出来事 ま行

水島合戦(みずしまかっせん)

平安時代末期における治承・寿永の乱の戦闘の一つである。
寿永2年(1183)閏10月1日、備中国水島(現在の倉敷市玉島)において義仲軍と平家軍との間で行われた海戦。義仲軍の敗北に終わる。

目代(もくだい)

日本の古代末・中世において、地方官たる国守の代官として任国に下向(げこう)し、在庁官人を指揮して国務を行う人。

以仁王の乱(もちひとおうのらん)

治承4年(1180)に高倉天皇の兄宮である以仁王と源頼政が、打倒平氏のための挙兵を計画し、諸国の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発した事件。
計画は準備不足のために露見して追討を受け、以仁王と頼政は宇治平等院の戦いで敗死、早期に鎮圧された。しかし、これを契機に諸国の反平氏勢力が兵を挙げ、全国的な動乱である治承・寿永の乱が始まる。

守山崩れ(もりやまくずれ)

天文4年12月5日(1535年12月29日)早朝に、三河岡崎城主・松平清康が、尾張国春日井郡森山(現・愛知県名古屋市守山区)の陣中において、家臣の阿部正豊に暗殺された事件をいう。
天分4年(1535年)、松平清康は織田信光の籠る守山城に侵攻する。この戦いは織田信秀と戦いを続ける織田藤左衛門尉を支援するために出陣したとされている。
そして、守山布陣の翌12月5日早暁、清康の本陣で馬離れの騒ぎが起こった。これを阿部正豊は、父が清康に誅殺されたためであると勘違いし(父・阿部定吉が、親織田氏勢力に加わるという噂があった。清康はこれを信じていなかったようだが、家臣の多くは定吉に対して疑念を抱いていたらしい。)、本陣にいた清康を惨殺したとされる。正豊はその場で殺され、主君を失った松平軍は岡崎に撤退する。

タイトルとURLをコピーしました