呪われた? 平清盛の死の状況

源頼朝

平清盛の反撃

論功行賞を通して、頼朝が御家人との主従関係を固めていた頃、清盛は反撃を目指していました。
1180年11月福原遷都を諦め京に戻り、長年の軍事基盤である伊賀・伊勢の家人を先頭に近江を制圧し、12月には以仁王の挙兵に協力した円城寺、興福寺をはじめとする南都の寺院を落としていきます。

翌1181年正月、畿内およびその周辺九ヵ国を統率する「惣官」を創設して嫡男宗盛を任じ、それを補佐する総下司を設置して広範囲からの兵士・兵糧の徴収を可能としました。

平清盛の病

1181年閏2月4日突如熱病に倒れます。
その高熱のありさまは
 ・清盛の体温が異常に高く、医者が裸になった。(江戸時代の川柳)
 ・水槽に比叡山の千手井の水(非常に冷たいことで有名)を満たして、清盛の体を沈めたが水
  がお湯になった。(平家物語)
 ・激しい頭痛に悩まされていたが、高熱になり体が焦げ付くような重症になった。そこで雪を
  清盛の頭に盛ったが、すぐに湯になった。(大乗院古日記残闕)
等、大げさな表現であると思われますが、よほどの高熱に苦しんだことが想像されます

平清盛の最期

清盛は死期を悟り、後白河法皇に使者を送り「自分の死後は宗盛と相談し、万事をお申し付けください」とお願いします。しかし、法皇からの返事はなく、この機に乗じて平家を討とうとしたといいます。(法皇には武力集団がいなかったので、実行に移すことができなかっただけかもしれません)

死去に際して、清盛は東国の奪回を命じたのはもちろんのこと、平氏一門が最後の一人になろうとも頼朝と戦うことを命じ、頼朝の首を墓に供えるように言い残して亡くなります。享年64歳。

※長男・重盛(病死)、次男・基盛(病死)は既に亡くなっており、三男・宗盛が後を継いでい
 た。

源頼朝の和平提案

事実上平氏政権が消滅し、後白河が朝廷の中心となった以上、後白河救済という上洛の目的は失われ、軍事行動は休止せざるをえなくなります。

1181年7月頼朝は後白河に和平提案を行います。それは宗盛に伝えられましたが、清盛の遺言を守り一蹴してしまいます。
自分の意向が踏みにじられた宗盛に対して、後白河は不信感を深めていきました。

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