上杉氏謀反の嫌疑
豊臣秀吉の死後、徳川家康の権力掌握過程で、失脚に追い込む第一ターゲットが前田利長とすると、二番目のターゲットが上杉景勝でした。
慶長五年(1600)に入ると、会津の上杉景勝を巡って不穏な風聞が流れるようになり、家康はこれに因縁をつけていきます。
慶長三年正月に秀吉から会津への国替えを命じられた景勝は、新領国の経営を精力的に進めていました。諸城の修築、神指城(福島県会津若松市)の新築、道・橋の普請、そして兵糧を蓄え、大量の武器を調達しました。
これらのことが、上杉氏の転封後に越後に入った堀氏などから家康に報告され、謀叛の嫌疑がかけられます。このような上方での状況は景勝に伝えられますが、近国の者の讒言だとして、普請をやめることはありませんでした。
家康は当初、上杉氏による国内統治に理解を示していましたが、このような風聞を受けて、景勝に嫌疑を晴らすべく上洛するように促します。
景勝は秋までの猶予を求めたようですが、家康は四月十日に上洛を迫るいわば最後通告ともいうべく、伊奈昭綱を正使とし、増田長盛の家臣河村長門および毛利輝元・大谷吉継は家臣の三名を添え、都合四名の使者を会津に派遣しました。
この使者が持参したのが四月一日付直江兼続宛の西笑承兌(せいしょうじょうたい)(秀吉から家康に用いられた臨済宗の僧)書状であり、そこでは起請文をもって弁明し、上洛して陳謝するようにと勧告しています。
「直江状」の真偽
これに対する返書といわれるのが四月十四日付のいわゆる「直江状」です。そこでは嫌疑などについて弁明・反論し、讒人を避難するとともに、家康の方こそ上洛できないように仕向けていると断じています。
家康は激怒し、上杉討伐に踏み切ることになったといわれてきました。
しかし、この「直江状」はなかったという考えもあります。
第一に、そもそも四月一日付の承兌書状を持参した伊奈昭綱が、島津義弘の複数の書状にみられるように、四月十日に伏見を発ったとすれば、会津までの距離を考えると、十四日付で「直江状」が、書かれることはありえない。
第二に、四月下旬に会津に着いた伊奈ら一行に対する上杉方の返答が、「上洛する」であったことが、五月十八日付森忠政宛徳川秀忠書状によって知られている。
直江状の有無にかかわらず、家康は上洛をすぶる上杉氏の態度を豊臣政権に対する謀叛とみなします。
その後、景勝は態度を一変して、上洛を拒むことになります。
上杉氏の上洛拒否
家康からの上洛の催促に対して、上杉景勝は秋までの延期をして欲しいと奉行衆に返答したところ、重ねて逆臣の讒言を入れて、上洛しないのであれば、軍事行動を起こすといわれた。
そのため、景勝はもともと逆心のつもりはないので、万事をなげうって上洛しようと決めます。しかし、讒人の糾明を申し入れたが取り上げられず、ただ上洛せよというばかりで、日限まで切られて、これでは上洛したくともできないとしています。
つまり、景勝は一度は上洛する覚悟を決めたものの、家康側のその後の仕打ちにより、六月には上洛の催促を拒否するに至ったのです。
上杉討伐へ
家康の上杉討伐の意向は早くから固まっていたようにもみられます。
四月二十七日付島津義久宛島津義弘書状によれば、その日の朝に義弘が家康を訪ねたところ、つぎのようにいわれたという。
上杉景勝の上洛が延引しているので、伊奈昭綱らを会津に下向させた。六月上旬には上洛するよういってあるが、その返事次第では、家康が出馬するとのことで、その際は伏見城の留守番をして欲しいと私に仰せ付けられた。
さらに、伊奈らの大坂帰着は五月十日頃とみられているが、それより早い五月三日付伊王資信宛家康書状では、会津方面の情勢について注進してきた下野伊王城(栃木県那須町)の資信に対してその口を守るように命じ、近く出馬して討ち果たすといっている。
六月二日には、家臣の本多康重・松平家信・小笠原広勝らに対して、七月下旬に奥州方面へ出馬するので、油断なく準備するよう命じています。
さらに、六日には諸将を大坂城西の丸に集めて、会津攻めの部署と進路を定めます。八日には家康の出馬を慰労するため、朝廷から晒、百反が送られています。十四日には上杉領国に近い伊達政宗・最上義光・佐竹義宣らが、大坂からそれぞれ領国へ下りました。
今回の会津攻めは、豊臣政権による上洛要請に従わなかった上杉景勝の征伐ということで、まさに豊臣公儀を背負った出馬でした。そのため、家康は十五日に本丸に出向いて秀頼に暇乞いをし、秀頼から黄金二万枚・米二万石などの餞(はなむけ)がありました。
前田・増田・長束の三奉行は、家康が不在になると上方の情勢が不安定になるのではないかと恐れて諫止しましたが、家康の決意は変わることはありませんでした。
家康自身の大坂城からの出馬は慶長五年(1600)六月十六日であり、その日は伏見城に入り、翌日伏見城の留守を鳥居元忠・松平家忠らに命じます。十八日に伏見城を発ち、七月二日に品川まで迎えにきていた秀忠とともに江戸城に入ります。七日には十五ヶ条の軍法を定めるとともに、会津への出馬を二十一日とし、全軍の持ち場も確定しました。
石田三成の挙兵
徳川勢が上杉景勝の会津征伐へ向けて進軍中の、慶長五年(1600)七月十一日、近江佐和山城で退隠の身であった石田三成は、大谷吉継を誘って挙兵し、大坂へ上洛してきた五大老の毛利輝元や宇喜多秀家を見方に取り込みます。
彼らの狙いは家康の会津出陣を機に、徳川氏から政権中枢を奪還することでした。
その後彼らは、大坂城西の丸にいた徳川勢の留守居を追い出し同城を占拠し、豊臣政権の政務を担う三奉行(前田玄衣・増田長盛・長束正家)が応じました。
そして、三奉行は、家康が誓詞や秀吉が定めた決まりに背き、自身の思うがままに政権を主導してきたことを連署書状にあげ、諸大名・小名に秀頼への忠節を求め、挙兵に応じるように促しました。
さらに毛利輝元が大坂城に入って、秀頼を擁護します。
こうして、家康とそれに与する勢力は、秀頼そして豊臣政権に敵対する勢力定義されました。
毛利・石田らの反徳川勢力(「西軍」)は、徳川方の征討や備えのために各方面に軍勢を遣わし、八月一日には、徳川家宿老の鳥居元忠や松平家忠らが留守居を努めていた伏見城を攻め落とします。
家康の行動
家康には七月十九日か、二十日頃に、三奉行(増田長盛、前田玄以、長束正家)から上洛を求める十二日付け書簡で、石田三成・大谷吉継の挙兵を知ります。
しかしながら、家康は予定を変えず、十九日にまず秀忠が先発し、ついで二十一日には家康も江戸城から出馬しました。
行軍中の二十三日には、三成らの挙兵を受けて、最上義光に会津への進軍をやめ、後命を待つように命じています。おそらくそれと同時に宇都宮に集結しつつ合った豊臣諸将来に小山(栃木県小山市)に集まるように伝えたと思われ、家康が二十四日に小山に着くと、翌二十五日にいわゆる「小山評定」が開かれました。
【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著 徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社 本多隆成著 徳川家康の決断
中央公論新社 和田裕弘著 信長公記 戦国覇者の一級資料
株式会社PHP研究所 河合敦著 徳川家康と9つの危機
株式会社河出書房新社 本郷和人著 徳川家康という人
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コトバンク
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