徳川家康 織田、今川家に翻弄された幼少~青年期の人質時代

徳川家康

【今回の記事に関連する場所】

①緒川城、②今橋城(吉田城)、③二連木城、④田原城、⑤安城(安祥)城、⑥岡崎城
⑦小豆坂古戦場、⑧寺部城
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【駿河・三河・尾張】

挟国の松平氏、隣国の織田・今川両氏との対立へ

天文七年(1538)頃の三河勢力図

 松平広忠(家康・父)は分立していた松平一族・家臣を束ねます。
しかし、広忠の領国運営は抵抗していた松平信定派一族を排除して、功績のあった譜代重臣の阿部大蔵や大久保氏を中心に進められたため、叔父・信孝や譜代重臣・酒井忠尚などとの対立を生じさせました。

 また、松平清康(家康・祖父)以来続く、織田信秀(信長・父)との対立は、信秀の大和守家での主導権獲得、信秀の尾張国東部への進出に伴い、ますます深まっていきました。
 広忠は対応策の一つとして、尾張国の緒川城(愛知県東浦町)を中心に知多半島北部を支配下に置いた水野忠政の娘・於大(家康・母)と婚姻を結びます。
 そして、天文十一年(1542)男児をもうけます。竹千代と名付けられたこの子が、後の徳川家康です。  
 しかし、天文十二年(1543)七月、忠政が死去すると嫡男の信元が跡を継ぎ、信元は父とは正反対に織田氏に従う方針をとったため松平氏との同盟は断たれ、於大も離縁されてしまいます。家康数え年三歳の時のことです。

緒川城(愛知県知多郡東浦町)
於大の方出生の地(愛知県知多郡東浦町)

 そこで、広忠は田原の戸田宗光と同盟を結び、天文十四年(1545)その娘・真喜と婚姻します。
 (その後、於大は阿久比城の久松俊勝と再婚します)

 こうした広忠の動きに対して、叔父の信孝や譜代重臣の酒井忠尚は織田信秀と結んで、広忠に反旗を翻します。
 一方、戸田宗光は牧野氏との三河今橋城(吉田城/愛知県豊橋市)の領地を巡る争いから、駿河の今川氏とも敵対しており、戸田氏と同盟を結んでいた広忠は今川氏とも対立することなってしまいます。

 結局、広忠は東西の隣国である尾張・織田氏、駿河・今川氏と対立することになってしまいます。

竹千代、織田家の人質に

 こうした情勢の中、天文十五年(1546)十一月に今川勢による東三河の拠点・三河今橋城(吉田城)の攻撃が開始されます。翌年六月までに宗光は降伏し、二連木城へと去ります。
 さらに、今川氏は宗光の嫡男・堯蜜(たかみつ)が籠る三河田原城(愛知県田原市)を攻撃しましたが、これは失敗に終わります。

三河今橋城(吉田城)(愛知県豊橋市)
二連木城(愛知県豊橋市)
三河田原城(愛知県田原市)

 一方、織田信秀は松平領国に侵攻し、三河安城(安祥)城(愛知県安城市)を攻略。さらに、岡崎松平氏の本城である岡崎城も攻略され、天文十六年(1547)広忠は信秀への降伏に追い込まれます。
 これにより、広忠嫡男・竹千代(家康)は織田信秀にの人質となり、信秀は松平領国を織田氏の勢力圏に収めます。

 この結果、三河国内では織田氏が優勢となり、田原城の攻撃に失敗した今川氏は挽回を図ることになります。
 その中で、広忠も今川氏に近づき勢力の回復を試みることになります。

三河安城城(愛知県安城市)
岡崎城(愛知県岡崎市)

※竹千代が織田家に人質にはなっていないとの説もあります。
後述する今川氏の安城城攻略により岡崎領も回復。しかし、この時立千代は八歳に過ぎず、今川氏の保護下に置かれて、駿府に送られることなったとしています。

今川氏への従属

 このような情勢のもと、岡崎城に近い三河国額田郡小豆坂で2回に渡り、松平・今川連合軍と織田軍との間で合戦が起こります。
 1度目(第1次小豆坂合戦)は織田軍が勝利しますが、2度目(第2次小豆坂合戦)は松平勢が今川氏の先鋒として戦い、今川氏が勝利します。
 この合戦での勝利を背景に、松平勢は領国内の反広忠勢力を平定します。

小豆坂古戦場跡(愛知県岡崎市)

 こうして広忠は今川氏の影響下で松平家内部の抗争を鎮めますが、天文十八年(1549)三月六日、二十四歳で死去していまいます。

広忠の墓・大樹寺(愛知県岡崎市)

 広忠が死去した際、嫡男・竹千代は織田信秀のもとにあり、松平家は当主不在という危機に陥ります。広忠には竹千代以外に男子がなく、安城(安祥)城も織田家の勢力下にあったため、松平家にとっては竹千代と安城(安祥)城の奪回が喫急の課題となります。
 そこで、松平家はこれまでもその影響下にあった今川氏に助けを求めます。

竹千代、今川家の人質に

 今川氏はこれに応じるべく太原雪斎率いる軍勢が三河国に進軍し、安城(安祥)城を攻撃し落城させると城将の織田信広(信秀の長男)を捕らえます。

 雪斎は織田方と交渉し、竹千代と信広を交換。そして、竹千代を岡崎城に戻すのではなく、今川氏の本拠である駿河国駿府(静岡県静岡市葵区)に移しました。

 今川氏は松平家当主の竹千代を駿府で保護することで、松平一族や家臣を統制し、西三河の松平領国は今川氏の支配下に組み込まれます。松平氏の居城・岡崎城も今川氏の城となり、本丸と二の丸に今川家臣が在番衆として入り、三の丸だけ松平氏の家臣・鳥居忠吉が守ったといわれます。
 松平家臣団の生活の苦しかったようで、領内の年貢はすべて今川義元が押領し、松平一族や譜代の家来たちは収入の道が途絶えてしまったといいます
 宗家の凋落により、織田方についた者たちも少なくなかったようです。
このことは松平領国が織田勢力に対する西の最前線に位置していたことも関係します。

 そのような中、天文二十一年(1551)三月に織田信秀は病死し、信長の時代となります。

竹千代から元信、元康へ、そして信康の誕生

 天文二十四年(1555)三月、十四歳の竹千代は元服し、今川義元から一字を賜り「元信」と名乗ります。
 弘治三年(1557)、元信は今川一族の関口氏純の娘(築山殿、通称瀬名姫)と婚姻します。築山殿の母は今川義元の妹であり、元信は今川一族の親戚衆となります。

 元信は永禄元年(1558)二月、十七歳となった元信は今川義元に命じられて、今川方に叛いた寺部城(愛知県豊田市)の鈴木重辰を攻め、初陣を飾ります。また、七月までには「元康」と改めています。

 永禄二年(1559)三月に元康と瀬名姫の間に男子が産まれ、幼名を竹千代と名付けました。のちの松平信康です。
 このころの元康は、駿府の少将宮町に屋敷を構え、祖母(於大の母)の源応院と同居し、酒井正親、内藤正次、天野康景石川数正平岩親吉らが付き従っていました。また、義元から今川一門の扱いを受け、太原雪斎などに学問や禅など高い教養を伝授されたともいわれます。

まとめ

 家康の父・広忠は松平一族を束ねることに成功しますが、その両国運営を巡り親戚や譜代重臣との対立を招くことになります。
 さらに、かねてから対立していた織田信秀(信長・父)に安城(安祥)城を攻略され、嫡男・竹千代を人質としてとられます。

 広忠は今川氏の影響下で松平家内部の抗争を鎮めますが、二十四歳で死去すると松平家は今川氏への依存度を高めていきます。
 今川勢は三河国に進軍し、安城(安祥)城を攻撃し落城させると城将の織田信広(信秀の長男)を捕らえます。今川勢は織田方と交渉し、竹千代と信広を交換。しかし、竹千代は岡崎城に戻ることなく、今川氏の本拠である駿河国駿府(静岡県静岡市葵区)に移されます。

 竹千代は駿府で、元信、元康と名を変え、今川一族の関口氏純の娘(築山殿、通称瀬名姫)と婚姻し、男子(のちの信康)が誕生するなど、今川氏親戚衆の松平家当主として青年期を駿河で過ごします。

付録:源応院

 源応院は水野忠政(信元の父)に嫁ぎ三男一女を儲けたとされ、この一女が家康(元康)の生母とな 
る御大の方になります。
 忠政が松平清康(家康・祖父)に敗れると、清康のもとに嫁ぎ、以後計五人の男性に嫁いだといわれ
ます。
 最後の嫁ぎ先である駿府の川口盛祐の死後、八歳の家康(竹千代)が送られてくると、義元に懇願し 
養育掛かりとなることを許され、八年もの間熱心に養育したと伝わります。

【引用/参考】
株式会社平凡社 柴裕之著  徳川家康 境界の領主から天下人へ
中央公論新社  本多隆成著 徳川家康の決断
中央公論新社  和田裕弘著 信長公記 戦国覇者の一級資料
株式会社PHP研究所 河合 敦著 徳川家康と9つの危機
朝日新聞出版社 黒田基樹著 徳川家康の最新研究
ウィキペディア
コトバンク

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