再度の上洛と東大寺供養
1195年2月頼朝は北条政子、娘・大姫、長男・頼家を伴い上洛するため鎌倉を出立します。
東大寺大仏落慶供養出席、大姫の後鳥羽天皇入内への布石、頼朝のお披露目を目的としたものでした。
宣陽門院へに接近
頼朝の上洛は3月4日から6月25日までの長期に渡りました。
東大寺から帰京した頼朝は大姫入内のために、真っ先に後白河院皇女・宣陽門院(後白河と丹後局の皇女)を御所六条殿(旧後白河院御所の六条西洞院)に訪ねます。
宣陽門院は、かつての後白河院の近臣の中核となっており、彼女を中心とする集団が後白河の後宮を支配していました。
頼朝は3月29日に宣陽門院を六波羅邸に招き、政子・大姫と対面させます。また、砂金三百両を銀製の蒔箱に納め、白綾(白絹糸で綾織された織物)三十端を敷物とする豪華な贈り物を準備し、随行の者にも贈り物を準備しました。4月17日にも頼朝は再度宣陽門院を六波羅邸に招いています。
逆に九条兼実との関係は冷めたものとなり、贈り物は馬二頭のみで兼実を驚かせました。
大姫入内工作
大姫は幼い頃、許嫁とされた源義高を父(頼朝)に殺害されてから、精神的に病んでいたと言われます。
頼朝は一度目の上洛(1191年)の際にも、大姫入内を画策しましたが、後白河院との連携が前提となっていたので中断していました。
今回は2度目の計画で単なる親心だけでなく、当然戦略的なものが感じられます。
頼朝は政所下文に見られるように王朝権威を利用し始めており、朝廷との強固な関係を結ぼうとしました。、それに留まらず全国武士を従えるようになった頼朝は、朝廷をも支配しようと考えたかもしれません。大姫の入内計画はこれらを実現するための一歩とも考えられます。
建久七年の政変と大姫の死
1196年摂関に君臨した九条兼実が罷免されます。
これに先たち娘・中宮任子も中宮を退出させられます。兼実の弟・天台宗座主慈円も解任され、九条家一門が徹底的に排除されることになります。
首謀者は源通親で、大姫の入内を口実に頼朝も黙認したといいます。
通親の讒言が原因といわれますが、兼実の過度な権勢、無礼な振る舞いが後鳥羽天皇の怒りと不信を招いた面もあったといわれます。
1197年7月14日、長い闘病の末大姫が亡くなります。
鎌倉に戻ったあとに発病したと思われますが、京への長旅や入内計画が心労となった可能性もあります。頼朝の大姫入内計画も終わりを迎えます。
源頼朝の死去
源頼朝は1199年正月11日に出家し、2日後の13日に息を引き取ります。
後白河より13歳、平清盛より10歳若い、53歳でした。
1198年12月27日、稲毛重成の亡妻(室は北条政子の妹)の追福のために新造した相模川の橋供養に出席した帰りに落馬し、程なく死去したと伝わります。
京に頼朝死去の報がとどいたのは正月20日、飲水病(糖尿病)で重病になり死去したと伝わりました。
これが落馬後の容体なのか、日常の持病を意味するものかわかりません。あるいは病気を発症して落馬して死去したのかもしれません。
飲水病とあるので、寒風の中で乗馬中に脳血管系の病気を急に発症した可能性もあります。
頼朝の死に関して詳しく記載した資料はありません。以下に各資料の記載をご紹介します。
- 「吾妻鏡」の記載
吾妻鏡に記載されているのは、1212年2月28日条なので死後13年経てからになります。
なぜ、空白の12年間に記事が無いのかは不明です。
記載内容は上記のように、相模川の橋供養に参列した帰りに落馬し、それが原因で亡くなったことです。また、1212年10月11日条によると、死の前年12月から病気がちでだったと記載があります。 - 近衛家実の日記「猪隈関白記」
1199年1月18日条によると、頼朝は飲水病によって1月11日出家したとの記載があります。
飲水の重病とは喉が渇いて尿が出にくくなる病気で、一説によると糖尿病と言われ過度の飲食、飲酒が原因といわれます。 - 藤原定家の日記「名月記」
ほぼ同じ記載をしているが、死因を「頓病」としています。
「頓病」とは突然死のことで、脳出血、心臓発作などの病気が考えられます。
まとめ
平治の乱に敗れて伊豆に配流になった源頼朝。平氏打倒を目的に挙兵し、石橋山の戦いで敗れるなどの不利な状況もありましたが、壇の浦で平氏を滅亡させます。
その後も弟・源義経の追討、奥州藤原氏の滅亡、弟・範頼の失脚など全国の武士を従えるようになり、唯一の官軍となります。
平時の幕府統制体制の整備を進めますが、朝廷への工作、幕府の権力継承など多くが未完成のままの最後でした。
頼朝の死後、幕府では将軍も巻き込んだ有力御家人の権力抗争が始まることになります。
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