家康の「関東・奥惣無事」活動と北条氏への対応は?(小田原攻めへ至る過程)

徳川家康

【この記事に関連する場所】

①大阪城、②駿府城、③聚楽第、④沼田城、⑤名胡桃城、⑥小田原城
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真田昌幸・小笠原貞慶ら信濃国衆の従属

 秀吉への臣従によって家康は「関東・奥両国惣無事」活動が課せられます。

 天正十五年(1587)二月、徳川氏への帰属を命じられた信濃国衆の真田昌幸、小笠原貞慶は大坂城の秀吉のもとに出頭し、命令を受け入れます。
 そして三月十八日、同伴した酒井忠次に連れられて、駿府城の家康のもとに赴き、徳川氏に付属させられた与力小名の立場を確認します。

 与力小名とは、秀吉直臣の郡規模を所有する地域的領有権力(小名)でありながら、徳川氏のもとで、軍事的な行動に従事する存在をいいます。この立場には、真田・小笠原両氏とともに家康を離反した木曾義昌も属することになりました。

 これによって、信濃国の情勢の不安定さは解消しました。

駿府城(静岡市葵区)

家康の「関東・奥両国惣無事」活動

 家康の「関東・奥両国惣無事」活動の専らの務めは北条氏に秀吉への従属を促すことでした。
北条氏は徳川氏との同盟関係から、豊臣権力には従わない勢力でした。

 一方、この時常陸・佐竹氏を中心とする北関東大名・国衆や安房・里見氏は豊臣権力に従属していました。(佐竹氏らと対立していた北条氏は秀吉に臣従しにくい立場でした)
 秀吉にとって、北条氏を従えることは喫急の課題であり、家康にこの政情を引き起こした責任を負わせることも兼ねて、北条氏に対する従属要請の交渉にあたらせたのです。
 そして、この交渉期限を天正十五年五月と定めました。

 しかし、北条氏は態度を明確にせず、逆に豊臣権力の来襲に備えて、城下町や周辺田畑をそのまま城域に取り込み、総延長九キロにおよぶ惣構の構築を始め、領国全域にわたる防衛体制の整備を進めていくことになります。
具体的には、
 ①人質の徴収
 ②人改め令と緊急動員
 ③武器の増産と城普請の推進
 ④籠城態勢固めの本格化
などがあげられます。

小田原城(神奈川県小田原市)
惣構の一部・小峯御鐘ノ台大堀切(神奈川県小田原市)

 一方。天正十五年五月に薩摩・島津義久を降伏させて、勢力下においた秀吉は七月に帰国。
家康は秀吉のもとに上洛します。
 上洛中の八月八日。家康は羽柴秀長とともに、官位を縦二位権大納言にとなり、秀長と同待遇にあり、北条氏とは対照的に豊臣権力下の大名としての立場を強めていきました。

五十分一役

 天正十五年(1587)以降の徳川氏の領国支配において、「五十分一役」と「領国検地」が重要な政策として注目されます。

 「五十分一役」は天正十五、十六年の両年に、給人領(家臣の知行地)・寺社領・蔵入地(直轄領)を問わず、信濃を除く全所領にいっせいに賦課(※)したものであり、年貢賦課基準高(甲斐国国中領では知行高)のうちから「五十分一」=2パーセントを徴収したことです。
※賦課:税金などを割り当てて負担させること

実施した主要因は二つあり、
・豊臣政権に重属したことにより、その後の度重なる上洛や諸役の負担などで出費が増大した。
・連年にわたる駿府城普請や新領国の運営に出費があった。
このような出費の増大に直面した徳川氏が、緊急の増収策として、二年間にわたり賦課したのでした。

領国総検地

 さらに、より根本的に全領国の土地と人を把握すべく、天正十七年(1589)二月から翌年正月にかけて家康が実施したのが「領国総検地」です。

実施の過程は
①検地の実施 → ②七カ条定書の交付 → ③年貢目録の交付 → ④年貢請文(承諾した旨の返書)の提出となっています。

 ①検地は原則として徳川氏直属の奉公人によって給人領・寺社領・蔵入地の区別なく、郷村単位でい  
  っせいに行われました。
 ②七カ条定書は、この時期の家康の代表的な印文「福徳」(※1)の朱印状(※2)ですが、原則とし
  て検地奉公人がその奉者となり、自ら検地を行った郷村に交付したもので、総検地を踏まえた年
  貢・夫役(労働で納める課役)の賦課基準を示したものです。
  ※1:印章などに刻まれた文字または記号。
     徳川家康は「福徳(幸福と利益。財産や幸福に恵まれていること)」
  ※2:戦国大名や江戸時代の将軍が,花押かおうの代わりに朱印を押して発行した公的文書。
 ③年貢目録が作成され、検地奉公人から交付される
 ④年貢目録を受け取った郷村側が納得すれば、年貢請文が検地奉公人宛に提出される

これによって、検地の実施から始まる一連の過程が終了します。

 この際に採られた年貢賦課の基準は、徳川氏に特徴的な俵高制(下方枡の三斗俵、甲斐では甲州枡の二斗俵)によるものでした。しかもこれは年貢賦課にとどまらず、知行制の統一基準でもありました。
 ※枡:液体や穀物などの分量をはかる容器
 ※斗:尺貫法における体積の単位。10升が1斗、10斗が1石となる。
    (日本では、明治時代に1升=約1.8039リットルと定められたので、1斗=約18.039リットル
     となる。)

家康の立場強化

 秀吉は九州平定がなったいま、あらためて「関東・奥両国惣無事」を進めていく意向を示します。

 そうしたなか、依然として秀吉への従属を受け入れようとしない北条氏に対する秀吉の来襲が囁かれて、北条氏は領国内に臨戦体制を敷いていきます。
 両者の衝突は、天正十六年(1588)三月、「無事成就」す(和睦の成立)ということでいったん回避されますが、その後も緊張を孕みつつ、情勢は推移します。

 天正十六年四月、秀吉は聚楽第(京都市上京区)に後陽成天皇を行幸させ、天皇の面前で、供奉した織田信雄、徳川家康ら諸大名に秀吉への臣従を誓約させます。
 この行幸の直前に家康は秀吉の弟・秀長、甥・秀次、親類の宇喜多秀家(養女豪姫の婿)とともに、摂関家(五摂家)に次ぐ家柄「清華家」にのぼったとされ、これを「清華成(せいがなり)」と呼びます。
 行幸時に「清華成」大名であったのは織田・徳川・宇喜多三大名のみであり、行幸後に上杉、毛利は前田、小早川が加わります。

 また、この聚楽第行幸のなかで、秀吉の執奏により徳川家家臣の井伊直政、本多忠勝、榊原康政らが叙位・任官を遂げています。
 このうち井伊直政は縦五位下侍従の官位を得て、「公家成」大名に列する徳川筆頭家臣に位置づけられました。

 一連の行幸を終え、家康は天正十六年(1588)四月二十七日駿府に戻ります。

北条氏の臣従

 帰着した家康を待ち構えていたのは、北条氏が示した豊臣政権への不臣従に対する対応でした。

 この頃なると、豊臣政権内部では出仕のない北条氏に対する強硬意見が次第に強まっていきます。
同盟関係にある家康はこのような状況を見かねて、五月二十一日に家康は北条氏政・氏直父子へ三カ条からなる起請文を遣わします。

 ①北条父子については秀吉の前で悪し様にいわれず、また北条領国を望むようなことは決してしな 
  い。
 ②今月中に氏政の兄弟衆が上洛して御礼を申し上げること。
 ③もし出仕に納得できないのであれば、家康の娘(氏直の正妻督姫)を返してほしい

 この三条目は、遠相同盟を破棄することを意味し、家康の強い危機感が表れています。
北条氏に対して、臣従の「最後通告」を行ったのです。

 ところが、このような家康の切実な慫慂にもかかわらず、兄弟衆の上洛はなかなか実現しないばかりか、北条氏は益々臨戦態勢を固めていきます。

 北条氏の内部では、家康の勧告を受け入れようとする融和派の氏直・氏規と、上洛を拒否する強硬派の氏政・氏照兄弟の対立があったといわれます。
 徳川氏との同盟関係が絶たれることは、自らの孤立を深め、領国平和の危機を高めることになりかねないため、北条氏は妥協に傾き、氏政の弟で韮山城主の氏規を上洛させることとし、秀吉に従う態度を示します。

 七月、家康は上洛し北条氏従属の対応に務める一方、北条氏との取次(交渉役)の任に当たっていた朝比奈康勝に、遅れている氏規の上洛を催促させました。。
 八月、氏規はやっと上洛し、二十二日に聚楽第で諸大名や公家が列するなか、秀吉に対面し、北条氏の臣従の意を示します。

 北条氏は豊臣政権に従う大名となり、関東は豊臣政権の影響下に置かれることになりました。
これを受けて、常陸・佐竹氏ほか北関東大名・国衆らに対しても、秀吉からの上洛の指示と、各領国の国分執行が通告され、関東の「惣無事」実現が進むことになります。
 こうして家康は北条氏の豊臣権力への従属を成し遂げます。

 この頃、奥州では陸奥・伊達政宗と、出羽・最上義光を中心とした反伊達勢力が戦争をしている状況でした。

 伊達・最上両氏をはじめとした南奥州諸大名・国衆に対しては、取次(外交交渉役)として羽柴家重臣の冨田一白が活動していましたが、奥羽の「惣無事」を実現するため、天正十六年十月、秀吉は伊達・最上両氏と外交関係を持つ家康にその任を委ねます。しかし、家康が活動を始める前に、この戦争の和睦は伊達・最上両氏の間で成し遂げられます。

 豊臣政権による「関東・奥両国惣無事」活動における徳川氏の関わりは、徳川氏の領国が関東・奥羽地方との最前線(境目)にあることによる、「惣無事」活動を遂行するための状況整備と助勢の役割でした。
 そこには徳川氏が築いた外交関係と軍事力を活用したいという秀吉の思惑がありました。従って「関東・奥両国惣無事」活動に支障が生じた場合は、家康が真っ先に軍事的解決に務め、さらには制圧した地域の統治にあたる役割が求められていました。

沼田領領有問題の解決

 北条氏が従属したため、真田氏との間で争われていた上野国沼田両領の領有問題の解決へ向けて動きがあらわれます。

 秀吉は天正十七年(1589)二月、北条氏の使者として遣わされた板部岡江雪から国分交渉の内容と経緯を聴聞します。それをふまえて、北条氏の上洛・出仕と引き替えに領土の裁定を下しました。

その内容は
 ①真田氏が押さえている沼田領のうち三分の二にあたる領域と沼田城を北条氏に与える
 ②残り三分の一は、その中にある城も含めて真田氏に安堵する。
 ③北条氏に下された三分の二に相当する替地は、家康から真田氏に補填する。
というものでした。

 北条氏は三分の二裁定に不服でしたが、翌天正十七年(1589)六月に、当主氏直はこれを受け入れ、十二月上旬に氏政が上洛すると約束しました。

 天正十七年七月、羽柴家家臣の津田盛月・富田一白の両者が上使として、上野国に派遣され、両者立ち会いのもと二十一日に沼田城は北条氏に渡されました。 これを受け取った北条氏邦は沼田城に家臣の猪俣邦憲を入れました。    

 徳川氏も当事者の立場から重臣の榊原康政が立ち会いました。また、真田氏には家康から信濃国箕輪領(長野県箕輪町と周辺)が与えられました。

 これにより、天正壬午の乱から続いていた上野沼田・吾妻領問題は解決し、年内に予定された北条氏政の上洛・出仕が待たれることとなりました。

家康三男・長丸(徳川秀忠)の上洛

 九月、豊臣政権は諸大名に対して、妻子を人質として在京させることを命じます。
家康は三男の長丸(のちの徳川秀忠)を差し出す意向に示します。

 長丸は天正七年(1579)別妻の「西郷殿(天正十七年五月十九日死去)」との間に生まれた男子で、長男の信康は亡く、二男の秀康は秀吉の養子、同母弟の次(福松)は東条松平氏、五男の満(万)千代は穴山武田氏を継いでいたため、徳川家の嫡子立場にありました。

 秀吉は家康のこの対応を受けて、長丸の差し出しに少しの猶予を与える一方、在京中の活動を賄う知行地を近江国に与えます。
 ただこの上洛は織田信雄の娘で秀吉の養女となっていた当時六歳の小姫君との婚姻も目的でした。
二人は正月二十一日に聚楽第で祝言をあげますが、翌年七月に小姫君が死去してしまい、婚姻は長く続きませんでした。また、このとき長丸は元服し、秀吉の一字をもらい秀忠と名乗りをかえています。
 なお、この間の正月十四日には、家康の正妻旭姫が聚楽第で死去します。また、長丸はそのまま人質として上方に残されることはなく、秀吉の配慮で帰国することになります。

 長丸と小姫の婚姻は長くは続きませんでしたが、旭姫の死去が予想される中で秀吉と家康の姻戚関係を継続させるための婚姻だったとも考えられます。
 (その後、長丸(秀忠)は文禄四年(1595)九月に、またも秀吉の取り成しによって、秀吉の養女とされた浅井江(あざいごう)と結婚します)

北条氏の反乱、小田原攻めへ

 北条氏政の上洛が待たれる十一月三日、北条氏の家臣で沼田城にあった猪俣邦憲が、沼田領内の真田氏の領有にあった名胡桃城(群馬県みなかみ町)を奪い取ったという知らせが、徳川氏のもとに伝わります。
 家康はこの報を真田昌幸から受け、沼田・吾妻両領問題を解決した津田盛月・富田一白の両人を通じて、秀吉に伝えられました。

 秀吉の怒りは激しく、北条氏から申し開きのために来ていた家臣の石巻康慶を、北条領国の境目に位置する三枚橋城に留め置き、十一月二十四日、氏直宛に五カ条からなる最後通牒を送りつけます。

 しかしこの期に及んでも、北条方では事態の深刻さを認識できず、十二月七日付の氏直条書では、政権に対して、氏政の上洛・出仕が遅れることと名胡桃城奪取の申し開きをするなど強気の弁明を行っていました。

 秀吉はこの条書の到着以前に、それを見越して十二月に入ると北条氏の討伐に踏み切ります。
(秀吉はそもそも従属下の大名らに許可のない他領国への軍事行動を禁じていたなか(「惣無事令」)、これは秀吉による領国画定を無視する行為であるとして、北条氏には従属する意思はないと判断したのである)
 家康は急遽上洛し、十二月十日に聚楽第で小田原攻めの軍議に与ります。そこで家康はおよそ三万の軍勢を率いて先鋒となり、翌正月二十八日に出馬することになりました。

【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著  徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社  本多隆成著 徳川家康の決断
中央公論新社  和田裕弘著 信長公記 戦国覇者の一級資料
株式会社PHP研究所 河合敦著 徳川家康と9つの危機
朝日新聞出版 黒田基樹著 徳川家康の最新研究
ウィキペディア
コトバンク

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