さ
前九年の役(ぜんくねんのえき)
永承6年(1051)から康平5年(1062)にかけて、陸奥の豪族安部頼時とその子貞任(さだとう)・宗任(むねとう)らが起こした叛乱を、朝廷が源頼義・義家を派遣して平定させた戦役。のちの後三年の役(1086‐87)とともに源氏が東国に勢力を築くきっかけとなった。
し
鹿ヶ谷事件(ししがたにじけん)
1177年(治承1)後白河法皇の近臣が平氏打倒を企てた陰謀事件。
藤原成親(なりちか)・同師光(もろみつ)(西光)・俊寛(しゅんかん)らが京都東山鹿ヶ谷の俊寛の山荘で平氏討伐の謀議をした事件。多田行綱の密告によって発覚し、師光は死罪、成親は備前国に、俊寛らは九州の南の果ての鬼界ヶ島に配流された。
賤ケ岳の戦い(しずがたけのたたかい)
天正 11年 (1583年) 4月21日近江国・賤ヶ岳を中心に行われた豊臣秀吉と柴田勝家の戦い。
本能寺の変後、明智光秀を討ち、畿内を収め勢威を増した豊臣秀吉と、織田家随一の宿老を自認する柴田勝家が、信長の後継問題で対立。
勝家は滝川一益、信長の3男信孝と結び、秀吉を除くことを企て、その年冬から天正 11年2月にかけて戦いが始ったが、越前北庄に本拠をおく勝家は雪のため動けず、その2月ようやく出陣し、4月秀吉軍と賤ヶ岳付近で対峙した。
勝家は敗れて北ノ庄に敗走し同月 24日自殺したため,秀吉の地位が確立した。
治承三年の政変(じしょうさんねんのせいへん)
治承3年(1179)11月、平清盛が軍勢を率いて京都を制圧、後白河院政を停止した事件。
十四条合戦(じゅうしじょうかっせん)
永禄4年(1561年)5月11日に信長を苦しめた斎藤義龍が急死し、14歳の嫡子・龍興が後継した。これを見た信長は好機到来とばかりに5月13日に美濃に向けて出陣。翌5月14日に森部の戦いにおいて斎藤軍を破ります。
斎藤義龍軍は、5月23日に稲葉山城の西にある十四条に陣を布いて織田軍の迎撃態勢を整えた。これに対して信長は墨俣に砦を築き、その上で軍を率いて斎藤軍と激突した。
両軍の兵力は不明だが、斎藤軍はここで敗れれば後は籠城するしかない追い詰められた軍勢、それに対して織田軍は先の森部では勝利したものの、ほとんど連戦続きの上に地の利は敵方にあったためか、ここで織田軍は敗れて信長の従弟・織田広良が戦死した。信長はやむなく西軽海まで撤退した。
す
せ
関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)
慶長5年(1600)関ヶ原で、石田三成らの西軍と、徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。
小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝し、石田三成らは処刑され、豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立したことから「天下分け目の戦い」といわれる。
