後白河法皇の死去と平時幕府体制への移行 ・・・ 御家人たちは不満!?

源頼朝

後白河死去

1192年3月14日後白河が死去します。享年66歳。
中継ぎとして皇位に就き、幽閉や院停止の苦難にあい、頼朝に「日本一の大天狗」と呼ばれながらしたたかに生き、ついに正統王権を確立した波乱の生涯でした。

頼朝は後白河が自らの正当性の拠り所であったため、方針転換を余儀なくされます。政権の実権は九条兼実が握り、頼朝は先の会談通り兼実と連携することになります。

兼実は後白河の中宮である娘・任子の皇子出産を期待し、また、頼朝の娘婿・一条能保の娘を長男・良経の室に迎えるなど、頼朝への接近に努めます。
1993年能保の娘はのちの九条道家を出産します。その子・三寅(みとら)(九条頼経)は河内源氏の血脈につながることともあり、幕府の四代目将軍に迎えられることになります。

2度目の上洛

後白河は死去しましたが、近臣勢力が消滅したわけではなく、1195年に2度目の上洛をおこなった頼朝は、再び大姫の入内を画策し、後鳥羽の後宮を支配する丹後局(後白河の妾)や宣陽門院(後白河と丹後局の娘)らに接近します。

大将軍の要求

1192年7月頼朝は「大将軍」任官を朝廷に申し入れます。
頼朝は兼実との協調関係を象徴する官職が必要でした。しかし、簡単に上洛できないため、京以外にいても就任可能で、二位の公卿にふさわしい官職を求めたのでした。

朝廷では惣官(総官)、征夷大将軍、征東大将軍、上将軍が検討されます。
このうち惣官は1181年に平宗盛が頼朝追討のために任じられたもの、征東大将軍は同じく源(木曽)義仲が源頼朝追討のために任じられたもので不吉であり、上将軍は中国の例であることから却下されあます。そのため、征夷大将軍に就任します。

頼朝が大将軍を求めたのは、鎮守府将軍になった先祖の頼義や、同じく鎮守府将軍になった藤原秀郷らを超える地位が必要だったといわれます。唯一絶対の武家の棟梁にふさわしい官職として、頼朝は「将軍」の上に立つ「大将軍」を求めました。

将軍家政所下文(しょうぐんけまんどころくだしふみ)

政所は親王、三位以上の公卿に許された家政機関で、鎌倉幕府では一般政務・財政を担当しました。
頼朝の政所は1185年4月、平氏追討により縦二位に叙されたあとに設置されたと考えられており、公文所別当であった大江広元が別当となります。

頼朝は最始に千葉常胤に政所下文を授与します。常胤を重視したことを意味しますが、常胤は反発します。それまでの袖判下文とは違い頼朝の花押はなく、家司の署名があるだけで、後々の証拠として不十分と抗議しました。このため、頼朝袖判下文も発給します。

袖判下文には花押など生の人格が表に出ていたのに対して、政所下文は政所という幕府組織を利用して、頼朝の官位による王朝権威で鎌倉を絶対化させる目的がありました。
政所下文にの発給は主従関係が、戦があった時の人格的な結合から、平時での制度的な結合へと移行していったことを意味します。

鎌倉幕府をより安定的に機能させるには、その根幹である御家人制を整備する必要があったと思われます。そのために征夷大将軍という新たな官職が欠かせなかった。逆にいうと、主従関係の再定義が完了すれば征夷大将軍という官職に縛られる必要もなくなります。そのため頼朝は2年余りで征夷大将軍を辞職します。

まとめ

後白河が死去し、頼朝は九条兼実との連携を強めていきます。また、平和な世の中となったことで幕府の統制機構を変更する必要がありました。
その為、頼朝は朝廷に「大将軍」就任を要求し、征夷大将軍に就任します。
頼朝は官職を利用し、袖判下文を政所下文に変更するなど、平時での御家人との主従関係の再定義を進めていきます。

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