【今回の記事に関連する場所】
①三方原古戦場 ②旧二条城 ③槙島城 ④枇杷庄城 ⑤若江城 ⑥小谷城 ⑦一乗谷
⑧長篠城 ⑨岩村城 ⑩明知城 ⑪高天神城 ⑫吉田城 ⑬今切 ⑭馬付塚城 ⑮井伊谷
⑯足助城 ⑰二連木城 ⑱浜松城 ⑲岡崎城
※番号を表示すると説明文が表示されます。
将軍義昭の信長包囲網と室町幕府の滅亡
当初、織田・徳川両氏を支持する態度を示していた将軍義昭は、三方原での敗戦が影響し、京都退去の準備をするなど動揺し始めます。
この態度に信長は天下人として品格のある振る舞いをするように諫言します。
これを機に将軍義昭と信長の協調関係に亀裂が入り、確執が深まっていくようになります。
元亀四年(1573)二月十三日、将軍・義昭は朝倉義景、浅井長政らに信長の打倒を命じる御内書を下し、信長に反旗を翻します。
そして、義昭を中心に浅井長政、朝倉義景、三好三人衆、武田信玄らによる反織田連合が立ち上がるまでになります。
信長は義昭と和睦に持ち込みますが、三月下旬にふたたび信長に対して挙兵します。
これに対して信長は三月二十九日に京都に入り、知恩院に陣取ります。そして四月四日、上京に火を放ち焼き払います。上京は禁裏御所や公家衆の邸宅などがある政治の中心地でした。
この信長の行動の意図は、義昭が将軍として京都住民に安全の責任を負うべき立場にあるにもかかわらず、それを全うできずに、住民から見放され、将軍失格の烙印を押されたことを世の中に示すためであったとされています。そのような中でも両者は再び和睦します。
ところが、義昭は七月三日義昭は二条城を出て、槙島城(京都市宇治市)で挙兵します。これに対して織田軍が十六日に出陣したところ、義昭は十八日に簡単に降伏してしまいます。
義昭は二歳の子息を人質として差し出し、枇杷庄(びわのしょう)城(城陽市)を経て、三好義継の居城である若江城(大阪府東大阪市)へと去ります。
これ以降、義昭は将軍として京へ戻ることはなく、室町幕府は滅亡します。
また、義昭退去後の七月二十八日、元亀の元号が天正に改元されます。
朝倉・浅井氏の滅亡
天正元年(1573)八月十日、信長は浅井久政・長政父子の小谷城攻めに向かいます。
しかし、朝倉義景が後詰めとして近江境まで出陣してきたため、織田軍は十三日夜中に攻めかかり、退却する朝倉軍を追撃して敦賀に入り、二十日には一乗谷に侵攻し、義景を自害に追い込みます。
信長はそのまま小谷城を攻め、二十七日に久政が自害、九月一日には長政も自害に追いこみます。
浅井氏は滅亡、長政の妻・お市と三人の娘(茶々、初、江)が助け出され、信長のもとに引き取られました。
朝倉・浅井氏の滅亡によって、畿内での信長の優位は決定的となりました。
信玄の死、家康の反攻と武田勝頼の反撃
信玄は、前述の反織田連合のもと三河国への侵攻を続けていましたが、戦いの途上で発病し、病状が悪化したために侵攻は中断し、甲斐国ヘ帰還します。
そして、元亀四年(1573)四月十二日、帰国の途中で死去します。
信玄亡き後の武田家の家督は四郎勝頼が継ぐことになりました。
勝頼は当初は諏訪勝頼といわれて主流とはみなされていなかったこと、甲府入りに際して高遠(長野県伊那市)時代の家臣団を連れてきたことで、信玄に仕えてきた重臣と軋轢があったといわれ、しばらくの間武田方の動きは停滞することになります。
信玄は死後三年間、喪を秘密にするように命じていたが、信玄死の噂は広まっていきます。
元亀四年(1573)五月、家康は駿河国駿府周辺、遠江国掛川へ出兵。それにもかかわらず、武田方から何の反撃もみられませんでした。これにより家康は信玄の死を確信し、上杉謙信に伝えたといわれます。
さらに家康は、三河本国での退勢挽回を図るべく、山家三方衆に触手を伸ばします。
特に作手奥平定能、長篠菅沼正貞に照準を定めました。
奥平氏は今川氏に従属していましたが、桶狭間の戦い以後は徳川氏に従属していました。
しかし、武田氏が今川領に進攻すると、武田氏と奥平氏の接触が行われるようになります。これは武田氏が信濃国から三河国への入り口地域を支配する奥平氏を重要視していたことを示しています。
家康が上杉氏と同盟を結ぶと、武田氏は奥平氏への働きかけを強めていきます。元亀三年(1572)七月には奥平氏を含む山家三方衆(奥平定能:亀山城主、菅沼正貞:長篠城主、菅沼定忠:田峯城主)は武田氏に従属していました。
元亀四年(1573)七月、家康は徳川・武田両国の境目にあり、武田方の要衝であった三河長篠城(愛知県新城市)を包囲します。
ここでも勝頼は出陣を予定しますが、自身の喪明けまで対外戦争を自粛せよとの信玄の遺言を遵守する重臣の意見に押され自らの出陣を押しとどめられます。結果、勝頼は甲斐一国から招集した軍勢のみで対応せざるをえず、長篠城ヘは武田信豊・小山田信茂・馬場信春・土屋昌次、遠江を経由して浜松方面へは山県昌景、武田信綱・一条信龍・穴山信君らが派遣されました。
この間も家康は、亀山城にいた奥平定能(山家三方衆で最大の勢力を誇っていた)とひそかに接触し、八月二十日主に以下のような起請文を促し、武田方からの離反を促します。
・本領安堵
・娘の亀姫を定能の嫡男・信昌に輿入れさせる
・三千貫の領地を与える
(亀姫の輿入れを知った家康嫡男・信康は憤慨したといわれます。これが家康・信康父子の最初の確執になりました)
この直後、奥平父子(定能、信昌)が家康に内通しているとの噂が武田方に流れます。
土屋昌次は奥平定能に厳しく詰問しますが、定能は口を割りませんでした。定能は作手に戻ると家康に亀山城から脱出することを伝えます。定能の脱出を知った武田方からは武田信豊・土屋昌次が追撃しますが、逆に長篠城の救援部隊は馬場信春のみとなります。
その間、家康は長篠城攻略を継続し、九月七日に攻略しました。
一方、浜松方面進出した武田信綱は、九月十日本多忠勝・榊原康政の軍政と遭遇し猛攻を仕掛けられ敗走します。穴山信君も森に在陣し、油断していたところを徳川軍に衝かれて敗退したといわれます。これが徳川軍が武田軍を撃破した初めての戦いとなりました。
また、奥三河でも奥平父子が攻め込まれるも反撃に出て、勝利を収めました。
こうして家康は、三河で野田城と長篠城の奪回と作手奥平定能・信昌父子の取り込みに成功します。
また、遠江では磐田原台地の諸城の奪回を果たしただけでなく、高天神城主小笠原氏助の再帰属も実現させました。
家康は、武田信玄に奪われた領土のかなりの部分を回復することに成功しました。
武田勝頼の反撃
信玄は死後三年間の合戦は避けるように遺言していましたが、天正元年(1573)勝頼率いる武田勢が駿河から大井川を越え、掛川を荒らしたうえ、家康の本拠地・浜松城下に乱入。
さらに、天正二年(1574)になると、織田信長に対しても攻撃を仕掛けます。
正月二十七日に岩村城(岐阜県恵那市)に入り、明知城(同)を囲んで、二月にはこれを攻め落とします。武田軍の攻勢はさらに続き、二月半ばから四月上旬にかけて、織田方の砦や織田方についていた美濃衆の城など十八か所を攻め落としたといわれます。
このように、武田勢の勢力は東美濃・奥三河に及ぶことになりました。
五月に入ると、勝頼は二万五千ともいわれる軍勢を率いて東遠江に侵攻し、十二日には再び徳川氏についていた遠江従属国衆・小笠原氏の本城・高天神城(静岡県掛川市)を取り囲みます。
当時、家康が動かせた軍勢は八千ほどといわれ、単独での後詰めには勢力が少なく信長の救援を求めます。
信長は畿内での大坂本願寺を中心とした一向一揆などの対応に追われていたため、早急な出馬を行うことができず、五月末に高天神城は危機的な状態となっていき(武田に降伏・開城を主張する氏助派と家康の援軍を待つことを主張する一族義頼派の対立があったといわれます)、六月十七日小笠原氏助は武田氏に下ります。
勝頼は、高天神城に小笠原氏康をそのまま在城させ、穴山信君を配備しました。
信長が岐阜を発ったのは六月十四日、十七日に吉田城(愛知県豊橋市)に入り、十九日に今切(静岡県湖西市)で渡海しようとしていたところ落城の報を受けます。
そのため、信長勢は撤兵しましたが、その際、家康に対して黄金を送ったといいます。
遠江の要所高天神城を失った家康は大きな打撃を受け、小笠原氏の属城であった馬伏塚城(袋井市)を接収し、修復して大須賀康高を入れ高天神城への押さえとしました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
高天神城の重要性
高天神城は、東海道の要衝掛川城をすり抜け、武田勢が西進するための経由地になったしまう
ばかりだけではなく、掛川城も脅かされ遠江東部の覇権につがる城でした。
そのため、元亀三年から天正九年までの約十年間、家康と武田信玄・勝頼父子が奪い合った
要衝でした。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
こうした中、天正3年(1575)遠江国井伊谷を追われ家康に仕えていた井伊虎松が井伊家の復興を遂げます。
武田氏の勢力が井伊谷に及んでいたため、家康は井伊谷で影響力を持つ井伊家の支援を行ったといわれます。その後、虎松は元服を遂げ「直政」を名乗ります。
同年3月下旬、武田氏の先陣は奥三河に侵攻し、四月に足助城(愛知県豊田市)を落城させます。しかし、後述する大岡弥四郎らの密諜が発覚し、岡崎城には向かうことはありませんでした。
山県昌景率いる部隊は徳川方にあった菅沼定盈(さだみつ)の野田城(愛知県新城市)を攻略します。
勝頼自身は、四月十二日に父信玄の三回忌法要を実施し、直ちに三河に出陣します。
勝頼本隊は諏訪を経て南下し、兵越峠から遠江に入ると二俣城に着陣し浜松城を牽制すると、家康は身動きが取れない状態となります。
勝頼は四月下旬、作手古宮城で先陣と合流し、大野田城を攻め落とします。
家康・信康父子はそれぞれ吉田城に急行していました。
この情報を掴んだ武田勢は、四月二十九日吉田に侵攻し、場外で家康を殲滅しようと図ります。
徳川方の二連木城主・戸田康長が攻撃を仕掛けると、武田勢は山県昌景が中心となって猛攻を加えます。その間に家康・信康父子はは吉田城へ入城。吉田城に二千余人が在城することとなりました。
勝頼は吉田城をすぐに落とすのは無理だと判断したようで、その後、長篠城に向かいます。
勝頼は、長篠城から一キロも離れていない医王寺の本陣を構えました。
武田勝頼が三河に出陣した理由は二つ
・後述する岡崎衆の有力者から、武田に内通してきたため
・織田信長に攻められていた大坂本願寺からの支援要請を受けたため
(この当時信長は畿内に出陣しており、家康の支援をできぬ間に、打倒家康を目論んだ)
徳川家の内紛(勝頼三河侵攻の理由のひとつ)
元亀元年(1570)に家康が居城を浜松城に移すと、当時十二歳であった嫡子・竹千代は八月に元服し「岡崎次郎三郎信康」と名乗り、岡崎城主となります。
この信康には、上流家臣の庶流と中下級家臣の付与による信康家臣団が成立しており、傅役(もりやく)三人、町奉行も三人付けられていたといわれます。
信玄の遠江侵攻で国衆のかなりの者が武田方に降り、三方原の合戦では大敗し、高天神城が攻略されるなど、武田氏による徳川領国への攻勢が進む中(元亀元年の信玄、天正二年(1574)の勝頼の侵攻によって徳川氏は両国の三分の一を失う)、浜松城において家康とその周辺からなる権力中枢の親織田氏・対武田氏の外交路線に反対する勢力が動きを見せます。
天正三年(1575)四月家康嫡男・信康(岡崎城主)の家臣で岡崎町奉行三人の内、大岡弥四郎と松平親右衛門の二人が中心となって信康家臣中の同志を糾合し、武田氏の軍勢を三河足助方面から岡崎城に引き入れようと企てます。
【大岡弥四郎事件】
徳川家家臣で岡崎町奉行の一人であった大岡弥四郎が、町奉行の相役の松平新右衛門尉、信康の家老の一人で岡崎城代であった鳥居九兵衛の家臣小谷九郎左衛門尉・倉地平左衛門尉らと謀って、武田軍を岡崎城に引き入れて、岡崎城を武田方にしようとする謀叛事件を企てたところ、鳥居の家臣で謀議にも参加していた山田八蔵が裏切って、事の次第を岡崎城に通報したことで謀議が発覚し、大岡らは捕縛されたうえで処罰され、謀叛事件は未然に防がれた。
結果は一派の者の通報により、失敗に終わりますが、浜松城にあり家康を中心に進める主戦派と後衛にあって路線の見直しを求める(先の高天神城の陥落も信長の出兵が遅れたことに一因があり、武田勢が徳川領国へ侵攻した際、信長が救援に救援に来てくれるか、不安視する者もいた)岡崎城の信康周辺との間との政治的対立が引き金となりました。
それは徳川氏が織田・武田との狭間にある「境目の大名」であったために起きた事件で、家康は大岡ら首謀者を極刑に処することで、自信の路線を固持することを領国内外に示しました。
天正三年 勝頼侵攻の目的
上記の勝頼の三河侵攻の目的はどこにあったのでしょうか。
当初は長篠城の奪回が目的では無かったのかもしれません。反信長包囲網の一員として、信長に敵対した大坂本願寺と連携した後方支援で岡崎、尾張、最終的には上洛を目指した動きとも考えられます。
しかし、大岡弥四郎事件の発覚など、様々な状況が変化していったのちの長篠城攻めになったとも考えられています。
【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著 徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社 本多隆成著 徳川家康の決断
中央公論新社 和田裕弘著 信長公記 戦国覇者の一級資料
PHP研究所株式会社 河合 敦著 徳川家康と9つの危機
株式会社幻冬舎 平山優著 徳川家康と武田勝頼
株式会社講談社 渡邊大門編 徳川家康合戦録 戦下手か戦巧者か
中央公論新社 金子 拓著 長篠合戦
朝日新聞出版 黒田基樹著 徳川家康の最新研究
ウィキペディア
コトバンク
コメント