【今回の記事に関連する場所】
①松平東照宮(松平郷) ②松平城 ③若一神社 ④三河安祥城 ⑤大樹寺 ⑥三河田原城 ⑦三河今橋城(吉田城) ⑧岩津 ⑨山中城 ⑩岡崎城 ⑪三河上野城
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松平太郎左衛門家と松平・徳川家祖初代・親氏
三河国加茂郡の松平郷(愛知県豊田市)は交通の便がいいとはいえない山間部にありました。
巴川中流に位置したこの地は、室町時代、主流である矢作川(写真①)水系の河川交通・流通の要地であったといいます。
松平太郎左衛門家は三河国加茂郡の松平郷(愛知県豊田市)を本拠地とした土豪でした。
15世紀前半、当主が太郎左衛門尉信重(のぶしげ)の時は金銀米銭など尽きることがないほど裕福であったとされます。
信重が屋敷で連歌会を開催した際、筆役がいなくて困っていたところ、時宗の僧で徳阿弥(とくあみ)と称した僧が現れ、信重の願いによって筆役を務めたといわれます。信重はその教養の高さに感心して屋敷に留め、娘(水姫)婿としました。これが松平・徳川の「家祖」とされる親氏(ちかうじ)(系図①、写真②)といわれます。
(そもそも松平(徳川)の始祖は、得川(とくがわ)(世良田)義季(よしすえ)だといわれています。義季は、清和源氏の嫡流を受け継いだ新田義重の四男とされます。しかし、子孫は次第に落ちぶれていき、親氏のときには各地を放浪する身分にまで落ちていました)
その後、親氏は松平家を継ぎ、領地を広げます。
信重の娘(水姫)との間に二人の男子、一人の女子を設けましたが急死したとされます。
二代・泰親(岩津進出)と三代・信光(岩津松平氏の祖)の時代
親氏の死後、跡をついだのは泰親(やすちか)(系図②)でした。
泰親は親氏の子とも、松平太郎左衛門家に婿入りした際、親氏の弟ともいわれます。
親氏死後の家督は二男の信光(のぶみつ)(系図③)が継承することになっていましたが、幼少のため泰親が名代を務めたので、2代目として数えられます。
泰親は出家して応永三十三年(1426)十二月十三日、三河国岩津(愛知県岡崎市)に若位一王子社(現在の若一神社)(写真③、④)を建立しており、岩津(岡崎市岩津)へ進出したことがうかがえます。
泰親は三年半ほど当主を務めたといわれ、その後、松平太郎左衛門家の家督は氏親の長男・信広(のぶひろ)に譲り、自身のあとは親氏の次男信光(系図③)に継承させました
三代・信光は室町幕府政所執事である伊勢氏の被官(臣下の者)として岩津を拠点に活動、台頭して岩津松平氏の祖といわれます。
信光の安城攻略と四代・親忠(安城松平氏の祖)
中央では応仁・文明の乱が始まり、その波が三河に押し寄せる中、信光は安城(愛知県安城市)(写真⑤)を攻略し、子の次郎三郎親忠(ちかただ)(系図④)を配したと言われます。ここに、のちの徳川将軍家に連なる安城松平氏が誕生し、信光は松平氏発展の礎を築きました。
(信光は異常に子が多く、『徳川実紀』『朝野旧聞裒藁』によると48人の子供がいたといいいます。自身の子を分立させ、竹谷松平家、安祥松平家(後の松平宗家)、形原松平家、岡崎松平家(大草松平家)、五井松平家(深溝松平家)、能見松平家、丸根松平家、牧内松平家、長沢松平家が各地に置かれました)
安城松平氏の台頭
安城松平氏の当主四代・親忠は晩年出家しその死後、松平一族による大樹寺(愛知県岡崎市)(写真⑥、⑦)の安全を誓約した連判状が作成されます。(大樹寺は1475年親忠が開いた安城松平氏の菩提寺)この連判状には全てではありませんが、松平一族の署判が据えられ、一族の結束と庶家であった安城松平氏の台頭を示しています。
永正三河大乱と五代・長親(安城松平氏)
親忠の死後、安城松平家は嫡男の長親(ながちか)(系図⑤)に継がれます。
この時代、駿河国(静岡県東部から中央部)の大名今川氏親が父・義忠のときから敵対していた遠江国(静岡県西部)の守護である斯波氏に属する勢力を討つために、同国に侵攻し、今川氏は遠江国での勢力を拡大します。
この時、三河国田原(愛知県田原市)(写真⑧)を拠点とする戸田憲光は、敵対する三河今橋城(吉田城)(愛知県豊橋市)(写真⑨)の牧野古白を討つため、今川氏に協力を求めます。
そして、永正三年(1506)九月今川氏親は伊勢宗瑞(北条早雲)とともに三河国に侵攻、十一月三日に今橋城を落城させた後も三河侵攻は続けられます。
この内乱は中央の勢力争いを反映するものでした。
明応二年(1493)四月、室町幕府八代将軍足利義政の室・日野富子、細川政元らによって十代将軍義稙(よしたね)を廃して、義政諸兄の堀越公方足利政知の子・義澄を将軍に擁立するというクーデターが起きます。
今川氏親は「義稙派」の立場にあり、牧野氏や松平氏は「義澄・細川派」の立場でした。
この戦いで岩津松平氏の岩津城が攻撃され、岩津城は落ち、岩津松平氏は壊滅状態になったと言われています。この時、安城城の五百人を手勢に率いた五代・長親は今川氏と奮戦したといわれます。
安城松平氏は、この内乱の危機を乗り越え、一族の上に君臨していきます。
六代・信忠(安城松平氏)の強硬政策と清康への家督禅譲
内乱の終結後、安城松平氏の当主となるのが長忠の後継信忠(のぶただ)(系図⑥)です。
信忠は壊滅状態の岩津松平氏の領地を自分の勢力下に入れます。
六代・信忠は内乱終結後という状況の中で、自身の主導権強化を図り、強硬に政策を進めていったといわれます。この強硬なやり方に一族や家臣は反発し、安城松平氏と岡崎松平氏の間に合戦が生じます。
さらに、信忠の力量に見切りをつけて、弟の信定(のぶさだ)を当主に据えようとする動きがあったとされます。
信忠は一族と家臣の要望に応えて、嫡男で十三歳の清康(きよやす)(系図⑦)に家督を譲ります。
そして、七代・清康には自らの立場を固め、この分裂した一族・家臣を再び束ねるための活動が求められていました。
七代・清康と叔父・信定のよる安城松平氏の分裂
この段階で安城松平氏は岡崎松平氏との対立を続けており、清康も若年であったため叔父の松平信定が安城城城主として取り仕切るようになります。そして、清康は攻略したばかりの山中城(愛知県岡崎市)(写真⑩)に出されたようです。
これによって、安城松平氏は山中城の清康と安城城の信定に分立します。
その後、清康は岡崎松平氏の養子となり和睦を結びます。そして、岡崎松平氏が大草(愛知県幸田町)に移ったことにより、岡崎の地を譲られたといいます。
清康は山中城から明大寺(愛知県岡崎市)にあった岡崎松平氏の居城岡崎城に移りましたが、1530年ごろ竜頭山の地の城を築き(現在の岡崎城)(写真⑪)移ったとされます。
こうして、安城松平氏の本城は岡崎城となりますが、安城城には信定が城主としており、安城松平氏は分立したままでした。清康にとっては、この分立状態の解消が課題となっていきました。
清康殺害(守山崩れ)による存続の危機
天文四年(1535)十二月、松平清康は千人余の軍勢を率いて、尾張国守山(愛知県名古屋市守山区)に着陣します。しかし、信定は尾張織田氏に通じていてその出陣には従わず、三河上野城(愛知県豊田市)(写真⑫)に入ったままで動かなかったといわれます。
この出撃の目的は織田信秀(信長父)と戦いうことであったとされますが、守山を拠点とした信定攻撃こそが目的であったともされます。
~~~~~~~~~~~~ このときの尾張(愛知県西部)の国内情勢 ~~~~~~~~~~~~~
この頃の織田氏宗家の当主は尾張清洲城(愛知県清須市)の織田大和守達勝(みちかつ)で、達勝の
もと庶家出身の織田信秀と織田藤左衛門尉が活躍していたが、両者の間に合戦がおきます。
信定は信秀と通じており、織田藤左衛門尉とつながり持っているために出陣した清康には従わなかった
のであります。依然として安城松平氏の分立が続いていました。
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しかし、守山に着陣した十二月五日の夜、清康は譜代重臣阿部大蔵の子・弥七郎にに殺害されます。
この事件は「守山崩れ」といわれます。
弥七郎の父・大蔵は信秀との内通を噂され、夜に清康の馬が暴れ兵士が騒ぎ出しため、弥七郎は父がされると思い、清康を殺害したといいます。
弥七郎は其の場で斬られ、松平勢は岡崎へ帰陣します。
松平氏は、宗家(清康系統)と信定との緊張関係、清康の不慮の死という、存続の危機を迎えることになりました。
八代・広忠による安城松平氏の統一と家康の誕生
守山崩れが起きた時、清康の嫡男千松丸(⑧)は元服前の幼少でした。
守山崩れの直後、織田信秀の軍勢の攻撃を受けますが、和談に至ります。しかし。この後松平信定が
岡崎城に入城します。
信定の岡崎城入城により、千松丸は追われ、伊勢国に逃れたとされます。
その後千松丸は遠江国掛塚(静岡県磐田市)へ移り、天文五年(1536)八月には三河国へ入り、室(愛知県西尾市)へと進軍しますが、信定の攻撃を受け今橋(愛知県豊橋市)へ退き、そののち駿河今川氏を頼っています。
この時、信定は岡崎城に清康の弟・信孝(のぶたか)を配して、自らは安城城にいましたが、千松丸の進軍に譜代家臣の離反が起きていたようです。今川氏の支援を受け、譜代家臣の支持をとりつけた千松丸は天文六年(1537)六月一日に岡崎城に入り、信定・信孝は和談に追いこまれ、従属します。
ここに松平家内部の抗争は千松丸のもとに鎮まりました。
その後、千松丸は元服し、「広忠(ひろただ)」と名乗ります。
八代・広忠は尾張国緒川(愛知県東浦町)の国衆水野忠政の娘・於大と婚姻し、天文十一年(1542)十二月二十六日、三河国岡崎城での後の徳川家康、幼名・竹千代(⑨)が誕生します。
竹千代(家康)が産まれた当時の三河は、三河一国を支配する戦国大名はおらず、各地に国衆が存在する中、松平家もその国衆にひとつにすぎず、ましてや広忠が松平一族を束ねたばいかりとう不安定な状況でした。
【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著 徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社 本多隆成著 徳川家康の決断
中央公論新社 和田裕弘著 信長公記 戦国覇者の一級資料
株式会社PHP研究所 河合敦著 徳川家康と9つの危機
松平郷館 松平八代・十四松平系図
ウィキペディア
コトバンク
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