源頼朝 奥州藤原氏の滅亡の過程

源頼朝

和平への圧力

源義経の死去後、後白河法皇は世の中が平和になったため、頼朝に軍事行動を控えるように命じます。
摂政の九条兼実も伊勢神宮、東大寺の造営を理由に奥州征伐を止める御教書(みぎょうしょ:三位以上の貴人の意向を伝える文書)を発行します。

しかし、頼朝はこれらを無視して平泉攻撃の準備を進めます。後白河を支える唯一の官軍を目指す頼朝にとって、奥州藤原氏の勢力は無視できる存在ではなかったからです。

大庭景能の進言

頼朝は全国から兵を集めますが、朝廷から奥州征伐の許可が出ていないので、どのようにするか迷っていました。
そこで頼朝は兵法に詳しい大庭景能(おおばかげよし)に相談します。
景能は「軍の中では平氏は将軍の命令を聞くもので、院や天皇の指示は聞かないものであり、すでに朝廷には言ってあるのだから、朝廷の決定を待つ必要はない」と進言します。

頼朝の進軍

1189年7月、頼朝は軍勢を3つに分けて奥州征伐に進軍します。
 ・常陸、上総ルート:千葉常胤八田知家が大将軍
 ・上野、越後、出羽ルート:比企義員宇佐美実政
 ・中央ルート:源頼朝が大将軍
8月初旬に頼朝軍は、奥州藤原氏の防衛線である阿津賀志山(あつかしやま)の防塁(福島県伊達郡国見町)に挑みます。
藤原氏は国衡を大将軍として、幅五尺(約1.5m)で数キロに及ぶ二重の堀に阿武隈川の水を引きさらに土塁を築いたうえで、2万の兵を配置していました。

◆藤原国衡の最期◆
頼朝勢は、畠山重忠率いる80人の工兵が堀を土石で埋めたこともあり、堀を乗り越えることに成功し、3日間の激戦の末、頼朝軍は勝利します。
国衡は出羽方面に逃走しますが、追いついた和田義盛との一騎打ちで負傷し、畠山重忠勢に襲われて討ち取られます。陸奥国府の多賀城にいた泰衡は陸奥の奥地に逃走します。

奥州藤原氏の滅亡

◆頼朝の平泉入り◆
1189年8月中旬、頼朝は多賀城を経由して平泉入りを果たします。泰衡は館に火をつけて逃亡したあとでした。ここで頼朝は朝廷に対して合戦の報告をします。

藤原基成父子が降伏し、泰衡は「義経を保護したのは、父・秀衡の判断」とする命乞いの書状を頼朝に送りますが、頼朝はこれを許しませんでした。
頼朝は泰衡を追討すべく、先祖・頼義前九年合戦を終結させた地・厩川柵を目指します。

◆泰衡の首◆
9月初旬、逃走中に郎党の河田次郎の裏切りによって討たれた泰衡の首が頼朝のもとに届けられます。享年35歳。官職は陸奥・出羽押領使で、奥六郡を支配した父・秀衡のような中央の官職には就いていませんでした。
一方、河田次郎は譜代の恩を忘れ、泰衡の首を討った罪を責められ斬罪に処せられました。

奥州藤原氏の栄華の象徴でもある中尊寺金色堂には藤原三代のミイラと泰衡の首が安置されています(岩手県平泉町)

奥州藤原氏滅亡後

◆戦いの正当化◆
頼朝は吉田兼房への書状で合戦の状況を京に伝え、その中で泰衡を
「させる貴人にあらず、かつては相伝の家人なり(大して高貴な人ではなく、代々河内源氏に仕えてきた家人にすぎない)」とし、
泰衡を討ったことは家人の討伐に過ぎないと今回の戦いを正当化しようとしました。

最終的に後白河は泰衡追討を許可する院宣を下し、頼朝と郎党に恩賞を与えるとしましたが頼朝はさすがに辞退しています。

◆唯一の官軍◆
こうして対立する勢力をすべて滅ぼした頼朝は、ついに後白河を支える唯一の官軍の立場を確立します。また、無断で押し進めた合戦を朝廷に認めさせたことで、事実上朝廷を保護下に置いたことになりました。

奥州藤原氏ゆかりの平泉の史跡は下記動画もご覧ください。

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