徳川家康 家康はいかに大名を統制し、秀頼と付き合ったか。

徳川家康

御手伝普請・・・徳川公儀の実質化

 家康が将軍になったことで、新たに徳川公儀を打ち立てることが可能になったことの他に、新たに諸大名を主従関係に組み込むことが可能になりました(この時点で主従関係が結ばれていたわけではありませんが・・・)。
 その際、諸大名を豊臣秀頼から切り離し、家康に臣従させるために絶大な効果をあげたのが御手伝普請(おてつだいぶしん)でした。

 御手伝普請とは城普請において助役として諸大名を動員したもので、諸大名はその石高に応じて家臣と人夫を率いて普請に従事することになり、軍役に準ずる意義を持ちました。

江戸城の普請

 最初の御手伝普請は、慶長十一年(1606)の江戸城普請でした。

 それに先立ち、将軍任官直後の慶長八年(1603)三月から江戸市街地の大拡張工事が行われました。日本橋から新橋に至る市街地が造成され、碁盤目状の区画整理が行われ、新たな町屋が起こされ、街道も日本橋を起点として整備されることになりました。

 その上で、江戸城の大改築を行うことになりました。慶長九年八月には西国の外様大名を中心とする二九人に石材運搬のための石綱船の建造を命じました。
 助役を命じられた諸大名は江戸に下り、家臣を伊豆に遣わして石材を切り出し、江戸へ輸送しました。石綱船は三千艘にも及び、一艘に百人持ちの石を二つずつ入れて、月に二度江戸との間を往復したといわれます。   

 慶長十一年(1606)三月一日から江戸城の大改築普請が開始されました。助役として動員されたのは西国の外様大名二二名で、二の丸・三の丸の縄張(基本設計)は藤堂高虎に命ぜられました。

駿府城の普請

 翌、慶長十二年は大御所家康の居城となる駿府城の大改築普請が行われました。
二の丸を中心とした秋の普請では、西国の外様大名二五名が動員されましたが、その大半は前年江戸城普請に携わった大名たちでした。

 この御手伝普請は慶長十四年(1609)の丹波篠山城、十五年の尾張名古屋城・丹波亀山城、十九年の越後高田城と続きました。

 この御手伝普請は将軍への求心力を高めるのに絶大な効果がありました。また、駿府城以降の御手伝普請で注目されるのは、外様大名の改易と譜代大名の進出とが相まって、大坂城や西国の外様大名を意識して進められたことです。
 いわゆる大坂包囲網の形成が図られ、それとともに徳川氏にとっては、畿内から西に始めて譜代大名を配置したという意義もありました。

※丹波普請篠山城
この普請は家康ではなく、将軍職を継いだ秀忠が動員命令を発することで、諸大名に暗に徳川家に臣従を求めました。諸大名はこの意図を汲み取り、以前の普請よりも人数を多く用意するなどして、家康・秀忠に臣従の意を示したといわれます。

駿府の家康と江戸の秀忠

家康は秀忠に将軍職を譲り、慶長十二年(1607)に駿府に居城を移します。

 このことによって、二元政治が行われるようになったといわれますが、家康は大御所として引き続き実権を握っており、将軍秀忠が家康の意思に反することはありませんでした。
 駿府の家康の方に、多彩な人材が集まり、軍事指揮権や外交権もあり、家康の権限が圧倒的に大きい体制でした。しかし、諸大名の動員や支配においては、家康が東海・北陸から西の諸国を、秀忠が関東・奥羽の諸国といったような、おおよその分担はあり、将軍秀忠にもそれなりの支配の実体はありました。

 家康側の大御所政治の中枢を担ったのが駿府奉行衆でした。
本多正純(本多正信の嫡男)を筆頭に安藤直次・成瀬正成・大久保長安・村越直吉の五名が中心で、駿府からの発給文書もこの五名による連署状が多くなっています。

 江戸の将軍秀忠の方にも、江戸奉行衆が置かれていました。
家康の信頼が厚く秀忠のお目付け役的な本多正信と早くから秀忠の側近であった大久保忠隣とが双璧で、これに酒井忠世・土井利勝・安藤重信・青山成重らでした。

 家康は本多正信・正純父子を通じて、駿府と江戸の情勢を把握していました。

秀頼との関係 ・・・ 後陽成天皇の譲位

 慶長十年(1605)以降、家康は秀忠に臣従するように働きかけるようになります。
慶長十年に秀忠に将軍宣下がなされた際、家康は高台院(秀吉室北政所)を通じて、秀頼に上洛して秀忠の将軍就任を祝うように求めますが、秀頼は淀君が許さなかったこともあり、この求めに応じませんでした。

 しかし、慶長十六年(1611)三月二十七日の後陽成天皇の譲位の日に出来事が起こります。
後陽成天皇の譲位の翌二十八日に、家康の要請を受け、大坂から秀頼が上洛してきて、二条城で家康と対面したことです。
 二条城では家康が庭上にまで出て丁重に出迎え、挨拶も対等にと申し出ましたが、これを断った秀頼は、自分からの挨拶としました

 この二条城での対面の本質は、秀頼が大坂城から京都にある二条城(徳川の城)にやってきて御礼をしたこと、つまり臣下の礼をとったところにあり、誰の目にも明らかにする儀式であったといえるところにありました。

 さらに家康は、譲位にあたり上洛していた国持大名を二条城に集め、幕府が発布する法度をまもること、法度や上位に背いた者を匿わないこと、謀反人・殺害人を召し抱えて行いことを約束する誓紙を差し出させ、主従関係強化に努めています。

秀頼との関係 ・・・ 後水尾天皇の即位

 第二は、後水尾天皇の即位の当日である四月 十二日付けで、在京の諸大名に三か条の「条々」を示し、起承文をあげさせたことです。
 内容は頼朝以来の法令に触れながら、江戸の将軍から出された法令を、堅く守るように誓わせたのです。

 これに署名したものは北国・西国の諸大名二二名でした。関東・奥羽の諸大名には翌慶長十七年(1612)正月五日付で一一名の諸大名に同様の起承文をあげさせました。同時に、関東・甲信越の譜代・外様の中小諸大名にも、別途同様の処置をとりました。
 こうして全国の有力外様大名がこの起承文に署名していることは(秀頼は署名していませんが)、諸大名の臣従化が一つ頂点を迎えたことを示していました。

朝廷との関係

 慶長十一年(1606)四月に上洛した家康は、二十八日に参内して後陽成天皇に歳首を賀しました。
その際、今後は幕府(家康)の推挙がなければ、武家に官位を与えないように、強く申し入れました。これは、朝廷と大名たちとの直接のかかわりを断つという点では大名統制にも関係しますが、朝廷の権限を制約するものでした。

 さらに、幕府にとって朝廷に深く介入する機会となったのは、若手の公家衆と天皇の女房衆との宮女密通事件でした。
 天皇が寵愛する宮女二人が含まれていたため、天皇の怒りは激しく、死罪にすることを求めました。しかし、京都所司代の調査で極刑は避けるようにとの家康の意向が伝えられると、天皇は処罰を家康に任せることになりました。
 この宮女密通事件を契機として、京都所司代の手が朝廷内部に深く入り込むことになりました。

【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著  徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社  本多隆成著 徳川家康の決断
中央公論新社  和田裕弘著 信長公記 戦国覇者の一級資料
株式会社講談社 渡邊大門編 徳川家康合戦録 戦下手か戦巧者か
ウィキペディア
コトバンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました