源頼朝 富士川の戦いで圧勝するも上洛断念の背景

源頼朝

富士川の戦い

◆大将・平維盛◆
平清盛は東国で支配を拡大している源頼朝の動きを抑えるために、孫の維盛(清盛の嫡男重盛の嫡男)を大将軍とする追討軍を派遣します。

◆武田信義の反撃◆
平宗盛(清盛次男)の知行国である駿河国の目代・橘遠茂や、平氏の有力家人・長田入道らの軍勢が先制攻撃を行いますが、駿河国鉢田で武田以下の甲斐源氏に敗れてしまいます。
これは追討軍の士気を大きく低下させることになってしまいました。
(武田信義は鉢田の戦いで勝利して駿河に進出したため、維盛軍の第一攻撃目標は武田信頼であり、富士川の戦いは平家と甲斐武田との戦いであって、頼朝は援軍で後方に控えていただけとの説もあります)

◆富士川の戦い◆
追討軍は東に向かう途中、周辺の国から武士を動員しますが離脱する者も多くいました。
治承4年(1180)10月20日に富士川で頼朝勢と相対した時は、京を出発した時とさほど変わらない4千騎といわれ、数万騎といわれる頼朝軍と戦う前から勝敗は明らかでした。

大将軍の維盛は戦う気満々でしたが、老練の侍大将・伊藤忠清が説得し、撤退することとなります。その直後に火災がおき、水鳥の羽音にも驚いた全軍は逃走します。
結局、この戦いは小競り合い程度で終わり、頼朝勢の大勝利となりました。

◆平家家人の追討◆
頼朝はさらに鎌倉近郊の平家家人を追討していきます。

  • 波多野義常:頼朝からの追討を受けて自害
  • 大庭景親:追討軍の敗走に伴い逃亡の後、固瀬川(神奈川県藤沢市片瀬)で処刑
  • 伊東祐親:頼朝に捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられ、義澄の計らいで罪を許されたが
         自らを恥じ、自害
         頼朝の危機を救った次男佑清も頼朝に捕まりますが許され、その後上洛し北陸で
         の戦いで戦死とも、祐親の自害後自ら死を願い出て殺害されたともいわれます

上洛を断念

◆豪族達の反対◆
頼朝は勝利した勢いで上洛を果たしたかったが、豪族たちの反対で断念します。
頼朝が上洛を断念した背景は
・東国の統一を優先した
 常陸国の佐竹義政と甥の秀義は頼朝に従っておらず、むしろ背後を脅かす存在であった
・兵糧の確保に問題があった
 この年(1180年)は飢饉に見舞われ兵糧の調達が困難であった。上洛できたとしても、
 京都での食料確保が難しく、略奪するようなことが起きれば、京都の人々の反感を
 買ってしまう恐れがあったこと
※駿河国には武田信義がおり、それを越えて上洛ができなった、
 また、頼朝軍は戦闘せず「富士川の戦いの真の勝利者ではなかったから」との説もあります。

◆論功行賞◆
鎌倉への帰途についた頼朝は相模国府(国司が政務を執る施設がおかれた都市)で家人に対して、初めての論功行賞を行います。
北条時政はもとより甲斐源氏の武田信義、安田義定をも含む家人らの本領安堵、没収した敵方所領を新恩として武功を挙げた者に給与する新恩給与を行い、敵と味方を区別しました。

論功行賞
 功績の有無・大小を論じ、それにふさわしい賞を各人に与えること
本領安堵
 鎌倉時代、御家人の多くは開発領主の子孫として、先祖伝来の私領を領有していたが、幕府は
 その土地の所有権を承認して、御家人との間に封建的主従関係を結んだ
新恩給与
 新恩給与とは、「新しい土地を与えること」を言います。新恩給与も本領安堵と同じく、御家
 人を新しい所領の地頭に任命することで行われました。

◆平氏の権威失墜◆
平家軍の敗走によって、平氏政権の権威は失墜し平氏に対する反乱は全国に拡大することになります。内乱の鎮圧が必要とみた清盛は福原遷都を中止し平安京に戻り、畿内の敵勢力の掃討に乗り出します。
大和国では反抗勢力の中心興福寺を攻撃した際、その余波が隣接する東大寺に及び大仏を焼失するという事態を起こします。
このことは畿内の沈静化と引き換えに、平氏はさらなる厳しい憎悪を向けられることになります。

佐竹氏討伐

◆佐竹氏◆
佐竹氏は常陸国(茨城県)北部の奥七郡を中心に強力な勢力を持つ有力豪族で、周辺国にも圧力を加えていました。源氏の一族でしたが平治の乱では平家に味方し、頼朝が挙兵した際にも従うことはありませんでした。

◆佐竹氏攻撃◆
治承4年(1180)11月、頼朝軍は常陸国府(茨城県石岡市)に陣を敷きます。上総広常は佐竹氏と婚姻関係にあることから交渉役となり、話し合いで解決しようとします。
佐竹義政は頼朝側に就こうと考え、話し合いに臨みましたが、殺されてしまいます。(頼朝は最初から降参に応じるつもりはなく、広常に殺害させる目的での面会でした)

◆佐竹秀義の抵抗◆
甥の秀義は話し合いに反対していたので、居城の金砂城(茨城県常陸太田市)に籠ります。
上総広常は佐竹一族の佐竹義季を味方に誘い、その案内で金砂城を落とし秀義は奥州に逃れます。
後の奥州征伐の際、秀義は頼朝の命令に応じて参戦し、手柄を挙げたことで御家人に列せられ頼朝の配下となります。

※佐竹氏はなかなか頼朝に従わず敵対行動を取るとともに、東国の豪族とも敵対していたため、討ち取らなければならない相手でした。

御家人の成立

佐竹氏を退けた頼朝は鎌倉に帰還し、三浦義澄の甥・和田義盛侍所別当(長官)とします。
侍所は政所と並ぶ鎌倉幕府の重要機関で御家人を統率する機関になります。
この侍所は十八間(柱の間が18ある)とされ、横長の建物に北条時政・義時父子以下311人の武士達が二列に向かいながら着座したと言われます。相模国府での論功行賞で所領を通じて主従関係を約束された武士達は、頼朝のもとに組織された新たな集団である「御家人」が成立しました。

※和田義盛は石橋山から敗走してきた頼朝と海上で出会い、勝利の暁に「侍所別当」に補任する
 約束をしたといいます。

まとめ

石橋山の戦いに敗れた頼朝は、再起を期し富士川を挟んで平氏と対峙します。
またもや強運に恵まれ、戦わずして平氏は水鳥の飛び立つ音に驚き、敗走したといわれます。

この勢いのまま上洛を目指すか・・・と思われましたが、この年は大飢饉の年であり、季節も冬を迎えることから兵糧の確保が困難な状況と、常陸佐竹氏などの頼朝に抵抗する勢力もいることから、上総広常や千葉常胤らの反対にあい、上洛は断念し東国の平定を優先します。

その後頼朝は、平氏追討、奥州藤原氏滅亡させた戦乱の世に終止符を打った、建久元年(1900年)に上洛を果たします

付録

富士川の戦いのゆかりの地を動画でさらに詳しい解説をくわえています。
こちらも是非ご覧ください。

〈引用・参考〉

  • 株式会社晋遊舎 北条義時完全ガイド
  • 株式会社三笠書房 板野博行著 眠れないほどおもしろい吾妻鏡
  • 中央公論新社 元木泰雄著 源頼朝
  • 談社現代新書 呉座勇一著 頼朝と義時 武家政権の誕生
  • Wikipedia
  • コトバンク

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