か
金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)
元亀元年(1570年)に起きた、織田信長と朝倉義景との戦闘のひとつ。金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)または金ヶ崎崩れとも呼ばれ、織田信長の撤退戦である。
軽海合戦(かるみかっせん)
永禄4年(1561年)5月11日に信長を苦しめた斎藤義龍が急死し、14歳の嫡子・龍興が後継した。これを見た信長は好機到来とばかりに5月13日に美濃に向けて出陣。翌5月14日に森部の戦いにおい斎藤軍を破った。
しかし斎藤軍は当主になったばかりの龍興を総大将にして十四条において反撃。この十四条合戦において織田軍は敗れて西軽海に敗走。斎藤軍は織田軍を追って北軽海まで追撃した。そして同日夜、再度織田軍と斎藤軍による合戦が開始された。
この戦いは織田軍が有利に進んだようで、信長の家臣・佐々成政と池田恒興の活躍で、斎藤軍の大将である稲葉又右衛門を討ち取る手柄を立てている。しかし、夜戦のため闇が深くなったため、斎藤軍は稲葉山城まで後退。織田軍は翌24日まで軽海に帯陣したが、その後に墨俣に戻り、そして尾張国に撤退したという。
川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)
戦国末期、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が,北信濃の千曲 ・犀 川の合流点川中島(長野県更級郡東北部)で争った戦い。
1553年から’64年にかけて前後5回(53、55、57、61、64)交戦。うち’55年・’61年が激戦で、’61年には謙信・信玄の一騎討ちがあったといわれる。勝敗は決しなかったが、川中島は信玄のものになった。
き
清須会議(きよすかいぎ)
天正10年(1582年)山崎合戦直後の6月27日、清須城で本能寺の変後の事態収拾のため織田氏諸将により行われた会議。
信長の次男で北畠氏を継いでいた信雄(のぶかつ)と、三男で神戸(かんべ)氏を継いでいた信孝とが継嗣となることを争い、諸将も党を組んでそれぞれ両者を支持したが、

羽柴秀吉の強力な主張で信長の嫡子信忠の遺児三法師(後の秀信)が後継者と決まった。
近年の研究では三法師が当主となることは既定路線で、会議の主旨はその補佐体制と政権運営の枠組みを定める点あったとされる。
信孝は美濃を領し三法師を守って岐阜城に、信雄は尾張を領し清須城にいることとなった。この決議とともに秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興はそれぞれ代官をおいて京都の庶政を担当し親睦すべき誓書をとりかわした。
所領問題は明智光秀の旧領丹波を信長の四男で秀吉の養子秀勝に、山城を秀吉に、近江長浜を勝家に、近江高島・志賀2郡を長秀に、大坂・尼崎・兵庫を恒興に分かった。この会議では光秀討滅の功労者秀吉の発言力が強く、やがて秀吉・勝家の対立をひきおこすことになった。
く
け
こ
後三年の役(ごさんねんのえき)
永保3~寛治元年(1083~87)に奥州で起きた戦い。
前九年の役後、奥羽に力を伸ばした清原氏の内紛に陸奥守
として赴任した源義家が介入し、藤原清衡を助けて清原家衡を助けて清原家衡・武衡を滅ぼしたもの。清衡は奥羽の地盤を引き継ぎ、源氏は東国に基盤を築いた。
小牧・長久手の戦い(こまきながくてのたたかい)
1584年3~11月、織田信長の死後に天下統一を目指した豊臣秀吉が信長の息子・信雄と徳川家康の連合軍と尾張(愛知県西部)などで衝突した戦い。
全国で連動した合戦が勃発した。秀吉方の奇襲の裏をかいた家康方が長久手で勝利したものの、信雄が秀吉と和睦。大義名分を失った家康も撤兵した。
秀吉が天下人として歩み始めた一方、家康も豊臣政権で有力な位置を占めることになり、関ケ原の戦い以降の天下取りにつながったとの評価もある。
