頼家の鎌倉殿就任
頼家は父の急死にともない、突然鎌倉殿に就任することになります。
経験不足、実戦の経験もないため、旧来からの御家人の信頼も不十分で、かつ、幕府の組織確立も十分ではなく不安定な状態でした。
そこで、重臣たちは頼家就任3ヵ月で頼家が直接訴訟を判断できないように、13人の御家人による合議制で対応し、13人以外に訴訟の取次を認めないことを決定しました。
その後、重臣たちは不安定な状態の頼家、次の実朝の政権下で互いに主導権争いを繰り広げるようになっていきます。
梶原景時の滅亡
先ずは、梶原景時です。
梶原景時は侍所別当として御家人たちを統制する役で、頼朝の側近でした。そのため御家人達の反感を買いやすい立場にありました。
合議制成立の3ヵ月後、結城朝光がありし日の頼朝の思い出を語り「忠臣二君に仕えずというが、あの時出家すべきだった。今の世はなにやら薄氷を踏むような思いがする」と述べます
翌々日、朝光は女官の阿波局から「景時が謀叛の証拠として将軍に讒言し、あなたは殺されることになっている」と告げられます。
驚いた朝光は三浦義村に相談し、他の御家人たちに呼びかけて鶴岡八幡宮に集まると、景時に恨みを抱いていた中原仲業に糾弾状の作成を依頼します。
御家人66人による景時糾弾の連判状が一夜のうちに作成され、大江広元に提出されました。
広元は躊躇して連判状をしばらく留めていましたが、和田義盛に強く迫られて将軍頼家に伝えます。
1999年11月12日、将軍頼家は景時に連判状を見せ弁明を求めましたが、景時は何の抗弁もせず、一族を引き連れて所領の相模国一之宮(神奈川県寒川町)に下向します。
1200年正月20日、景時は一族とともに京都へ上がる途中、東海道の駿河国(静岡県清水区)近くで偶然居合わせた吉川氏ら在地武士、相模国の飯田家義らに発見されて襲撃され、狐崎において合戦となり景時一族は討ち死にします。
頼朝の死から1年後のことでした。
比企義員の滅亡
次は、比企義員。
1203年8月頼家は重病に陥り、危篤と判断されたため家督継承の措置がとられます。
関西三十八ヵ国の地頭職は弟の千幡(頼朝次男、母は北条政子)に、関東二十八ヵ国の地頭職並びに諸国惣守護職が嫡男の一幡(頼家長男、母は若狭局(比企義員の娘))によって継承されることになりました。
一幡の外祖父・比企義員は千幡との分割相続となったことに怒り、千幡とその外戚以下(北条氏以下)を滅ぼそうと計画します。義員が若狭局を通じて頼家に北条時政を討つように訴えると、頼家は義員を病床に招いて時政追討を承諾します。
これを障子の影から聞いていた政子が、内容を時政に伝えます。時政は大江広元に義員追討を相談すると、広元は明言を避けつつもこれに同意します。
そこで時政は仏事にこと寄せて義員を名越の時政邸に呼び寄せます。義員は一族から危険であると引き留められますが、武装をしてはかえって疑いを招くと平服で時政邸へ向かいます。
時政邸では時政とその手勢が武装して待ち構え、邸内に入った義員の左右手の掴んで竹藪に引き倒し誅殺しました。
幕府を二分する戦いに勝利した時政は、大江広元と並ぶ政所別当に就任し、事実上の初代執権となりました。
頼家の滅亡
次は何と、将軍頼家。
病状が回復し、比企一族が滅亡したことを知った頼家は激怒します。
しかし、北条政子によって修善寺に幽閉され、1204年7月北条氏の手勢によって襲撃され殺害されてしまいます。
入浴中を襲撃され、抵抗した頼家の首に紐を巻き付け、急所を押えてようやく刺殺したと伝わります。
実朝の鎌倉殿就任
比企一族を滅ぼした北条時政の思惑通り、次の将軍は千幡となります。
三代将軍となった千幡は、元服と同時に後鳥羽より実朝と命名され、征夷大将軍に就任します。
ところが、2年後の1205年に今度は牧の方(北条時政の後妻)の策略が始まります。
北条時政は牧の方にそそのかされ、牧の方との間に設けた娘の婿・平賀朝雅の将軍擁立を図り、幕府は再度将軍を巡る内紛に見舞われます。
畠山重忠の乱
梶原景時、比企義員、将軍頼家に続いて次は畠山重忠です。
平賀朝雅と畠山重忠嫡男・畠山重保が酒宴の席で諍いを起こし、平賀朝雅が牧の方(北条と僅差の後妻)に諍いの権を訴えます。
牧の方は娘婿の訴えを、夫の北条時政に謀叛の疑いありと讒言します。
時政は当初否定していましたが牧の方に押し切られ、鎌倉の由比が浜に兵を集めます。
畠山重保も由比が浜に参集しますが、そこで討たれます。
鎌倉での事変を知った畠山重忠も鎌倉へ向かう途中、二俣川(神奈川県横浜市)で討ち死にします。
和田義盛の乱
今度は和田義盛。
泉親衛が源実朝を将軍職から引きずり下ろし、その代わりに頼家の遺児を擁立して北条氏を倒そうと企てます。計画は事前に発覚し未遂に終わります。
しかし、その計画に和田義盛の子「和田義重」や「和田義直」だけでなく、甥の「和田胤長」が関係者として名前を挙げられ、捕まります。
和田義盛は実朝に息子たちの解放を求めます。
息子たちは解放されますが、計画の首謀者であった和田胤長だけは解放されることはありませんでした。
北条義時は和田胤長を囚人のように縛り上げたり、屋敷を取り上げたり、和田義重に与えられるはずだった土地を横取りしたり、挑発行為を繰り返します。
さずがに和田義盛もこの行為を許すことはできず、怒りは北条義時に向けられます。
1213年和田義盛は北条氏を倒すため挙兵します。
三浦氏が直前に北条氏に寝返ってしまいましたが、北条氏との戦いを止めるわけにはいきませんでした。
和田義盛と北条氏の戦いは五分五分の戦いとなりましたが、次第に和田勢は押し込まれていきます。
そのようなとき、息子の和田義直が殺されたとの報が入り、和田義盛も戦意を失い、終には討たれ和田勢は壊滅します。
源頼朝の権威
頼家、実朝と将軍の地位が不安定であった原因は、平氏のように所領と結びついた代々の家人を持たず、腹心を婚姻関係や乳母関係で形成したため、代替りによって腹心の立場大きく変化したことにあります。
北条氏と比企氏の一体化が実現しなかったことで頼家の滅亡を招き、実朝の地位も北条氏内部の婚姻関係をめぐる内紛から、時政・牧の方によって脅かされました。
北条時政によって畠山重忠が滅亡に追い込まれますが、この際に三浦義村が攻撃に参加したことは、かつて祖父・義明を討たれた遺恨が関係したとみられ、戦時下では隠蔽されていた御家人相互の対立が表面化したとも考えられます。
敵方所領没収による新恩給与の恩恵を受けた御家人たちが、王朝権威による恩給に満足せず、外敵にかわり幕府内部に敵対者を求めたことも内紛の原因になったと考えられます。
幕府を二分する内紛が再三発生しますが、北条政子が支持した側が勝利したため幕府の一貫性が保たれ、権力の交代に伴う混乱が回避され幕府が保たれました。
源実朝も甥の公卿に暗殺され、源氏は滅亡します。
こうした重大局面においても御家人の結束をもたらしたのは、頼朝後家としての政子の権威であり、頼朝の権威が幕府を守り続けたのでした。
まとめ
頼朝の急死によって幕府体制が十分に確立されないまま、次の代へと将軍職が移っていきます。
そのような中有力御家人の権力争いが起こります、中心的役割を果たしたのが、頼朝後家の政子、北条時政・義時、つまり北条氏でした。
梶原景時、比企義員、畠山重忠、和田義盛らの有力御家人が滅亡し、源氏も三代で滅します。北条義時は父・時政をも出家に追いこみ鎌倉幕府の実権を握り、北条氏は執権として鎌倉幕府の滅亡まで権力の中心に位置します。
今から約800年前、源頼朝が日本で初めての武家政権を樹立します。現在から想像できない人間関係、事件、出来事が起こりました。
源頼朝は武士という身分を確立しました。そして、その後日本の政治に武士が大きく関わっていくことになります。
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