徳川家康 家康にとっての桶狭間の戦い

徳川家康

【この記事に関連する場所】

①鳴海城、②沓掛城、③大高城、④丸根砦、⑤鷲津砦、⑥桶狭間古戦場公園、⑦清洲城、⑧熱田神宮
⑨丹下砦、⑩善照寺砦、⑪中島砦、⑫大樹寺、⑬岡崎城
※番号をクリックしていただくと説明文が表示されます。

甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)

今川氏は天文十四年(1545)までに甲斐・武田氏、相模・北条氏と同盟を結んでいました。
 天文二十一年(1552)今川義元の娘・嶺松院が武田信玄の子・武田義信
 天文二十二年(1553)武田信玄の娘・黄梅院が北条氏康の子・北条氏政
 天文二十三年(1554)北条氏康の娘・早川殿が今川義元の子・今川氏真に嫁ぎます。

この同盟について
・武田氏にとってのメリットは
 天文二十二年から始まる上杉謙信との川中島の戦いにおいて、北武蔵で同様に上杉氏と対立し
 ていた北条氏と相互に兵を出し、今川氏からも援軍が派遣された。
・武田氏にとってのデメリットは
 今川氏と北条氏が三河から下総まで支配しているため、日本海側に領地を確保しない限り直接
 海に出られない、また交易ができない。

・北条氏にとってのメリットは
 武田氏と上杉謙信という共通の敵を持つことで、背後の憂いを無くし、上杉氏を名目上の主と
 して仰ぐ、佐竹・宇都宮・長野・里見などに対して関東平定を進めることができた。
・北条氏にとってのデメリットは
 北条氏はそもその上洛志向が強くないといわれますが、上洛する道を今川氏と武田氏に塞がれ
 た。

・今川氏にとってのメリットは
 新たに侵攻した三河の経営な領国の支配体制を確立しつつ、戦う相手を織田氏に絞ることが
 できたこと。さらに、武田氏の太平洋沿岸への進出が不可能になったこと。北条氏が上洛を計
 画しても陸路で難しいこと。
 以上より、この同盟は今川氏が最もメリットがある同盟と考えられます。

 その後も今川氏は、松平氏ら三河国衆を従わせ、天文十九年(1550)八月から尾張国へ進出し、知多・愛知両郡も勢力下に置いていました。

今川義元の出陣

桶狭間の戦い

 永禄三年(1560)五月、今川義元は尾張方面への出陣を決意します。
現在では義元出馬の目的は以下のようにものだったと考えられています。

  • 三河支配の安定化を図る
    三河各地で今川氏への反逆が頻発する状況があり、自ら出馬することでこの危機に対応しようとした。
  • 今川氏が押さえていた尾張の鳴海城、大高城をしっかり確保し、三河支配をより安定化させ、さらに信長との対決を見据える。
  • 戦いの推移如何によって信長との対決を目指し、織田氏との抗争に決着をつける。

 永禄三年(1560)五月十二日、今川義元は二万五千ともいわれる兵を率いて駿府を出発。
五月十七日、尾張国沓掛(愛知県豊明市)に進軍した義元は、元康(家康)率いる松平勢に先勢を務めさせます。
五月十八日、義元は沓掛城で生涯、最後の一夜を過ごしました。

沓掛城(愛知県豊明市)

五月十八日夜、元康(家康)は今川方の鵜殿長照が籠る大高城に(愛知県名古屋市緑区)に兵糧を入れます。

大高城(愛知県名古屋市緑区)
大高城本丸跡(愛知県名古屋市緑区)

五月十九日早朝、家康は大高城の付城で織田方の佐久間盛重が五百余の兵が守る丸根砦を攻め落とします。佐久間盛重は戦死。

丸根砦(愛知県名古屋市緑区)

さらに、同時に今川勢の朝比奈泰朝が織田勢の織田秀敏、飯尾定宗・尚清父子が守る鷲津砦も攻略します。大高城周辺の織田勢力は一掃されることになりました。

鷲津砦(愛知県名古屋市緑区)

 この有利な状況のもと、沓掛城を出発した義元は大高城への進軍途中の桶狭間山(愛知県名古屋市緑区・豊明市)で休息を取ります。

桶狭間山 今川義元本陣跡(愛知県名古屋市緑区)
桶狭間山から古戦場方面を望む(愛知県名古屋市緑区)

 先制攻撃に成功した今川勢は気を緩め休憩していました。
義元は「矛先は天魔・鬼人も超えきれぬだろう。心地よいことだ」と大いに喜び、謡を謡ったといいます(当時は暑い日で甲冑を脱いでいた可能性も・・・)。
 ところが、天候が激変し激しい雷雨となります。気温は急速に低下し、兵士は低体温症となり運動能力が著しく低下、火縄銃も火薬が湿り使用できなくなったと考えられます。

織田信長の出陣

 今川勢進軍の情報は信長にももたらされます。信長は戦況を一向に意に介さず、作戦を練るどころか、世間話をする有様であったといいます。
 深夜になると家臣は帰宅しましたが、家臣は「運の末には知恵の鏡が曇るというのは、こういうことをいうのだろう」と口々に信長の悪口を述べたと伝わります。

 一方信長は、十九日早朝に「幸若舞」の「敦盛」の一説を舞って、具足を着用して立ったまま食事をし、小姓五騎を引き連れ清洲城を出陣したといわれます。
「人間五十年、下天の内を比ぶれば夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」
 (人間界の五十年は、六欲天の一つである化楽天(地上から数えて第五番目の天)と比べれば夢幻のように短い。生を享けて滅びないものはない)

 信長は熱田神宮(愛知県名古屋市熱田区)に向かいます。ここで信長は丸根・鷲津両砦が落とされたことを知り、軍勢を整えます。

熱田神宮(愛知県名古屋市熱田区)

 信長は、鳴海城の付城の一つである丹下砦(愛知県名古屋市緑区)を経て、善照寺砦に入ります。
中島砦にいた佐々隼人正らはこれを見て、義元本陣に切り込みますが、あえなく撃退されます。
この様子を義元が見て、油断する原因の一つにもなりました。

 その後、信長は二千足らずの軍勢を率いて中島砦へ移り、さらに兵を進めようとします。家臣らは止めようとしますが、大演説をぶって士気を高めます。
敵軍は前日からの戦闘で疲れているが、自軍は新手である。
 「是非においては練り倒し、追い崩すべきこと、案の内なり。分捕りをなすべからず、討ち捨てたるべし。軍に勝ちぬれば、この場へ乗ったる者は家の面目、末代の高名たるべし。ただ励むべし」
(必ず敵軍を打ち破って追撃することができる。敵の首は討ち取るな。討ち捨てにしろ。この合戦に勝てば、参戦したことが家の名誉になり、末代までの誇りになる。がむしゃらに討ち掛かれ)
と鼓舞します。

鳴海城(愛知県名古屋市緑区)
丹下砦(愛知県名古屋市緑区)
善照寺砦(愛知県名古屋市緑区)
中島砦(愛知県名古屋市緑区)

 信長勢も天候の急変を受けますが、砦にいたので屋根など雷雨を凌げる場所があったのではないでしょうか。天候が回復すると、鉄砲隊が火ぶたを切って義元の本体に攻め込みました。

 戦勝気分にあった今川本隊は、雨に濡れ鉄砲も使えず、義元の塗輿も捨てて逃げ散るような総崩れとなります。それでも義元の旗本は三百騎ほどで義元を守備しつつ撤退しましたが、信長の旗本衆の追撃が激しく、徐々に人数が減り五十騎ほどになります。信長も下馬して追撃。義元の旗本衆もよく守備しましたが、最後は服部小平太が槍を付け、毛利新介が義元の首を討ち取ります。
(これまで通説であった「迂回奇襲説」は出典となる資料の正室に疑念が抱かれ、異議が唱えられています。しかし、本当の戦いの様子が書かれた一次資料が存在しないので、戦いの様相は分かっていない)

 信長は大勝にも油断することなく、深追いせず、清州に帰陣します。

桶狭間古戦場公園の今川義元像と織田信長像(愛知県名古屋市緑区)
桶狭間古戦場公園(愛知県名古屋市緑区)
桶狭間古戦場公園(愛知県名古屋市緑区)
桶狭間古戦場公園(愛知県名古屋市緑区)

元康(家康)にとっての桶狭間合戦

 丸根砦を攻略し、大高城で義元本隊の到着を待っていた元康(家康)は、その日の夕方近くに信長方の外叔父・水野信元の使者・浅井六之助道忠から、義元追討の報を得て大高城から立ち退くようにとの勧めがあったといわれます。

 元康(家康)はその日の夜半に大高城を出て、松平氏の菩提寺・大樹寺(愛知県岡崎市)に向かいます。そして、在番衆として入城していた今川勢が義元の死によって退去するのを待って、二十三日に岡崎城に入ります。
 約十年半ぶりの帰城で、元康(家康)は十九歳となっていました。

 今川義元が戦死した今、家康にとっては生涯を左右する決断を要する課題が多く残されました。

大樹寺(愛知県岡崎市)
岡崎城(愛知県岡崎市)

まとめ

 2万5千ともいわれる今川勢に対して、信長勢は2千だったといわれています。
なぜ、信長勢は勝てたのでしょうか?

 以前は桶狭間は谷底のような狭い場所とされ、そこへ信長勢が一気に山を駆け下り奇襲攻撃を掛けたためといわれてきましたが、現在では今川勢と織田勢の正面衝突だったと考えられています。

 緒戦を勝利した今川勢は気を良しくし、油断があり、そこへ本文でも記載した天候の変化が加わり織田勢が勝利したと考えられています。
 信長は正々堂々と正面攻撃を挑み、勝利したのです。

【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著  徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社  本多隆成著 徳川家康の決断
中央公論新社  和田裕弘著 信長公記 戦国覇者の一級資料
株式会社PHP研究所 河合 敦著 徳川家康と9つの危機
株式会社講談社 渡邊大門編 徳川家康合戦禄 戦下手か戦巧者か
ウィキペディア
コトバンク

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