【今回の記事に関連する場所】
①一乗谷朝倉氏遺跡、②岐阜城、③蓑作城、④観音寺城、⑤桑実寺、⑥芥川城、⑦姉川合戦古戦場
⑧犬居城、⑨高天神城、⑩掛川(懸川)城、⑪浜松城
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室町幕府将軍と三好氏
室町幕府第十三代将軍足利義輝と三好氏はたびたび対立しており、将軍義輝が京都を追われることもありました。
永禄元年(1558)十一月に両者は和睦を結び、義輝が帰京すると両者は協調関係を続けていました。
ところが、永禄七年(1564)七月三好長慶が死去すると、将軍義輝とその側近は三好氏を排除し、将軍義輝主導の幕府運営を模索し出し、両者の関係は再び悪化します。
そのような中、永禄八年(1565)五月十九日室町幕府十三代将軍足利義輝が、三好義継や松永久通らに殺害されるという事件が起こります。
三好勢の目的は反三好勢力の幕府中枢からの排除でしたが、将軍義輝がこれを拒否したため将軍殺害までに至りました。
この事件後、三好勢は天下統治を進めるために、阿波国にあった足利義栄の擁立に動きますが、松永久秀・久通父子と、三好長逸(ながやす)・三好宗渭(そうい)・岩成友通(いわなりともみち)の三人衆との間に対立が生まれ、内戦となります。
そのため、義栄は征夷大将軍となりますが、入京が出来無い状態が続き(結局は入京できないまま病死する)、天下の情勢は京に将軍不在、かつ内戦という不安定な状態にあり、幕府政治が機能することが求められていました。
織田信長の上洛
反三好勢力は興福寺一乗院にいた義輝の弟・一乗院覚慶(足利義昭)を擁立を目指します。
義昭は各地の大名・国衆に自らが入京することへの助力を求めます。
まだ、三河平定中であった家康のもとにも要請がもたらされ、家康は永禄八年(1565)十一月に助力の意思を示します。
なかでも、最も積極的な意思を示したのが、織田信長でした。
(武田信玄は翌永禄九年三月に遠国のため、意に添えないと回答)
この時、信長は美濃国(岐阜県)の一色義棟(斎藤竜興)と争っており、義昭は両者の和平を調停します。
一度は和平が成り、織田勢が加わり義昭の上洛戦をおこなうことになりましたが、信長が一色氏との戦いにこだわり、戦いを継続したため、義昭の上洛が遅れることになります。
また、三好勢の抵抗も強まってきたため、義昭は滞在していた近江国矢島(滋賀県守山市)を追われ、越前国(福井県東部)の朝倉義景のもとで再起を図ることになります。
(覚慶は永禄八年(1565)十一月に野洲郡郡矢島に移り、翌永禄九年二月に還俗して義秋と改め、二年後に朝倉氏のもとで元服し義昭と改めます)
信長は永禄十年九月、美濃を平定します。
そして、居城を稲葉山に移して岐阜城と改め、義昭による「天下再興」の実現に取り組もうと「天下布武」の意思を示します。
天下布武とは、全国を平定して武家政権の樹立を目指すという意味ではなく、近年は、室町幕府の将軍政治を復活させ、畿内(=天下)に静謐を取り戻すことだと解釈されています。
越前の朝倉氏から義昭を迎えた信長は、永禄十一年(1568)九月七日、尾張・美濃・北伊勢の軍勢と、同盟関係にあった徳川氏の軍勢を率いて岐阜を発ち上洛戦を開始します。
近江に入り、三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、岩成友通)と結んで対抗した六角義賢・義治父子と戦い、十二日に箕作城(滋賀県東近江市)を落とし、十三日に本城の観音寺城(同近江八幡市)から敗走させます。
六角氏を攻略し、近江を平定した信長は、九月二十二日桑実寺(滋賀県近江八幡市)へ義昭を迎えます。そして、二十六日にはともに入京し、三好三人衆と戦い、まず山城勝竜寺城(京都府長岡京市)を落とします。ついで、摂津に入り三好三人衆の本城芥川城(大阪府高槻市)を攻め落とします。
三十日には義昭も芥川城に入ります。
義昭は十月十四日に再度入京。朝廷は十八日に従四位下に叙し、征夷大将軍・参議・左近衛権中納言に任じられ、十五代将軍として室町幕府の再興を遂げます。
信長は軍事面で義昭を支え、元亀四年(1573)二月に義昭が信長に対して挙兵するまで両者の関係は継続します。
将軍義昭と家康
家康も義昭上洛の戦いに参戦しています。
織田信長との同盟関係からの参戦と思われがちですが、永禄八年(1565)十一月二十日、義昭から上洛への助力を求められ、応じる意思を示していたので、義昭と直接的なつながりもあったためと考えられます。
元亀元年(1570)四月の若狭国(福井県西部)の反義昭勢力と、それを後押しする朝倉義景への攻撃、六月の姉川の戦いは義昭のもと信長により行われた戦いですが、家康はどちらにも従軍しています。これも信長との同盟関係だけではなく義昭との直接的な繋がりで参戦したと思われます。
当時、義昭は家康を「徳川三河守家康」ではなく「松平蔵人佐家康」として扱っています。これは徳川改姓と叙位・任官が室町幕府将軍を通した正式ルートではなく、摂関家の近衛前久を通じて認められたことにあります。近衛前久は義昭の従兄弟ですが、三好勢が擁立した足利義栄の将軍任官にも尽力しており、義昭とは折が合わず永禄十一年(1568)十一月出奔しています。
義昭が家康を「徳川三河守家康」として処遇するようになるのは、元亀四年(1573)七月信長に京都を追われた後、家康を自分の陣営に引き入れようとしてからのことでした。
姉川の戦い
新たに将軍に就いた義昭に対して、信長は諸国の大名に上洛を求めます。
越前国の朝倉義景はこれを拒否。自身の命に背いた義景に腹を立てた信長は、同盟関係にあった浅井長政(正室は信長の妹・お市の方)との約束を破り、朝倉征伐に乗り出します。
信長は金ヶ崎城を攻略するなど順調に進撃しましたが、長政の裏切りにあい命からがら京都に戻ります。姉川の戦いは浅井氏への報復合戦になります。
姉川の戦いは元亀元年(1570)六月二十八日に近江国浅井郡と坂田郡の郡境を流れる姉川を挟んで織田信長・徳川家康連合軍と浅井長政・朝倉影健(義景の一族)連合軍が戦った合戦です。
通説では織田・徳川軍の圧勝に終わったといわれていますが・・・
現在では姉川の戦いの緒戦は浅井軍が姉川を渡り信長本陣に突進し、信長は馬廻り衆での対応となり劣勢に、徳川軍は逆に姉川を渡り朝倉軍と交戦し、朝倉軍は早々に退却し、それを追撃する形であったとされています。
戦いは織田・徳川連合軍の勝利に終わりますが、この戦いから浅井・朝倉氏が滅亡するまで四年かかり。この戦いは浅井・朝倉軍の致命的な敗退ではなかったといえます。
この戦いを終えても、浅井・朝倉軍には余力があったのです。
今川氏の滅亡
そのころ今川氏は永禄六年(1563)十二月に始まった遠江での内戦が拡大していました。
同盟国であった甲斐国(山梨県)の武田信玄は助力を申し出ますが、今川氏は断り両者の関係は次第に悪化していきます。
こうした状況を尻目に織田氏は、美濃への勢力を拡大していきます。しかし、東美濃に勢力を及ぼしていた武田氏との緊張を生じさせ、永禄八年(1565)三月に両軍は衝突します。
そのような中、五月には機内で室町幕府十三代将軍・足利義輝の殺害事件が起こります。情勢の安泰と秩序の正常化(「天下静謐」が求められていました。そのなかで、義輝の弟・足利義昭は「天下再興」を図るべく、各地の大名に協力を求めました。
信長はいち早くこの求めに応じ、武田氏とは同盟締結に動き出します。武田信玄もこれに応じて、
永禄8年(1565)十一月信長養女・龍勝寺殿が信玄の四男・勝頼に嫁ぎ、両者の関係は深化します。
このことによって今川氏との同盟関係を重視する嫡男・義信(妻は今川義元の娘:嶺松院)と信玄との間で確執が生じ、義信と義信派の家臣によるクーデター計画に発展します。この計画は事前に発覚し、首謀者の重臣・飯富虎昌が処刑され、多くの者が処刑または追放されました。義信は東光寺(山梨県甲府市)に幽閉され、二年後の永禄十年十月に三十歳でその生涯を終えます。
甲相駿三国同盟における武田氏と今川氏の同盟関係は、信玄が信長に接近したことで一層悪化し、対立するようになります。そして、今川氏真は武田氏が敵対する越後国の上杉謙信へ接近し、武田氏への備えを図ります。
この結果、永禄十一年(1568)十二月今川氏との同盟関係を破棄し、駿河国への侵攻を開始します。
さらに、信玄が織田信長・徳川家康にも協働を求めていたことから、家康は遠江方面から侵攻し、武田氏と徳川氏は同盟関係となります。
その同盟の内容は以下のようなものだと考えられてします。
・今川領国への軍事進攻時期については、相互に連絡を取り合い、同時に動き出すこと
・家康は、信玄のもとに人質を提出すること(人質は、徳川重臣酒井忠次息女と家康異父弟久松
勝俊と推定)。ただし、武田氏からは人質を提出しない。
・徳川・武田両氏は、互いに連絡や合意なしに今川氏や今川方と和睦しない
・今川領国分割については、「川切」(川を境界とする)を目安とするが、互いに自力次第と
する。
・徳川・武田両氏は互いに騙したり出し抜いたりしないこと。
徳川軍は
遠江国井伊谷の近藤康用(やすもち)・菅沼忠久・鈴木重時の「井伊谷三人衆」が、家康の調略し(同地の国衆井伊氏(当主は直虎)はこの地を追われ、国衆としての井伊氏は滅亡します)、
永禄十二年(1569)正月、遠江国犬居(静岡県浜松市天竜区)の国衆天野藤秀(ふじひで)や高天神(静岡県掛川市)の国衆小笠原氏助を従えた後、武田勢の攻勢によって駿河国駿府を追われた今川氏真が籠る遠江懸川城(静岡県掛川市)を包囲します
しかし、この頃武田家家老の秋山虎繁を主将とする武田軍が遠江に侵攻。家康はその行動に抗議をします。
家康が講義をしたのは今川領国の分割は「自力次第」とされおり、家康が大半を押さえた地域に対して武田軍が進軍してきたため、家康は抗議をしたのである。
一方、駿府より氏真を追った武田氏でしたが、その後、北条氏の攻勢に苦戦して、駿河国を領有できずにいました。(信玄は甲相駿三国同盟の相手であった北条氏との調整を成し遂げぬまま、見切り発車で軍事行動を進めたため、北条氏政の怒りを買いました)
また、信玄の重臣・秋山虎繁が大井川を越えて遠江国見付付近にまで入り込み、徳川勢と軍事衝突を起こしてしまいます。徳川と武田の今川領国の国分協定により家康からの抗議に応じて信玄は軍勢を引き、永禄十二年(1569)正月、再度、誓紙を取り交わします。
しかし、家康の信玄に対する疑心が晴れることは無く、警戒心と憎悪を抱くようになります(三方ヶ原合戦に向けた両者の対立の第一歩)。
家康はその後、遠江国西部を攻略しつつも、懸川城を攻めあぐねていたため、三月頃から今川氏真・北条氏との和睦に動き始めます。五月になると和睦が成立し、五月十五日今川氏真は懸川城を開城し、大平城(静岡県沼津市)にはいります。
この時、家康・氏直・北条三者間で、遠江は徳川、駿河・伊豆は北条・今川とする国切が行われたようで、ここに戦国大名今川氏は滅亡し、遠江国は家康の領国となりました。
しかし、今度は逆に信玄はこの家康の動きに対して家康への不信感を高め、両者の関係は悪化していきます。
家康の和睦交渉を把握した信玄は信長家臣の市川十郎右衛門尉書状を出し、信長から家康に意見してもらうよう要請しています。
今川家領国攻略の取り決めは信玄と信長の間で行われたもので、家康は信長の指示を受けて今川領国の経略にあたったとも考えられています。
家康は同年七月は遠江国見付(静岡県磐田市)に遠江・三河両国にわたる領国を統治するため、本城を築き始めまが、信長の進言もあり翌年の元亀元年(1570)6月、遠江国浜松の引間城を改修して堅固で巨大な本城(浜松城)を完成させ、三河・岡崎から9月に入城します。
八月には、越後上杉謙信と同盟を締結し、信玄と断交します。
これを知った信玄の怒りと、家康への遺恨は尋常なものではなかったようです。
後に信玄は、この時以来持ち続けた家康への恨みを「三ヶ年の鬱憤」と表現しています。
【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著 徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社 本多隆成著 徳川家康の決断
中央公論新社 和田裕弘著 信長公記 戦国覇者の一級資料
PHP研究所株式会社 河合 敦著 徳川家康と9つの危機
株式会社講談社 渡邊大門編 徳川家康合戦禄 戦下手か戦巧者か
朝日新聞出版 黒田基樹著 徳川家康の最新研究
ウィキペディア
コトバンク
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