坂へ下ることは絶えませんでした。

家康と秀頼の位階・官職と千姫の輿入れ

 家康と秀頼の位階・官職についても朝廷の対応は全く平等でした。慶長七年(1602)正月に家康が正二位から縦一位に昇進すると、秀頼も縦二位から正二位に昇進しています。この年の二月に家康が右大臣に昇任すると、わずか二ヶ月後の四月には、秀頼も内大臣に昇任していました。

 このような豊臣方との微妙な関係の中で、家康にとっては孫娘にあたる秀忠の長女千姫(七歳)が慶長八年(1603)七月二十八日に秀頼(十一歳)のもとに嫁ぎます。これは秀吉との生前の約束を履行したものでしたが、徳川・豊臣の婚姻を通じて、権威の分有を図ろうとしたものでした。

将軍職を秀忠に譲る

 将軍になってわずか二年後の慶長十年(1605)四月十六日に、家康は秀忠に将軍職を譲ります。
秀忠は伏見城に勅使を迎え、将軍に任ぜられるとともに、縦三位権大納言から正二位内大臣に叙任され、淳和院別当にも補任され、牛車・兵仗を許されます。
 源氏長者と奨学院別当は、家康がそれまで通り保持しました。秀忠の内大臣就任が可能になったのは、その四日前の十二日に、内大臣秀頼が右大臣に任官していたからです。

 将軍職を秀忠に譲った家康の狙いは、徳川氏が将軍として政権を世襲することを天下に知らしめることであり、そのことは秀頼がいずれ関白として政権を担うことになるだろうとの豊臣方の期待を打ち砕くものでした。

 これを契機に徳川公儀が豊臣公儀を次第に凌駕していくことになりました。
将軍任官のための秀忠の上洛には、関東・甲信以東の諸大名四〇名余りが動員されました。この一〇万とも一六万ともいわれる大軍を率いた上洛が、大坂城の秀頼と西国の外様大名を威圧する役割を果たしました。

【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著  徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社  本多隆成著 徳川家康の決断
中央公論新社  和田裕弘著 信長公記 戦国覇者の一級資料
株式会社講談社 渡邊大門編 徳川家康合戦録 戦下手か戦巧者か
ウィキペディア
コトバンク

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