【この記事に関連する場所】
①清洲城、②安土城、③岐阜城、④本圀寺、⑤長浜城、⑥星崎、⑦長島城、⑧柳瀬、⑨木之元
⑩大垣城、⑪賤ケ岳、⑫北ノ庄城、⑬大御堂寺、⑭坂本城、⑮吉田城、⑯岡崎城
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清洲会議
天正十年(1582)六月十二日の山崎の合戦で明智光秀が討ち取れれた後、各地で軍事や内政にあたっていた織田勢の諸将は六月二十七日に信忠の嫡男・三法師がいた尾張・清洲城に集結します。
信長・信忠亡き後の織田勢の運営と領国の配分が、宿老の羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興らによって決められました。
信長には嫡男・信忠以外にも子供はいましたが、次男・信雄は伊勢北畠家、三男・信孝は伊勢神戸氏の養子となっており、三法師が唯一の織田宗家(信長嫡流)の嫡男で家督継承者でした。しかし、三法師は天正八年(1580)の生まれで、当時はまだ三歳であったため、三法師の「名代」を信雄、信孝どちらが務めるかということが清洲会議の主題でした。
信雄、信孝どちらも「名代」になることを目指し、譲りませんでした。このため羽柴、柴田らの宿老は信雄、信孝を「名代」とはせず、三法師を当主に据え、宿老を中心に織田家を運営していくことを決めました。
清洲会議後の主導権争い
三法師は安土城が修築されるまで、美濃一国を領有することになった信孝の後見のもと岐阜城に滞在することになります。
後見となった信孝は、その立場を背景に主導力の発揮を試みます。しかし、信孝の動きは兄・信雄、羽柴秀吉との対立を生じさせていきます。これに宿老同志(羽柴秀吉と柴田勝家)の運営を巡る意見の相違も相まって、北畠信雄-羽柴秀吉、織田信孝-柴田勝家という構図で対立することになります。
十月二十八日、秀吉は山城・本国寺(京都市山科区)で丹羽長秀、池田恒興と対談し、信孝・勝家が謀叛をおこしたという名目で北畠信雄を「御代」(名代)として、織田家当主に据えることを決定します。
これにより信孝・柴田勝家、滝川一益の陣営と対立することが明確になりました。
十一月に信雄は信孝を攻撃、十二月になると秀吉は、勝家が深雪で動けない隙を狙って、軍勢を動かし、勝家の養子・勝豊が入っていた長浜城(滋賀県長浜市)を攻撃し、これを降ろします。
さらに岐阜条の信孝に迫ると、勝家の援軍を期待できない信孝は、降伏して三法師を差し出します。三法師は秀吉軍によって安土城に移され、信雄も翌年の天正十一年(1583)正月、安土城への入城を果たします。
以後、信雄は三法師の「名代」かつ織田家の当主として政務を務めることになります。この時、当主として認められた信雄は名字を北畠から織田に改めたようです。
こうして天下人織田家当主の織田信雄のもと、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興ら宿老が政務の運営にあたることで、織田家は再興されました。
信雄と家康の接触
この一連の出来事に、親類大名としてあった徳川家康も賛同の意を示します。
この頃の家康は、天正十年(1582)十月二十九日に北条氏との和睦が成立し、天正壬午の乱が終結すると、新たな領国を統治できるかどうかは、それぞれの実力と才覚に委ねられていたため、引き続き甲府にとどまり、甲斐・信濃の統治に務めていました。
甲府には甲斐郡代に任じた平岩親吉を置き、都留郡には鳥居元忠を配置し、十二月十二日に甲府を出発し、浜松には十六日に帰着しました。
翌天正十一年(1583)家康は正月を浜松城で迎えます。十六日は岡崎に行き、十八日はは星崎(名古屋市緑区)で織田信雄と会見したといいます。信雄が安土城に入る直前の時期と考えられています。
賤ヶ岳合戦
天正十一年(1583)正月に滝川一益が注記すると、秀吉は二月に討伐のため北伊勢に向かいます。信雄も出陣して一益の伊勢・長島城(三重県桑名市)などを攻撃します。ところが、柴田勝家が近江国北部に出撃して柳ヶ瀬(滋賀県長浜市)に布陣したため、秀吉も軍勢を送って木之元(同前)に本陣を置き、しばらく対峙することとなります。
四月になると信孝も岐阜で挙兵します。秀吉は信孝を討つために十六日に大垣城(岐阜県大垣市)に着陣しますが、この機をとらえて二十日に勝家の甥・佐久間盛政が秀吉方の中川清秀を討ち取ります。この報に接した秀吉は急遽兵を木之元に返し、翌二十一日に動揺して兵を引こうとした佐久間軍を攻撃して切り崩し、続いて賤ヶ岳(滋賀県長浜市)で柴田勢を破ります。
この合戦で福島正則、加藤清正らの馬廻衆が戦功をあげたことは、「賤ヶ岳の七本槍」として、知られています。
秀吉軍は敗走する柴田軍を追って越前に入り、勝家の本城である越前・北ノ庄城(福井県福井市)を包囲、二十四日に勝頼はお市の方とともに自害します。
お市と浅井長政との間に産まれた三人の女子(茶々、初、江)は、落城前に城から出て秀吉に委ねられます。
一方、信雄は岐阜城の信孝を攻め、信孝は降伏。五月二日尾張国内海(愛知県美浜町)の大御堂寺で自害させます。
六月には滝川一益も降伏します。
こうして、織田家内乱の第一段は信孝と勝家の滅亡、一益の失脚という形で決着します。
家康は五月二十一日に石川数正を坂本城在城中の秀吉のもとに遣わし、大名物の茶壷である初花肩衝を贈って戦勝を賀します。秀吉は八月六日に浜松に使いを遣わし、家康に不動国行の名刀を贈っています。
八月十五日には、家康の次女・督姫が北条氏直への輿入れが行われます。
羽柴秀吉の台頭
この反信雄勢力(織田信孝、柴田勝家、滝川一益など)の討滅と戦後処理を背景に、秀吉は織田家の有力宿老として、勢力を増していきます。そして、自らが天下人になろうとする意欲を示し始めます。
信孝が自刃したことで空白となった美濃国に、秀吉は摂津国を領有していた池田恒興・元助父子を移し、恒興は大垣城に、元助は岐阜城に入ります。
代わりに秀吉は摂津を領有することで、畿内の要所大坂をを手中にし、自身の居城を置くべく、九月から大規模な改築に着手します。
信雄は尾張に加えて、滝川一益の旧領伊勢と伊賀三か国も領有することになりますが、安土城からは追われ、伊勢・長島城に入り、三法師も安土城から坂本城(滋賀県大津市)へうつされ、秀吉の庇護下に置かれるようになります。
こうして、信雄と秀吉との関係は次第に険悪になり、信雄が上方で切腹したという風聞が流れる程の事態となります。
家康の緊張
秀吉はこの間、家康に対して「関東惣無事」の遅れを指摘しています。
十月二十五日付け家康宛秀吉書状の中には、
「関東の「無事」を図るといわれてきたのに、いまだに遅延しているのはどういう事情でしょうか。上様(信長)が御在世の時にいずれも「疎略(物事の扱い方がいいかげんなこと)」のない方ですから、早速「無事」が調ってもおかしくありません。万一何かと延引しようとする者があれば、信雄と相談して必ず成敗します」といっています。
この書状は暗に北条氏を指しているため、家康は十一月十五日付けで北条氏政宛に書状を出しています。「関東惣無事」の儀について羽柴方よりこのようにいってきといい、書状を朝比奈泰勝に持たせ、ご覧いただくようにするとし、よくよくお考えになってご返事を頂きたいといっています。
秀吉が家康を通じてといえ関東の「惣無事」に立ち入ってきたこと、しかもそれが同盟関係になった北条氏とかかわった問題となったことで、家康は強い緊張感を覚えたものと思われます。
織田信雄の家康への接近
前述のように、天正十一年(1583)の末頃までは織田信雄と羽柴秀吉の仲は、いつ決裂してもおかしくない状態となっていました。
単独では秀吉に対抗できない信雄は、次第に家康を頼りにするようになります。
家康も織田勢の中では一貫して信雄を指示していました。また、この年の正月には尾張国星崎で会見しており、天正十二年(1584)二月には使者を信雄の居城伊勢長島城に遣わし、何事かを密談したといわれています。
家康は信雄と連携し、急速に台頭しつつある秀吉と対決する決断をします。
信雄は、天正十二年(1584)三月六日、親秀吉派の宿老・津川雄光、岡田重孝らを伊勢・長島城(三重県桑名市)に呼び寄せ、秀吉に内通したとの嫌疑で殺害します。
これは信雄による秀吉に対する宣戦布告であり、家康も七日には吉田から岡崎に戻るなどすばやく対応していて、まさに両者が示し合わせた行動でした。十三日に両者は清洲城で会見し、この後の作戦について協議します。
ここに羽柴秀吉との戦争、「小牧・長久手合戦」が始まります。
【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著 徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社 本多隆成著 徳川家康の決断
中央公論新社 和田裕弘著 信長公記 戦国覇者の一級資料
朝日新聞出版 黒田基樹著 徳川家康の最新研究
ウィキペディア
コトバンク
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