家康は、天正壬午の乱後の五カ国領有と領国化を、どのように進めたか?

徳川家康
天正壬後の乱後の勢力図

天正壬午の乱後の国割

 天正十年(1582)十月、徳川・北条両氏の和睦により天正壬午の乱は終結します。

 国分協定で、北条氏の勢力下にあった甲斐国都留郡と信濃佐久郡、徳川氏の従属化にあった信濃国衆真田氏の上野国沼田・吾妻両領(群馬県沼田市などの北部地域)の交換が決められた。
 徳川氏は甲斐・佐久郡以南の南信濃両国を獲得し、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五カ国を領国とする大名になります。しかし、信濃国川中島四郡は越後の上杉景勝の領国でした。

 領国の境目に位置する駿河国河東二郡、甲斐国都留郡と新たに領国に併呑された甲斐国国中地域で、統治の整備が進められていきました。

駿河国河東二郡

 駿河国河東二郡は、駿東郡と富士郡東部地域からなり、室町時代より関東への政治的・軍事的戦略拠点でもあり、交通・流通の要所でした。

 戦国時代は国衆・葛山(かずらやま)氏の領国であり、駿河の今川氏、甲斐の武田氏、相模の北条氏がその帰属をめぐり、争いを繰り広げました。武田領国下では駿東郡司・曾禰昌世(駿河興国寺城代)の管轄地域となっております。

 このように、この領域は駿河国内でも独自の地理的・歴史的な背景を持つ地域でした。

 そして、武田氏滅亡後は徳川氏が駿河国を領有したことにより、松井松平忠次が三枚橋城に入ります。しかし、駿河興国寺城の城主には、武田旧臣の曾禰昌世が織田信長へ内通したため、引き続き、その立場が認められていました。そのため、その管轄地域(興国寺領)は徳川氏の支配が及ぶ対象外域であったようです。

 ところが、天正壬午の乱後、曾禰昌世が徳川家を出奔し、天正十一年(1583)二月、河東二郡の領域は支配は、河東二郡代として、松平忠次があたることになりました。

甲斐国都留郡

 甲斐国都留郡は、武田氏領国下ではその大半が「譜代家老衆」であった小山田氏の統治する郡内領としてあり、自律的な領域支配がなされていました。

 天正壬午の乱後、同郡は河東二郡と同様、北条領国と接する境目領域となり、そこに配置されたのが鳥居元忠でした。
 鳥居氏は松平清康(家康祖父)以降の譜代家臣で、元忠は家康の幼少期より仕えてきた重臣でした。家康は元忠を信頼し、行政・軍事支配のほぼ全権を委ねたのです。

 元忠の活動範囲は北都留郡域や西海周辺地域を除いた、谷村(山梨県都留市)を中心とする領域で、現在の都留市周辺に相当し、かつての小山田領国にあたりました。

甲斐国国中領

  甲斐国国中領とは、山梨・巨摩・八代三郡にわたる甲府盆地一帯で構成された領域をいいます。ここは武田 氏に直接支配されていた領域でした。

 天正壬午の乱を終結させた家康は、天正十年(1582)十一月から十二月にかけて、甲斐国の諸士への所領の保証と給与に「福徳」朱印状を発給します。
 乱中に行われた所領の保証と給与は、彼らを味方につけるため、彼らからの申し出に沿って進められたものでした。このため、甲斐国の領有が徳川氏に帰したいま、その整理と実情に基づく確定が必要となり、改めて執り行われたのです。

 翌年の天正十一年(1583)閏正月と三月に、あらためて徳川家直属(旗本)となった甲斐諸士へ所領の保証を、四月には国内寺社領の保証を行っています。

 同国の軍事は、甲府に配置された譜代重臣の平岩親吉と武田旧臣の阿部正綱があたり、同領の所領配置、国役(公税)の割賦・徴収、裁判の判決は、まず家康の官僚家臣で国中領の担当とされた成瀬正一、日下部定吉から意向が示され、その意向に基づき、現地で実務に従事した市川家光・桜井信忠・石原昌明・工藤善盛など旧武田氏の官僚家臣(甲斐四奉行)が遂行を任された。

奥平領国

 徳川領国下で自律的な国衆領国だったのが、奥平両国、穴山武田両国と信濃国でした。

 奥平領国は長篠合戦の後に奥平定能、信昌父子が織田・徳川領勢の救護のもと、甲斐武田方にあった田峯菅沼氏・長篠菅沼氏・奥平定勝(定能の父)の山家三方衆を追い、三河国設楽郡を中心とした各領域を接収、構成された地域でした。

 天正四年(1576)には、三河国新城(愛知県新城市)に城を築いて移転し、同年七月には遅れていた信昌と家康長女の亀姫との婚儀が織田信長の勧めでなされたといいます。

 領国の平和維持のため、徳川氏の戦争には従事していきますが、統治は奥平氏による自治が保たれ、徳川氏との直接の関りは確認されません。この状況は徳川氏の関東移封まで続きます。

穴山領国

 穴山武田領は、本領である甲斐河内領と穴山信君(梅雪)以来の駿河国江尻領で構成された従属国衆の穴山武田氏が統治する領域です。

 幼少の勝千代が後継の当主として江尻城にありました。勝千代は、重臣の有泉昌輔・芦沢君次・穂坂君吉・佐野君弘による補佐のもと、父・信君の時の権益保証や施策を引き継ぐことで支配を進めていました。徳川氏からの直接の関与は確認されていません。

 天正十五年(1587)六月七日、勝千代は十六歳で死去。これに伴い当主には、穴山信君(梅雪)養女で家康の側室・於都摩(おつま)(下山殿)との間に産まれた五男・満(万)千代(のちの武田信吉)が迎えられました。その際、穴山武田家の相続を認められた代わりとして、江尻領が徳川氏に収公されたが、その後も甲斐河内領は自治運営を認められ、関東移封を迎えます。

信濃国

 信濃国では、天正壬午の乱の最中、家康が同国の国衆らを味方に引き入れるべく、甲斐国中領とは異なり、ほぼ郡毎の所領保証を行い、自治運営を認めていました。

 そして、乱後は北条氏との国分協定による信濃国の領有が認められたことを根拠に、北条方の国衆を従えていきました。一方、従順しない国衆については佐久・小県両郡を中心に制圧を進めていきました。

 こうしたなか、佐久郡では天正十一年(1583)二月二十二日に、岩尾城(長野県佐久市)の攻略に務めていた依田信蕃が戦死します。その後、同年四月、従属して程ない小県郡の国衆真田昌幸、伊那郡の国衆保科正直のほか、北条方にあった諏訪郡の国衆諏訪頼忠、乱途中より北条氏に従属した小笠原貞慶らが、甲府に滞在していた家康のもとに出仕します。

 このように、表面上は徳川氏のもとにまとまる状況に見えました。しかし、現実は信濃制圧のなかで、上杉氏との緊張関係が生じ、真田氏とは北条氏へ割譲することになっていた上野国沼田・吾妻両領の処理が残されていました。
 さらには、よりよい存立の条件を求める国衆の動きが火種となり、徳川氏の信濃国領有の不安定さを露呈していくことになります。

北関東情勢・・・「関東惣無事」

 天正壬午の乱は、家康と反北条勢力で常陸佐竹氏を中心とした北関東の大名・国衆との外交にも影響を及ぼします。このため乱の終結後、家康は彼らから、いかにして北条氏との対立を鎮められるか、対処を求められます。

 そして、家康が出した指示は、織田信長生前のように、互いの対立を留め「惣無事」に務めることでした。「無事」とは和平を示し、「惣無事」は広域的な和平秩序を意味しました。
 信長は天下統一を進めるまかで、諸大名・国衆へ天下(中央)への政治的・軍事的統制と従属関係を強い、独自の判断で対処することを取り締まりました。

 家康は信長の示した秩序に戻ることを掲げ、自身と行動をともにした北関東大名・国衆に求めました。

遠相同盟

 家康は信濃国の領有確保と、それに伴う上杉氏との関係解決に向けて、北条氏との同盟関係を前進させます。

 天正十一年(1583)七月二十日に予定されていた、北条家当主の氏直と家康次女・督姫との婚姻です。これにより同盟の強化が図られました。

 そして家康は、八月に上杉領国の信濃国川中島四郡への出陣を試みます。しかし、降り続く雨による大洪水にため出陣は延期されます。

 その後の八月十五日、督姫の入輿が実現し、徳川・北条両氏の遠相(えんそう)同盟が固まりました。しかし、この同盟強化は、北条氏の北関東大名・国衆との対立を、家康が黙認することでもあり、「関東惣無事」活動は交代することとなりました。

【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著  徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社  本多隆成著 徳川家康の決断
中央公論新社  和田裕弘著 信長公記 戦国覇者の一級資料
ウィキペディア
コトバンク

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