源義経との再会
◆兄弟の再会◆
頼朝と義経の面会には諸説あり、大きくは富士川の戦い(治承4年(1180)10月20日)の前に面会したか、後に面会したかです。
いずれにしても、両者は初対面であり、義経はどんな人物か、敵か、味方か、喜び、驚き、困惑の対面ではなかったでしょうか。
◆再開の場面◆
「吾妻鏡」によると・・・
合戦の決着がついたあと、上洛を断念し、黄瀬川宿(静岡県沼津市)にいた頼朝を訪ね面会を果たす。義経は秀衡の静止を振り切り、佐藤継信、忠信兄弟等わずかな郎党を率いて、合戦の翌日に頼朝勢に加わった。
「平家物語」によると・・・
義経が合戦の前日に、秀衡に与えられた兵を率いて合流した。義経は秀衡が以仁王の挙兵など反平氏の動きに対して、頼朝がどのように対応するか気にかけいていたと述べた。
※富士川の戦い以前に、醍醐寺の僧をしていた全成が頼朝のもとに合流している。彼は常盤を母とする義経と同母兄弟であった。
全成は頼朝の妻北条政子の妹阿波局と結婚し、後に源実朝(頼朝次男)の乳母夫となっている。
頼朝に面会するまでの源義経
◆常盤御前◆
母常盤御前は絶世の美女だったといわれています。
平治の乱で義朝が敗れた際、常盤御前は子供の命を守るため清盛に助命を嘆願します。
清盛はその美しさに妾になることを条件に命を救ったと言われます。
◆奥州藤原氏を頼る◆
義経は鞍馬寺に預けられて「遮那王(しゃなおう)」と名乗り、天狗に剣術を習ったといわれるほど武芸に秀でた武者に成長します。
元服後は義経と名乗り、武蔵坊弁慶を家来にし、奥州平泉の藤原秀衡を頼って下向していました。
(秀衡にミイラが眠る中尊寺金色堂)
鶴岡八幡宮若宮宝殿上棟式での出来事
義経は侍所開設にあたり親族として特別待遇を受け、さらに頼朝と「父子の義」にありました。男子のなかった頼朝にとって、後継者を意味しました。
しかし、頼朝は義経に対する態度を一変させます。治承5年(1181)7月20日に行われた鶴岡八幡宮若宮宝殿上棟式で、通常は御家人が行う大工に与える馬を引く役目を義経に命じます。
義経がためらったために頼朝は激怒し、義経はその態度を恐れ、馬を引く役目を務めたといわれます。
義経が御家人並みに処遇されたいたこと示すエピソードです。
(鶴岡八幡宮)
◆頼朝の思い◆
当時の頼朝は東国の有力豪族に支えられた立場であり、義経が弟とはいえ、特別待遇をすることができなかった。また、義経と再会して日が浅く、その力量を知らなかったという事情があったといわれますが・・・・・
・頼朝は義経を介した奥州藤原氏との連携を期待していたが
→義経参戦後、秀衡から新しい支援がなかった。
・越後の城氏が源義仲に大敗し、会津に逃亡した
→これにつけこんで秀衡は会津を攻撃し手に入れたことで、領土への野心が明らかになり、
義仲との連携も疑われた。
・平宗盛の策略で秀衡は地方豪族ではあり得ない、陸奥守に就任した
→頼朝への攻撃を視野に入れていた。
というような頼朝を取り巻く環境の変化から、当初は秀衡を味方と思い連携できると思っていたが、逆に自分が討たれるかもしれない敵と思うようになり、その庇護を受けていた義経に対しても冷たくあたるようになったとも考えられます。
平泉はもはや仮想敵国であり、頼朝が上洛を踏みとどまる理由に秀衡の脅威をあげることになっていきます。
まとめ
頼朝は弟・義経と再会を果たします。
この時点で、将来の頼朝と義経の悲劇的な最期を想像する者はいなかったでしょう。
また、義経が保護を受けていた奥州・藤原氏は敵か、味方か、図りかねていました。
しかし、頼朝への新たな支援がなかったこと、会津へ進出してきたこと、陸奥守に就任したことから、頼朝の背後を脅かす存在として認識するようになります。
奥州藤原氏が滅亡するまで頼朝の上洛は無く、その理由として藤原秀衡の存在を挙げました。
こちらの動画もご覧ください。
富士川の戦いにゆかりの史跡、頼朝と義経の対面石についてもご紹介しています。
〈引用・参考〉
- 株式会社晋遊舎 北条義時完全ガイド
- 株式会社三笠書房 板野博行著 眠れないほどおもしろい吾妻鏡
- 中央公論新社 元木泰雄著 源頼朝
- 談社現代新書 呉座勇一著 頼朝と義時 武家政権の誕生
- Wikipedia
- コトバンク
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