富士の巻狩り
1193年4月後白河の喪が明けると、頼朝は下野国那須、信濃国三原、駿河国富士野と各地で大規模な巻狩りを行い、権威を示します。
巻狩りは猟犬・勢子(せこ:狩猟の補助者)などが四方から獣を追って、馬上から獲物を射る軍事訓練の意味を持っていました。また、農作物を荒らす害獣の駆逐という性格も合わせて持っていました。
5月15日の富士の巻狩りは、まだ元服前で12歳の頼家が鹿を射ています。
当時、頼朝は47歳に達しており幕府の後継は未定でしたが、頼家のお披露目は権威継承の大きな意味を持っていました。
曽我事件
巻狩りたけなわの5月28日の夜に事件が起こります。
事件の発端は、頼朝配流時の監視役・伊東祐親と甥の工藤祐経の所領争いから始まります。
この争いで、工藤祐経が祐親の子・河津祐泰(すけやす)を殺してしまいます。
祐泰の子・兄の曽我十郎祐成(すけなり)22歳/弟の五郎時致(ときむね)20歳がこの無念を晴らすため、父の仇・工藤祐経を殺害し、仇討を果たします。
(曽我兄弟は伊東祐親の孫で、母が曽我祐信と再婚したため曽我姓を名乗っていました)
十郎は新田忠常に殺害され、五郎は大友能直に捕まり、鎌倉へ護送される途中の鷹ヶ岡で首をはねられました。さらに、曽我兄弟の弟らは連座となり自害しました。
弟・五郎は頼朝にも切りかかり、頼朝の暗殺をも狙っていたとの説のあります。
事件後、常陸の御家人が粛清されたほか、頼朝の弟・範頼が失脚し、大庭景能/岡崎義実以下の挙兵以来の老臣たちも出家するという出来事が起こります。
源範頼の失脚
事件を受けて鎌倉には「頼朝が討たれた」との報が北条政子のもとにもたらされ、政子は途方に暮れます。すると、範頼が「頼朝様が討たれたということなれば、私がおりまする」と政子を慰めます。
しかし、このことが謀叛ととられ範頼は8月に請文を提出したといわれます。
しかし、その後頼朝寝所の床下に範頼の腹心・当麻太郎が潜伏していることが発覚し、範頼と当麻の配流が決定されます。
範頼は狩野宗茂と工藤祐親の弟・宇佐美祐茂によって伊豆修善寺に連行されます。以後、範頼の同行は不明で、おそらく殺害されたと思われます。
曽我事件を契機に、範頼の失脚、大庭景能ら老臣の出家が起こり、事件との関連性が疑われるところです。
鎌倉殿の継承
このころの幕府は大番役や政所下文に代表されるように、合戦中心の新恩給与から王朝権威重視への移行過程にあり、朝廷の令より将軍の指示に命をかけて合戦に参加した者たちの中に不満を持つ者、実戦経験の無い頼家への権力継承に不満を持つ者がいたと思われます。
範頼の失脚のように、曽我兄弟の事件が頼家の地位の安定と、幕府方針への不満分子の一掃に連なりました。
頼家の地位を脅かす存在は、源平合戦の功労者・安田義定一族のみとなります。
しかし、11月に嫡男・義賢は女房聴聞所に「艶書」(こいぶみ)を投げ込んだ罪で斬首されて、父・義定も処罰され、翌年8月には謀叛の疑いで処刑されます。
頼朝の権威継承の地ならしにより、頼家の立場を脅かす存在は消滅し、彼の鎌倉殿後継者としての地位も盤石なものとなります。
まとめ
富士の巻狩りの最中に突如起きた曽我兄弟の仇討ち。
当時幕府と御家人との関係は、戦乱の新恩給与から政所下文に象徴さるような権威による主従関係にかわる過渡期にあり、様々な不満を持つ御家人がいました。また、頼家への鎌倉殿継承を進める過程にありありました。
曽我事件は、黒幕の存在など事件自体がミステリアスな部分もありますが、この事件を契機に範頼の失脚、不満分子の一掃を通して、幕府の御家人統制と次期鎌倉殿への権威継承が始まる転換点とも言えるのではないでしょうか。
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