【この記事に関連する場所】
①小田原城、②駿府城、③山中城、④韮山城、⑤石垣山城、⑥岩付(槻)城、⑦鉢形城、
⑧八王子城、⑨掛川城、⑩浜松城、⑪横須賀城、⑫吉田城、⑬岡崎城、⑭箕輪城、⑮館林城、
⑯大多喜城、⑰江戸城、⑱米沢城、⑲会津黒川城、⑳佐沼城、21清洲城、22岩出山城、23平泉
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小田原合戦
徳川氏の出陣は当初、天正十八年(1590)正月二十八日、その後二月一日となっていましたが、雨天により延びて、二月初旬から始められ、家康自身は二月十日に出陣しました。
この際、家康は豊臣政権のもとで大規模に行われる戦いのため、諸将には戰陣中における軍勢の行動規制を定めた十五カ条の軍法を定め、これまで以上に統制のある軍事行動を求めました。
出陣した徳川勢は、東海道筋の領国内の諸城を後続の豊臣軍に明け渡し、北条領国との境目である駿河国東部へ進軍しました。
これに対して北条氏は、すでに前年十二月から領国内の防備を固め始め、本城の小田原城には一門衆や従属国衆を参集させていました。
そして、三月三日伊豆国三島(静岡県三島市)にて戦端が開かれました。
一方、豊臣秀吉は二月二十八日に朝廷に参内して後陽成天皇から節刀(せっとう)を賜ります。
節刀とは、征夷大将軍などが出征する際に与えられるもので、これによって秀吉は小田原征伐の正当性を手に入れます。
そして、三月一日に京都を出陣した秀吉は、同月十九日、徳川氏の本城である駿府城到着します。
翌日の二十日、家康は秀吉のもとに出向き、二十七日秀吉は駿河国沼津へ進軍し三枚橋城を小田原攻めの本陣と定めます。
二十九日には、羽柴秀次を大将に、徳川勢を含む軍勢の攻撃によって、北条方の要所にあった山中城(静岡県三島市)、韮山城(静岡県伊豆の国市)にいっせいに攻撃を開始しました。山中城は半日で落城しました。
・山中城:三島と箱根を結ぶ街道を取り囲む形で構築され、関所としての機能を持っていたと考えら
れる。
・韮山城:伊豆国統治の中心であり、伊豆から小田原に通じる街道をおさえる位置にあったことから
西方に対する防衛拠点であった。
さらに、豊臣軍は小田原に向けて進軍し、四月には小田原城を包囲します。
秀吉は小田原城を見下ろす笠懸山に石垣山城(神奈川県小田原市)を築き、本陣を移します。
家康が布陣したのは、小田原城の東方になる酒匂川方面でした。
小田原攻めの軍勢は二十万ともいわれ、しかも豊富な補給物資を持って攻め込んできたのですから、北条氏は豊臣政権の実力を見誤ったといわざろう得ません。
この包囲の最中、四月八日には、北条方として小田原城内にいた下野国衆の皆川広照が助命を願い出ています。秀吉は、広照が以前、従属の態度を示していたことから特別に赦し、家康に従わせます。
また、この包囲の最中、伊豆国(静岡県伊豆半島)が徳川氏に与えられていて、四月二十三日、家康側近の本多正信は下田(静岡県下田市)など攻略を終えた地の土豪に、復興に努めるよう指示を出しています。
各地の大名の参戦
この頃、東山道方面からは上杉景勝や前田利家率いる北陸・信濃勢が、上野国の北条方諸城を攻略し、武蔵国へと進撃していました。
また四月末から、浅野長吉・木村一の両人を大将に、徳川家重臣の本多忠勝・平岩親吉・鳥居元忠の三将を配した軍勢が、武蔵国南部、下総・上総両国(東京都葛飾区・江戸川区、千葉県北部から中部の地域)の平定に遣わされ、北条方諸城の攻略を進めました。
そのうえ、豊臣政権に従属していた北関東の佐竹・結城・宇都宮諸氏の大名・国衆と安房里見氏が攻勢に呼応して進軍していました。
各方面からの攻撃は厳しく、北条領国は劣勢に立たされます。
五月二十二日には武蔵岩付城(埼玉県さいたま市)、六月十四日には武蔵鉢形城(埼玉県寄居町)、さらに六月二十三日には武蔵八王子城(東京都八王子市)と、いずれも北条一門衆が管轄する要城が攻落し、いよいよ追い詰められる状況となりました。
北条氏の降伏
さて追い詰められた北条方は、まず六月二十四日に韮山城の氏規が家康の陣所に来て投降し、
終に七月五日、当主の北条氏直は滝川雄利の陣所に駆け込み投降し、翌六日小田原城は開城します。
こうして北条早雲以来五代、百年にわたって関東に雄飛した北条氏も滅亡します。
秀吉は氏政・氏照兄弟と重臣二名に自決を命じ、十一日には氏政、氏照らが切腹、当主の氏直は家康の娘婿であったことから助命され、高野山に遣わされることになりました。氏規もこれに従い高野山に赴きました。なお、氏直は翌天正十九年(1591)に嗣子なくして死去したため、近世の北条氏は氏規の系統で存続し、のちに河内狭山藩(大阪府大阪狭山市)で一万石を領しました。
論功行賞・・・家康の関東移封
天正十八年(1590)七月十三日に小田原城ヘ入った秀吉は小田原攻めの論功行賞を行います。
家康にはほぼ北条氏の旧領である伊豆・相模・武蔵の全域、上総・下総・上野の大半と下野の一部が与えられました。つまり、この時点で家康は秀吉から正式に(実は五月くらいに決まっていた?)関東移封を命じられます。
(家康が旧北条両国に転封されたのは、家康が北条氏への取次を担当していたにもかかわらず、北条氏の従属を実現できず、開戦に至ってしまったからと考えられます)
三河・遠江ほか家康の旧領五カ国は織田信雄に与えられることになりましたが、信雄が父:信長の領地であった尾張・伊勢にこだわり、拒否したため改易(取り潰し)され、下野那須(栃木県那須町)二万石に移されました。
このため東海道の諸城には豊臣系大名が配置されることになりました。
駿河一国は中村一氏に与えられ、十四万五千石で駿府城に入りました。遠江では、懸川城に五万石で山内一豊、浜松城には十二万石で堀尾吉晴、横須賀城には三万石で渡瀬繁詮、三河では吉田城には十五万二千石で池田輝政(池田恒興の次男)、岡崎城には五万七千四百石で田中吉政でした。
また、十万を越える徳川氏の最上級家臣について、その知行高や入封地についても秀吉の指示があったことも知られています。上野箕輪(群馬県高崎市)十二万石の井伊直政、同館林(館林市)十万石の榊原康政、上総万喜(千葉県いすみ市。のち大多喜(大多喜町))十万石の本多忠勝がそうでした。
なお、この合戦中に、すでに奥羽の伊達政宗、最上義光、南部信直らは小田原に出支し、が参陣、秀吉への臣従の態度を示しています。
家康の関東移封・・・豊臣政権下での家康の役割
関東ヘ移封した家康は、それまでの北条氏の居城小田原城ではなく、北条氏の一支城であった江戸城に入ります。
家康の関東移封については「秀吉が家康を恐れるあまり、あえて辺鄙な東の地に左遷した」といわれてきました。しかし、家康の豊臣政権下での役割から以下の2つの理由が考えられいます。
1.家康が小田原合戦で先陣を務めたことからも、家康は豊臣政権下での「関東・奥両国惣無事」
達成のため外交・軍事面での活躍が期待されていた。
さらに、合戦後は関東地方の安定と奥羽方面への押さえとして、関東へ入封されたとする説。
2.そもそも家康は北条氏との取次を任せれていたが、秀吉への出仕を実現できず、合戦を回避
できなかったことへの責任を負わされ、北条領国の復興対策にあたらされたとする説。
いずれにせよ、家康はこの危機にあっても、埋め立てや運河の開削などの土木事業を展開して、江戸を中心とする新領国の発展の礎を築いていきます。
秀吉の奥州仕置き
この後、秀吉は「関東・奥両国惣無事」の実現に向けた総仕上げとして奥羽仕置きの執行のために、七月十七日小田原を出発し、二十六日下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)に入ります。
ここで新たに安東(秋田)実季、相馬義胤らが出仕します。また伊達、最上両氏には、奥羽仕置きの補佐(案内)を命じます。
他方では、大崎、葛西、和賀、稗貫諸氏の所領没収などが決定されます。
八月九日には陸奥国会津黒川(福島県会津若松市)に入り、そこでは新たに白川、田村ついで石川の諸氏の所領没収となりました。他方で葛西・大崎氏の旧領国は木村吉清に与えられました。
伊達政宗は会津領は没収されましたが、、本領は安堵されて米沢城に入り、伊達氏の会津などの旧領は、代わって会津黒川城に入った蒲生氏郷にあてがわれました。
その他の諸大名の妻子の上洛、検地・刀狩・城破(城郭の破却)などの諸政策の実行を命じて、秀吉が京都に凱旋したのは九月一日のことでした。
この関東・奥羽仕置きを経て、豊臣政権の「関東・奥両国惣無事」は実現し、天下統一がなります。
そして、家康は新たな領国となった関東を舞台に活動していきます。
天正十八年九月一日、羽柴秀吉は陸奥国会津での奥羽仕置きを終え、京都に到着します。
しかし、豊臣政権による奥羽仕置きに反発した武士・百姓による一揆が蜂起し始めていました。
奥州武士の反乱
改易となった大崎・葛西両氏の旧臣らが、秀吉が旧大崎・葛西領(宮城県北部・岩手県南部)に配置した木村吉清に対して一揆を起こします。
この一揆に対して、伊達政宗や、奥羽仕置きによって会津に配置された蒲生氏郷が出陣。家康も榊原康政と結城秀康らの軍勢を派遣することにしました。
しかし、政宗と氏郷は、政宗自身が陸奥蘆名氏を滅ぼして得た会津領(福島県会津若松市を中心とした地域)に氏郷が配置されたことや、氏郷が、大崎・葛西一揆の背後に政宗の影響を疑っていたことから関係が悪化、両者の関係は緊迫した状況となりました。
そして、十一月二十四日氏郷は秀吉に「政宗別心」を訴えるに至ります。
秀吉は十二月十五日、徳川・結城両氏や、甲斐・信濃・駿河・遠江各国に配置した諸大名、常陸佐竹氏に、十八日には羽柴秀次にも出陣を命じました。
ところが、政宗は十一月二十四日、一揆勢により陸奥佐沼城(宮城県登米市)を攻囲されていた木村吉清を救出しします。また、この軍功も氏郷により秀吉に報告されました。これによって出陣はいったん取りやめとなり、二十七日にあらためて秀次・家康に出陣を命じました。
家康は翌年の天正十九年(1591)正月十一日に江戸を出陣しますが、、同日、 政宗と氏郷の不和が解消したとの報告を受けて、十三日武蔵国岩村から江戸に引き返します。
伊達政宗の上洛と家康の奥羽移封?
豊臣政権はこの情勢を招いたことに対する処置をするため、政宗に上洛を命じます。
正月三十日に出羽国米沢(山形県米沢市)を発った政宗は、尾張国清須で鷹狩りに秀吉に謁見した後、京都に入ります。
この間、江戸では関東移封の時と同様に、政宗の関わった陸奥国の混乱した情勢を平らげる処置を、徳川氏が負わされるという意味で、陸奥国に移封されるとの噂が立ちます。
しかし、秀吉は二月と政宗に対して、木村吉清が改易となった大崎・葛西領への移封の処置を下し、ました。伊達氏は秀吉の処分に従い、まずは大崎・葛西一揆の制圧に努めていきます。
九戸一揆
天正十九年(1591)三月、陸奥国では陸奥南部氏の一族・九戸政実が一揆を起こし、南部信直に反旗を翻します。
信直は鎮圧のため、豊臣政権に援軍を求めます。
これを受けて、秀吉は六月二十日、羽柴秀次を総大将として、徳川家康、上杉景勝、佐竹義宣、蒲生氏郷、伊達政宗に出陣を命じます。
家康は七月十九日に出陣。
陸奥国白川(福島県白河市)を経て、八月七日には秀次とともに二本松(福島県二本松市)に到着した家康は、秀吉に命じられていた、政宗によって一揆が制圧された大崎・葛西旧領における伊達・蒲生両氏の知行割(郡割)にあたります。
その後、家康は政宗の陸奥国岩手沢(宮城県大崎市)への入部につき、伊達氏の本城となる岩出山城や佐沼城の修築に尽力します。また、あらたに伊達領国となった地域の整備には、榊原康政があたっています。
徳川氏は伊達領国の整備に努め、伊達氏存立のために尽くします。
一方、九戸一揆は、九月四日に、蒲生氏郷、堀尾吉晴、徳川家重臣井伊直政らによって平定されました。
これを受けて同月中旬、家康は秀次と平泉(岩手県平泉町)を訪れた後、十月二十九日に江戸に帰ります。
こうして奥羽の政治状況は平和を遂げ、家康は関東領国の運営を、より一層進めていきます。
【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著 徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社 本多隆成著 徳川家康の決断
中央公論新社 和田裕弘著 信長公記 戦国覇者の一級資料
株式会社PHP研究所 河合敦著 徳川家康と9つの危機
株式会社講談社 徳川家康合戦録 戦下手か戦巧者か
朝日新聞出版 黒田基樹著 徳川家康の最新研究
ウィキペディア
コトバンク
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