信長亡き後、家康の行動は?・・・天正壬午の乱

徳川家康

【今回の記事に関連する場所】

①清洲城、②鳴海、③下山(山梨県身延町)、④菅沼城、⑤深志領(長野県松本市)、
⑥小諸(長野県小諸市)、⑦厩橋城、⑧箕輪城、⑨長島城、⑩長野市、⑪春日山城、⑫海津城、
⑬兼山城、⑭山崎の合戦古戦場、⑮津島(愛知県津島市)、⑯本能寺、⑰飯山城、⑱長沼城、
⑲若神子、⑳新府城、21黒駒(山梨県笛吹市)、22三枚橋城、23網代城

天正壬午の乱の始まり

本能寺の変の際の勢力図

 本能寺の変後、帰国を果たした家康は、この時尾張・清須城に逃れていた信長孫・三法師(のちの織田秀信)を擁して、織田信長の弔い合戦として、明智光秀を討つべく出陣の準備を始め、天正十年六月十四日、尾張国鳴海に出陣します。

 また、本能寺の変が起こると、甲斐では武田旧臣の大規模な一揆があちこちで起こり、上野や信濃でも動揺が広がり始めました。
 こうした中、越後の上杉謙信、小田原の北条氏政・氏直父子らが触手を伸ばし始め、草刈場と化そうとしていました。

~~~~~ 本能寺の変後の甲斐国 ~~~~~

 当主の信君(梅雪)が頓死した穴山領国に対しては、後継の勝千代はまだ年少(十一歳)ということもあり、家康は六月六日穴山信君とともに内通してきた岡部正綱を穴山領内の甲斐国河内領の本拠下山(山梨県身延町)へ派遣し、同領守衛のため菅沼城(同前)の普請を命じます。これにより、穴山領は徳川氏の保護下に置かれることになります。

 また、甲斐国で発生した一揆に対して、家康は甲斐国にあった織田家重臣の河尻秀隆のもとへ援護の目的で本多忠政を派遣し、事態の解決にあたらせました。
 ところが、秀隆は事態収拾のため帰国を勧める忠政の真意を疑い(北条氏の侵攻も受けていた)ffffffff、家康に領土的野心があると疑い、六月十四日に忠政を殺害してしまいます。
 これを知った本多勢の家臣は一揆勢と結んで蜂起し、十五日秀隆を攻撃して、討ち取ります。

 家康はこの事態に重臣の大須賀康高と岡部正綱・曽禰昌世の軍勢を派遣して、平定を進めました。

~~~~~ 本能寺の変後の上野国 ~~~~~

 北条氏政・氏直父子も動き始めます。
六月十六日、北条の大軍は、滝川一益が支配する武田の旧領・上野国になだれ込みます。そして十九日の神流川合戦で滝川勢を撃破し、沼田城(城主:真田昌幸)を除く、上野のほぼ全域を制圧します。

 敗れた一益は箕輪城(高崎市)に逃げ込み、ついで信濃に入り、依田信蕃らの助けをかりながら小諸(長野県小諸市)から諏訪・木曽を経て、七月一日にかつての本領伊勢長島城(三重県桑名市)に帰還したといわれます。

 北条勢は一益を追って碓氷峠を越えて信濃国に入り、六月二十六日には信濃国佐久郡を制圧、真田昌幸らを配下に従え、北信濃をうかがいますが、同じく北信濃に侵攻してきた上杉景勝ぐんと向き合うことになります。

~~~~~ 本能寺の変後の信濃国 ~~~~~~

 信濃国でも、川中島四郡(長野市を中心とした地域)を与えられていた森長可は、柴田勝家に呼応して越後の春日山城(新潟県上越市)へと迫っていましたが、本能寺の変の報を受け国人たちは一揆を起こし、長可は本拠の海津城(長野県長野市)を放棄し、ついで深志(松本市)から木曽を経て、かつての本領美濃兼山城(岐阜県可児市)に帰還します。

 信濃国の筑摩ぐんと安曇野郡を与えらえた木曽義昌は撤退してくる森長可を殺害しようとしますが、長可に木曽福島城に押し入れられ、嫡男の身柄を拘束されたため長可の撤退を手助けする羽目になります。

 信濃国伊那郡を与えられた毛利長秀(秀頼)はいち早く所領を放棄して撤退し尾張国に逃亡。

 越後の上杉景勝が本能寺の変を知ったのは六月八日頃といわれます。
景勝は信濃の川中島方面に調略をかけていき、六月二十四日には信濃の長沼城に入って川中島四郡を押さえます。さらに、真田昌幸も味方につけ筑摩郡・安曇郡へと支配範囲の拡大を図っていきました。

 一方、信濃守護・小笠原氏の末裔の小笠原貞慶 は旧領であった信濃深志領(長野県松本市を中心とした地域)の奪還を試みます。そして、貞慶は徳川家重臣・石川数正に取り成しを頼み、家康の援助を得て奪還を果たします。さらに、安曇郡も上杉氏から奪還し、筑摩・安曇両郡は家康の影響下に入ることとなります。

 また、家康は佐久郡を押さえるために武田旧臣の依田信蕃を小諸(長野県小諸市)に入れます。
しかし、同郡には滝川一益を破った北条氏も侵攻してきます。

 まさに、旧武田領国を巡る「天正壬午の乱」が始まろうとしていました。

山崎の合戦

 こうしたなか、六月十二日山城・摂津領国の境目にあたる山崎(京都府大山崎町)で、明智光秀の軍勢は織田信孝(信長の三男)を大将とした軍勢と戦って敗れます。

 この結果は十五日鳴海にあった家康のもとに伝わり、十七日徳川勢は津島(愛知県津島市)まで軍勢を進めますが、羽柴秀吉は中央の安泰を伝え、帰陣を伝えます。

 これを受けて、家康は二十一日帰陣します。

清洲会議

 本能寺の変によって信長は倒れましたが、織田政権の枠組みが直ちに崩壊したわけではありませんでした。
 六月二十七日には、いわゆる清須会議が行われて、信長・信忠亡き後の体制について協議されました。

 その結果、信長の次男・信雄と三男・信孝はいずれも他家の養子となっていたため(信雄は北畠家、信孝は神戸家、のちに織田に復帰)家督継承者とはなり得ず、嫡男信忠の遺児・三法師(のちの織田秀信)が家督を継ぎ、これを羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の四宿老が支える体制が誕生しました。

 

家康は秀吉から「織田方が退いた甲斐・信濃・上野を敵に渡すべきでなく、軍勢を派遣して確保していい」という承認のもと、七月三日甲斐国への侵攻を開始します。

家康の甲斐国侵攻と信濃進出

天正壬午の乱

 甲斐国に入った家康は徳川勢に従った武田旧臣に対して、「福徳」朱印状をもって所領の安堵と給与を積極的に進めていきます。
 さらに、家康は武田氏旧臣を家中に参入させます。
井伊直政の指揮下に、山県昌満、土屋昌恒、原昌栄、一条信就の同心衆を配属します。いずれも武田氏滅亡の前後に寄親が死亡・没落した同心衆でした。

 信濃国には伊那郡の国衆・下条頼安と知久頼氏を擁立して、同郡を押さえます。
そして、宿老酒井忠次に同国の統治を委ねる約束をして、攻略にあたらせますが、すでに北条氏に従属していた諏訪国の諏訪頼忠の誘引に失敗し、高島城(長野県諏訪市)での攻防戦を引き起こしてしまいます。そこで家康は甲斐新府(韮崎市)の在陣させていた大久保忠世、大須賀康高、本多宏孝らの軍勢を諏訪にすすめます。

北条氏直の信濃進出

 上野国の大半を平定した北条氏直は、七月十二日北信濃の川中島に進出し、海津城に在城する上杉景勝と睨みあうこととなります。
 武田氏旧臣で海津城代・春日信達が氏直に内通する手はずでしたが、事前に露見して春日氏は滅亡します。氏直は室月十四日に川中島に着陣しますが、決め手を欠き、十九日に撤退。諏訪頼忠からの救援要請を受けて二十九日に南下して、八月一日に諏訪郡に進軍してきました。

 ここに、天正壬午後 の乱は徳川・北条氏の対戦に至ります。

天正壬午の乱

~~~~~ 甲斐国の情勢 ~~~~~

 徳川軍は諏訪郡から甲斐に後退して、八月六日北条氏直は高島城を攻略中の徳川勢を追撃して、甲斐国へ進軍。
翌七日、北条勢は若神子(山梨県北杜市)に着陣し、以後はここに本陣をおきます。

 これを受けて家康は諏訪方面に展開していた酒井忠次、大久保忠世らを甲斐に呼び戻します。
そして、甲府の守備を鳥居元忠らに任せると、自らは十日、甲府より新府城に陣を移し、ここを拠点として北条勢と対峙します。

 この時、北条勢二万人余に対して徳川勢は一万にも満たなかったと言われます。

 氏直の父・氏政は北条氏忠の軍勢を派遣し、氏直とともに家康を挟撃する作戦を立てます。氏忠勢はの甲斐国都留郡を押さえて進軍し、北条勢が優勢と思われましたが、十二日に家康重臣・鳥居元忠らは黒駒(山梨県笛吹市)で迎撃して、敵三百人余を討ち取り(黒駒合戦)、戦いの局面を大きく変えます。
 この合戦を契機に、武田氏遺臣が家康に起請文を提出し、臣従を誓います。その数は八〇〇名を超えるといわれ、武田軍団が家康にもとに帰属し、編成されました。

~~~~~ 駿河・伊豆の情勢 ~~~~~

 北条氏との対戦は両国の境目である駿河・伊豆国境地域でも行われます。
この時駿河三枚橋城(静岡県沼津市)に配置されていた松井松平忠次は河東二郡の守衛に努め、北条勢と対戦を繰り返したといいます。
 また、徳川家奉行人・本多重次のもとで、向井政綱ら海賊衆が北条氏の伊豆網代城(静岡県熱海市)を攻略しています。

~~~~~ 信濃国の情勢 ~~~~~

 八月二十六日には、織田家当主三法師の後見人であった織田信孝が、信濃国衆の木曾義昌に保護を約束することで、木曾勢の三枚橋城への出勢を指示し、織田勢も出勢の意向を伝えます。

 信濃国は北条勢が優勢な状況でしたが、木曾義昌が徳川勢に従属し、九月に上杉氏と軍事協定が結ばれ、小県郡の真田昌幸も従属し、徳川氏は戦況を好転させます。

~~~~~ 家康の外交 ~~~~~

 家康は下野国衆の皆川広照や下総国衆の水野正村を通じて、北条氏と対立する常陸佐竹氏・下野宇都宮氏・下総結城氏らの北関東大名・国衆とも外交を展開し北条氏戦にあたっており、さらに織田勢の出勢も行われようとしていた状況でした。

北条氏との和睦

 こうような中、北条氏直は家康に対して和睦を申し入れることを決意します。 

 織田勢は北畠信雄(信長二男、伊勢北畠氏の養子となっていた)・織田信孝(信長三男)兄弟や、羽柴秀吉・柴田勝家ら宿老間の対立、それにともなう内紛に巻き込まれ出勢できず、信雄・信孝兄弟は家康に北条氏との和睦を要請します。

 これらを受けて、家康は織田方からの援軍の期待も無くなり、和睦を進めます。十月二十九日に両者は和睦を結び、天正壬午の乱は終結します。

 和睦の条件は以下の2つ
 ・第一は国分協定で、北条方が押さえていた信濃佐久郡と甲斐都留郡の二郡は徳川方に割譲し、
  上野国は西上野の沼田領も含めて北条領とすること。
 ・第二に家康の次女督姫を氏直の正妻に迎え、両者は同盟を結ぶというものでありました。
 この結果、家康は三河・遠江・駿河・信濃・甲斐を領有することになり、北条氏は宿願であった上野国の領有を確保しました。

 後者は天正十一年(1583)八月に実現しますが、前者の沼田領は実際は真田氏が支配していて、のちの北条氏滅亡につながる火種となります。

 家康が圧倒的な劣勢を跳ね返せたのは、武田遺臣の多くを味方につけ、さらに地の利を得た彼らを活かすことで北条氏の進軍を封じることに成功したこと。また、家康の目標が最初から甲斐と信濃確保にあり、ブレなかったことだといわれます。

【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著  徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社  本多隆成著 徳川家康の決断
中央公論新社  和田裕弘著 信長公記 戦国覇者の一級資料
株式会社PHP研究所 河合敦著 徳川家康と9つの危機
株式会社PHP研究所 月間歴史街道令和五年七月号 平山優著
          迫りくる北条の大軍、挟撃の危機・・・ 天正壬後の乱でみせた采配
株式会社講談社 渡邊大門編 徳川家康合戦録 戦下手か戦巧者か
朝日新聞出版 黒田基樹著 徳川家康の最新研究
株式会社草思社 渡邊大門編 家康伝説の謎 
ウィキペディア
コトバンク

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