小牧・長久手の戦いと秀吉天下人への過程とは?

徳川家康

【この記事に関連する場所】

①岡崎城、②清洲城、③大垣城、④岐阜城、⑤兼山城、⑥犬山城、⑦羽黒、⑧小牧山城、⑨楽田城
⑩小幡城、⑪白山林、⑫岩崎城、⑬檜ケ根、⑭長久手の戦い、⑮竜泉寺、⑯加賀井城、⑰竹鼻城
⑱蟹江城、⑲岩倉城、⑳長島城、21桑名

序盤の戦い

 天正十二年(1584)三月六日に起きた、織田信雄が津川雄光、岡田重孝らを殺害したことは、信雄家中に存在する親秀吉派の抹殺であり、羽柴秀吉との断交を意味しました。

 信雄はこれを家康に相談して実施し、家康が応じたのは、当主を支持した織田家親類大名という立場と、関東・信濃の状況に関与し始めた秀吉への対抗という背景がありました。
 信雄が家中の粛清を実行すると、家康は翌七日に出陣し、岡崎城に入ります。八日に岡崎城を発し、十三日には清須城に到着し、信雄と面会します。

岡崎城(愛知県岡崎市)

 一方、秀吉は信雄と家康の行動を敵対行為と見なし、十日に大坂を発ち入京、態勢を整えた後、信雄討伐のため伊勢・尾張両国に出陣します。

犬山城の占拠

 秀吉を支持する美濃大垣城の池田恒興、その嫡男で岐阜城の元助、娘婿で兼山城(岐阜県可児市)の森長可は尾張へ出陣し、十天正十二年(1584)三月四日には犬山城(愛知県犬山市)を攻略します。

大垣城(岐阜県大垣市)
兼山城(岐阜県可児市)
犬山城(愛知県犬山市)

 家康は北伊勢志摩に派遣していた酒井忠次を尾張に向けさせ、戦いの主要な舞台は尾張になります。

羽黒の戦い

 天正十二年(1584)三月十七日に犬山城から南下してきた池田・森勢と、これを迎え撃った酒井忠次勢と羽黒(同前)で衝突します。森勢が池田勢から離れてしまった間隙を突いて、酒井勢がこれを襲撃し、撃破します。
 織田・徳川勢はこの勝利によって態勢を立て直します。

羽黒(八幡林)古戦場(愛知県犬山市)

小牧での対陣

 その後、家康は二十八日に小牧山城(愛知県小牧市)を占領し、信雄とともにここに本陣を置きます。これに対して、尾張に進軍した秀吉は、二十九日には楽田城(愛知県犬山市)に本陣を置き、織田・徳川勢に対峙します。

家康・信雄勢が一万五、六千、秀吉勢は六万余りとみられています。

小牧山城(愛知県小牧市)
楽田城(愛知県犬山市)

長久手の戦い

 小牧山城は信長が斎藤氏を滅ぼし、岐阜城に移るまでの僅かな期間に居城として築城した、石垣造りの堅牢な城郭であったため、秀吉は小牧山城を力攻めにするのではなく、家康方の軍勢を小牧山城に釘付けにして、その間に家康の本拠岡崎城を突いて後方から攪乱する作戦をとります。

 一般的に城を攻めるときは防御側の三倍、できれば五倍の兵力が必要であるといわれております。
また、秀吉は明智光秀を討った「中国大返し」や柴田勝頼を討った「美濃大返し」のように兵を動かして、勝機を伺う戦い方が得意でした。
 野戦に持ち込みたい秀吉、防御に徹した籠城戦に持ち込みたい家康の思惑があったともいわれます。

岐阜城(岐阜県岐阜市)
岡崎城(愛知県岡崎市)

 四月六日、秀吉は甥の三好信吉(のちの羽柴秀次) を総大将とし 、先陣は池田恒興、森長可の部隊で、軍艦として堀秀政、長谷川秀一を付け、二万四、五千の軍勢を三河国岡崎方面攻略のため進軍させます。九鬼義隆の水軍も三河に差し遣わしたといわれており、かなり大がかりな作戦でした。

 この秀吉の動きを察した家康は小牧山城の留守部隊として酒井忠次、石川数正、本多忠勝らを残し、信雄とともに四月八日の夜には小幡城(名古屋市守山区)に入ります。
 ここまでは秀吉の思惑通りに家康は動きます。秀吉は野戦に持ち込み勝利の目論見がたったのではなかったでしょうか。

小幡城(名古屋市守山市)

 しかし、翌九日早朝、家康方は榊原康政、大須賀康高らを先陣として、秀吉方の最後尾の三好勢を急襲すると三好勢はたちまち総崩れとなります(白林山の戦い)。
 これに対して、堀・長谷川勢は、岩崎城(愛知県日進市)を攻略(岩崎城の戦い)していた池田・森勢に急報するとともに、ただちに引き返し長久手の檜ケ根で応戦して、辛うじて家康方の先陣を撃退します(檜ケ根の戦い)

白山林古戦場(愛知県尾張旭市)
岩崎城(愛知県日進市)
桧ヶ根古戦場(愛知県長久手市)

 他方で井伊直政の旗本勢を中心とする家康本隊は、仏ケ根まで引き返してきた池田・森勢と激戦となります。
 この戦いで、羽柴方は池田恒興・元助父子は打ち死し、森長可は眉間を撃たれて即死し、信雄・家康正の勝利に終わります(長久手の戦い)。
 家康はこの勝利を各方面へ大々的に喧伝しました。

長久手古戦場(愛知県長久手市)
池田恒興戦死地(勝入塚)(愛知県長久手市)
森長可戦死地(武蔵塚)(愛知県長久手市)

 天正十二年(1584)四月九日昼頃、楽田城で敗戦の報を聞いた秀吉は、すぐに竜泉寺(愛知県名古屋市守山区)に出陣します。しかし、家康はすでに小幡城に引き上げ、その日の内に小牧山城に帰陣しました。
 これを受けて秀吉も楽田城に帰陣。同月末に岐阜方面に移動します。
この戦いで秀吉が敗れたのは、兵を動かすことが得意であった秀吉の予想を超えるスピードで家康が行動したことも要因とする説があります。

戦いの長期化

 天正十二年(1584)五月四日、羽柴勢は織田方の尾張・加賀野井城(岐阜県羽島市)を攻撃、七日に同城を落とした後、織田方の将不破広綱が守る竹鼻城(同前)を包囲します。六月十日、秀吉の水攻めによって広綱は開城します。

 この戦いの秀吉の狙いは家康を小牧山城から引き出した上で、兵力にものをいわせて決戦を挑もうとするものでした。しかし、家康はこの挑発には乗らず、両城とも後詰めを行うことはありませんでした。竹鼻城の開城には信雄の指示もあったといわれます。

 長久手の合戦後、大きな戦いはなく尾張、美濃、伊勢で一進一退の攻防が続きました。
信雄・家康方は六月十二日、小牧山城の守衛を宿老の酒井忠次に任せ、清須城に移ります。

 六月十六日に羽柴方の滝川一益が占拠していた蟹江城(愛知県蟹江町)を攻撃、七月三日に一益を降伏させます。しかし、次第に兵力に勝る秀吉方の優勢が明らかになっていきます。

 六月二十八日に大坂に帰陣していた秀吉は、七月十五日、西国・北国勢を率い、家康の本拠地三河・遠江の攻撃を視野に入れて、尾張へ再出陣を予定していましたが、蟹江城の開城を受けている八月に延期します。
 八月十五日に美濃国大垣(岐阜県大垣市)参着した秀吉は、二十六日に再び尾張に進軍します。

 尾張清須城にいた家康は二十八日、岩倉城(愛知県岩倉市)に入ります。

 両軍は尾張北部で戦闘となったものの、九月に長期化が見え、講和が試みられます。しかし、九月七日の講和交渉は決裂し、合戦は続けられました。

和睦へ

 羽柴勢は天正十二年(1584)十月下旬、信雄の領国である南伊勢地域を攻略した後、十一月初旬には信雄の本城の伊勢長島城を攻撃します。

 帰国していた家康でしたが十一月九日、救援に向かうため、清須城に出陣します。
しかし、信雄は劣勢の状況にあり、十一月六日に秀吉は長島城直近の桑名(三重県桑名市)まで進軍していました。

 この状況から、信雄は秀吉の陣所へ自ら願い出て、十二日に講和が締結されます。
この時点で家康が戦う正統性(信長の次男・信雄が信長の後継者であり、信雄をないがしろにする秀吉が許せない)を失います。
 信雄は南伊勢地域と伊賀国を割譲し尾張のみを領有することになり、人質に自身や叔父の織田長益(のちに出家して有楽斎)の実子、家臣も実子または母を差し出しました。また、家康も人質を出すことで決着がつき十六日に岡崎に兵を引きます。
 ここに三月以来続いた合戦は終わりました。

 十二月十二日には家康の立場からは、養子ということで、次男の義伊(のちの結城秀康)を秀吉のもとへ送り、宿老石川数正の子・勝千代(のちの康勝)と本多重次の子・仙千代(のちの成重)がこれに従いました。

 秀吉は十一月には、朝廷から縦三位・権大納言に叙任されます。

 翌天正十三年(1585)二月二十二日に織田信雄は大坂城に出仕し、秀吉に臣従する姿勢を明確にすると、三月一日に信雄を同じく縦三位権大納言に推挙します。そして、秀吉自身は、その直後の三月十日に正二位内大臣となり、かつて主君として奉じた信雄の官職を凌駕します。

 そして、この主従逆転により織田家に代わる天下人としての立場がより明確になりました。

 その後、秀吉は近衛前久の猶子(名目上の養子)になり、藤原姓で七月十一日に縦一位関白に叙任され、武家関白として政権を担うことになります。
 ついで、九月には朝廷に申請し、源平藤橘の四姓に並ぶ「豊臣」姓を下賜されます。
 天正十四年(1586)十二月には太政大臣に任官したので、縦一位・関白・太政大臣と官位を極めることになります。

小牧・長久手の戦いとは

 小牧・長久手の戦いでは、信雄・家康側には小田原・北条氏、四国・長曾我部氏、紀州一揆、越中・佐々成政。秀吉側には中国・毛利氏、越後・上杉氏、関東では北条氏と対立していた佐竹氏のように直接関係のない大名・領主もどとらの陣営に属することを求められました。
 そのため、全国規模での局地戦が行われ、長期に及びました。

 特に小牧・長久手の戦いとほぼ同時期におこった「沼尻の合戦」は家康対秀吉の対決の構図がそのまま展開されたとされ、家康、秀吉もその戦況に注意を払っていたという説もあります。

【沼尻の合戦】
北条氏は、天正十二年(1584)四月、北条氏から離反した由良国繁・長尾顕長兄弟とこれに隣接する佐野氏攻略のために、下野足利領と佐野領に進攻します。これに対して由良・長尾両兄弟や佐野氏らを支援する佐竹氏らは終結して佐野領に出陣してきたため、両軍は渡良瀬川を挟んで四月下旬から七月上旬までの三か月にわたり対陣した。

 小牧・長久手の戦いは、天下の実権を争う戦いと、地方の国郡境目相論がリンクした大規模な戦いであり、勝者が天下人となることが決定づけられると、近年の研究では捉えられるようになっています。

【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著  徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社  本多隆成著 徳川家康の決断
中央公論新社  和田裕弘著 信長公記 戦国覇者の一級資料
株式会社講談社 渡邊大門編 徳川家康合戦録 戦下手か戦巧者か
株式会社河出書房新社 本郷和人著 徳川家康という人
ウィキペディア
コトバンク

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