源頼朝 頼朝が挙兵を決意した背景

源頼朝

以仁王(もちひとおう)の令旨

◆以仁王◆
以仁王とは、後白河天皇の第三皇子で、母親は権大納言藤原季成(ふじわらのすえなり)の娘で、身分も高く、学問にも秀で、人望もあり天皇への即位を期待されていました。
しかし、異母兄弟の憲仁(後白河天皇の第七皇子、のちの高倉天皇、母は平滋子(建春門院))の即位を目指す平氏から妨害され、親王宣下も受けられていませんでした。
さらに、平清盛宗盛らが後白河法皇を幽閉したことや、天皇に逆らい仏法を破滅させようとしたことから、平氏の横暴により以仁王の怒りが高まります。

◆以仁王の令旨◆
治承4年(1180)4月9日以仁王は平家打倒を命じる令旨を出し、この令旨を源頼政の嫡男・伊豆守仲綱が発給し、源行家によって諸国の源氏に配布されます。
源頼朝のもとには4月27日にもたらされました。

  • 親王:嫡出の皇子や最高位の皇族男子に与えられる称号
  • 親王宣下:親王の称号を許すという宣下を下すこと
  • 令旨:皇太子や皇后、親王・諸王などの皇族の命令を伝える文書のこと
       天皇の命令は「宣旨」、上皇の命令は「院宣」

平氏の横暴

◆密告政治◆
京の市中におかっぱ頭の禿(かむろ)という子供を放ち、市中の情報取集にあたらせた。平氏に対する不満の報告を受けた場合はその者を捕らえ、私財なども押収した。まさに密告の恐怖政治が展開されていた。

◆圧政◆
藤原基房(摂政・関白藤原忠通の次男)の従者が、平重盛(清盛嫡男)の子・資盛と道中で鉢合わせとなった際、その無礼をとがめて暴行を加えた。
基房は暴行を加えた相手が重盛の子と分かり謝罪したが重盛は受け入れず、基房が参内した際に資盛に暴行を加えた従者を襲撃した。周囲は平家の横暴さに恐怖した。

◆鹿ヶ谷事件◆
安元3年(1177)鹿ヶ谷(京都市左京区)で後白河法皇の近臣、藤原成親、藤原成経、西光、俊寛が中心となり、「打倒平家」の密議を行った。しかし、多田行綱の密告により、清盛の耳に入ってしまう。清盛はただちに、首謀者の捕縛を命じ、流罪などの刑を言い渡した。
西光は清盛の前に引きずり出され、「平家に逆らったものはこうなるのだ」と顔を踏みつけられた。しかし、西光はひるまず、卑しい身分の清盛が太政大臣になったことを嘲笑した。清盛は激怒し、拷問を命じ、事件に関する自白を強要して口を裂かれ五条西朱雀で首を切られた。

以仁王の乱

◆計画の失敗◆
以仁王の打倒平氏計画は途中でバレ、以仁王は園城寺(滋賀県大津市)に脱出します。
平氏は園城寺の攻撃を決定。王と源頼政は園城寺を脱出しましたが平氏の追撃を受け、頼政は木津川の河原、以仁王も興福寺の目前で命を落としました。

◆福原遷都◆
清盛は反旗を翻されたことで、大きく動揺し安徳天皇、後白河、高倉院を強引に福原に退避させ、福原遷都の引き金となりました。

まだまだ平氏の横暴がはびこる世の中でしたが、以仁王と頼政の挙兵によって時代の流れが変わり始めます。

源頼朝挙兵

◆頼朝の状況◆
以仁王の乱後、平氏の中心人物の一人時忠(清盛義弟)が伊豆の知行国主になったり、三好康信(頼朝の乳母の妹の子)が「平氏が諸国の源氏の追悼しようとしているので、直ちに奥州藤原氏の元に逃れるように」と言ってきたり、伊豆および頼朝の周辺も騒がしくなってきました。

◆頼朝の挙兵理由◆

  • 知行国主変更による北条氏以下在庁官人の改変
    →伊豆国衙の実権は伊東氏が握り、源頼政に近かった工藤氏、北条氏の地位が低下した
  • 平氏に対する反発
    →知行国主の変更により、坂東各地では知行国主に近い存在となった平氏家人や平氏方
     目代により旧知行国主系の豪族たちが圧迫されていた。
  • 大庭景親の下向
    →清盛直属の精鋭である大庭景親が源頼政の残党を追討するために、東国に下ってきた。
     (源頼政が伊豆国主、嫡男仲綱が伊豆守で遥任して京におり以仁王の乱で戦死。
      目代として伊豆に下向していた仲綱の子有綱は健在であった)

これらを総合的に判断し、頼朝は挙兵を決断していきます。

◆東国武士の説得◆
治承4年(1180)6月24日、頼朝は父・義朝に仕えていた東国武士に馳せ参じるように呼びかけます。安達盛長が相模国の武士を中心に説いて回ります。7月10日に帰還した盛長は「多くの武士は承諾しましたが、波多野義常山内経俊は拒絶した上、暴言を吐きました」と伝えています。
山内経俊は「今の佐殿(頼朝)が平家の世を覆そうとするなど、富士山と背比べをするようなものだ」と嘲笑ったといいます。

◆挙兵◆
頼朝は8月6日に8月17日に挙兵することを決意します。(三嶋大社祭日の日)
標的は平時忠の目代・山木兼隆、その後見の堤信遠でした。
山木兼隆も頼朝同様に流罪になり伊豆に滞在していましたが、知行国主が平時忠に代わったことで目代として、現地採用されました。流罪となる前は検非違使を務めていました。

挙兵時の頼朝の兵力は90騎といわれ、山木邸には北条宗時義時工藤茂光が向かい、堤邸には佐々木兄弟が向かいます。佐々木兄弟は信遠討伐後に山木邸に合流します

当日は三嶋大社の祭礼にあたり警備は手薄でしたが、館に残った兵の激しい抵抗に合い、なかなか決着がつきませんでした。頼朝は自分の警護にあたっていた佐々木盛綱も山木邸に向かわせ、やっと兼隆の首をとることができ、胸を撫でおろします

まとめ

以仁王の挙兵が失敗に終わると、東国の知行国主も平氏に近い者が就任するなど平氏の支配が東国にも及んできます。旧知行国主のもとで力を持っていた豪族達は次第に圧迫されるようになっていきます。北条氏もその一人でした。

そうした背景をもとに頼朝は挙兵を決意します。
当初の兵力は90騎といわれ、北条時政(鎌倉幕府初代執権)、長男・北条宗時(石橋山の戦いで戦死)、次男・北条義時(第2代執権)らは、頼朝勢の主力でした。

平氏を滅亡に追いこみ、一族の源(木曽)義仲源義経を死に追いやり、奥州藤原氏を滅亡させ鎌倉幕府を樹立する戦いがここに始まりました。

付録:源頼朝ゆかりの地

三嶋大社や山木館跡など頼朝挙兵にゆかりの地を紹介した下記もご覧ください。

〈引用・参考〉

  • 株式会社晋遊舎 北条義時完全ガイド
  • 株式会社三笠書房 板野博行著 眠れないほどおもしろい吾妻鏡
  • 中央公論新社 元木泰雄著 源頼朝
  • 講談社現代新書 呉座勇一著 頼朝と義時 武家政権の誕生
  • Wikipedia
  • コトバンク

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