人物 あ行

  1. 足利政知(あしかが まさとも)1435‐1491
  2. 足利義澄(あしかが よしずみ)1480―1511
  3. 足利義稙(あしかが よしたね)1466‐1523
  4. 足利義政(あしかが よしまさ)1435-1490
  5. 安達盛長(あだち もりなが)1135-1200
  6. 阿野全成(あのぜんじょう)1153?-1203
  7. 天野康景(あまの やすかげ)1537‐1613
  8. 安城松平家(あんじょうまつだいらけ)
  9. 安徳天皇(あんとく てんのう)1178-1185
  10. 伊賀・伊勢平氏(いが・いせへいし)
  11. 池禅尼(いけのぜんに)?-?
  12. 石川数正(いしかわ かずまさ)?-1593
  13. 一条忠頼(いちじょう ただより)?-1184
  14. 一条能義(いちじょう よしやす)1147-1197
  15. 伊東祐親(いとう すけちか)?-1182
  16. 伊東(藤原)忠清(いとう(ふじわら) ただきよ)?-1185
  17. 今川氏真(いまがわ うじざね)1538-1615
  18. 今川氏親(いまがわうじちか)1473-1526
  19. 今川義元(いまがわよしもと)1519-1560
  20. 岩津松平家(いわつまつだいらけ)
  21. 上杉謙信(うえすぎ けんしん)1530-1578
  22. 宇佐美実政(うさみ さねまさ)?-1190
  23. 鵜殿長照(うどのながてる)?-1562
  24. 奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)
  25. 大内義信(おおうち よしのぶ)?-?
  26. 大江広元(おおえ ひろもと)1145-1125
  27. 太田広綱(おおたひろつな 源広綱)?-?
  28. 大庭氏(おおばし)
  29. 大庭景親(おおば かげちか)?-1180
  30. 大庭景能(おおば かげよし)?-1210
  31. 大姫(おおひめ 源頼朝娘)1178-1197
  32. 岡崎義美(おかざき よしざね)1112-1200
  33. 岡部元信(おかべもとのぶ)?-1581
  34. 於大の方(おだいのかた)1528-1602
  35. 織田信長(おだのぶなが)1534-1582
  36. 織田信秀(おだのぶひで)1511-1551
  37. 織田信広(おだ のぶひろ)?-1574

足利政知(あしかが まさとも)1435‐1491

室町後期の武将。将軍足利義教の子,義政の弟。初め出家して香厳院と称した。
1454年(享徳3)鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺したことで,関東に内乱(享徳の乱)が生ずるや、関東管領上杉氏は古河公方となった成氏に代わる鎌倉公方の東下を要請した。
そこで,義政の命令で還俗し,幕府から派遣されたのが政知であった。幕府・上杉方の中心であったが,鎌倉に入部しえず伊豆の堀越(ほりごえ)にとどまり<堀越公方と呼ばれた。

足利義澄(あしかが よしずみ)1480―1511

室町幕府11代将軍。堀越公方足利政知の子。1491年京都天龍寺塔頭(たっちゅう)香厳院の喝食(かっしき)となり,清晃と称した。
1493年細川政元はクーデターにより将軍足利義稙(よしたね)(義材(よしき))を廃し,清晃を将軍に擁立。清晃は還俗して初め義遐(よしとお),のち義高と改名,1502年以後は義澄を名乗った。
1494年征夷大将軍に就任したが、実験は政元が掌握した。1507年政元が暗殺されると、周防に亡命していた義材が大内氏に擁せられて上洛、義澄は将軍位を剥奪された。

足利義稙(あしかが よしたね)1466‐1523

室町幕府10代将軍。
9代将軍義尚が1489年(延徳1)近江で陣没したとき,義尚の母日野富子らの推挙で次期将軍に嗣立され,美濃より上洛した。
90年大御所義政が没してのち幕府の実権を握り,義尚の遺志を継ぎ第2次六角征伐,河内出陣の軍を起こしたが,これが因で細川政元と対立,1493年(明応2)4月政元のクーデタにより将軍を廃立された。しかし同年越中に逃亡,99年京都奪回を企図したが果たさず周防の大内義興を頼り,1508年(永正5)義興の援助で上洛に成功し,将軍に還任した。

足利義政(あしかが よしまさ)1435-1490

室町幕府8代将軍。在職1449-74*。足利義教(よしのり)の子。母は日野重子(しげこ)。
文安6年将軍職につくが、畠山持国,細川勝元ら宿老中心の政治をきらい遊興にふける。
寛正(かんしよう)5年弟義視(よしみ)を後嗣にさだめたが,妻日野富子が義尚(よしひさ)を生んだた、後継者争いがおこり、応仁の乱に発展。
乱中の文明5年義尚に将軍職をゆずり、のち京都東山にうつって東山殿とよばれる。銀閣寺、水墨画、能楽、生け花などに代表される東山文化をうみだした

安達盛長(あだち もりなが)1135-1200

源頼朝の乳母比企尼の長女を妻としたことから、頼朝に挙兵前から仕える。石橋山の戦い後、頼朝とともに安房に逃れ、千葉常胤を味方に引き入れる。鎌倉入り後上野国の奉行人、のちに三河国の守護を務め、頼朝の死後は出家したが宿老13人の合議制メンバーに名を連ね、梶原景時の断崖には積極的に参加した。
  伝安達盛長の墓(静岡県伊豆市修善寺)▶

阿野全成(あのぜんじょう)1153?-1203

源義朝と常盤の長男。幼名今若。頼朝の異母弟、義経の同母兄。
平治の乱(1159)後、醍醐寺で出家して醍醐(悪)禅師全成と称される。治承4(1180)年頼朝の挙兵を聞き直ちに関東に下向、合流。武蔵国長尾寺を与えられ、さらに駿河国阿野を領し阿野法橋と号する。
北条時政の娘阿波局を娶り、これが千幡(のちの実朝)の乳母になったことから、頼朝没後は、千幡の擁立をはかる北条氏と2代将軍頼家との対立に巻き込まれたものと思われる。
建仁3(1203)年5月、頼家に対する謀反の疑いにより常陸国に配流。翌月下野国で誅殺され、子の頼全も京都で討たれた。

天野康景(あまの やすかげ)1537‐1613

徳川家康の部将。天野遠景の後胤といわれ、祖父遠房の代に家康の祖父松平清康に臣属した三河譜代の家柄である。康景は家康より5歳の年長で、幼少のころから家康に近侍し辛苦をともにした。
三河一向一揆のとき一向宗を改宗して家康方に付く。いわゆる三河三奉行の一人で公平無私な言行から(どちへん(彼是偏)なしの天野三郎兵衛〉の異称がある。晩年、幕領民を殺害した自藩の軽卒を幕府に引き渡すことを拒否し,みずから領知を放棄し蟄居した。

安城松平家(あんじょうまつだいらけ)

三河松平氏の宗家2代目当主とされる松平泰親から始まる岩津松平家が今川氏の攻撃を受けて衰退すると、2代信光子のうち安祥松平家初代の三男親忠が今川氏の軍勢を破った。
この結果、安城松平家が勢力を拡大し、松平宗家化するとともに戦国大名へと発展していった。

三河松平氏の宗家2代目当主とされる松平泰親から始まる岩津松平家が今川氏の攻撃を受けて衰退すると、2代信光子のうち安祥松平家初代の三男親忠が今川氏の軍勢を破った。
この結果、安城松平家が勢力を拡大し、松平宗家化するとともに戦国大名へと発展していった。
                安祥城址▶

安徳天皇(あんとく てんのう)1178-1185

第81代天皇(在位1180-1185)。高倉天皇の第一皇子。母は平清盛の娘・徳子。
1183年木曽(源)義仲の入京に伴い、平氏(平宗盛)とともに西国に落ちる。
1185年壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡すると清盛妻・時子(二位尼)に抱かれて入水する。

伊賀・伊勢平氏(いが・いせへいし)

平将門を討伐した貞盛の子・維盛が進出して以来、その子孫は伊勢を拠点としました。
また、清盛祖父・正盛が鞆田荘を寄進して以来、伊賀も平氏の重要基盤となります。
伊賀・伊勢の家人は平治の乱後、維盛・資盛に仕えます。維盛が富士川、倶利伽羅峠で敗れたため、宗盛らの主流派とは距離を置くことになり、後白河派の資盛は大叔父の頼盛と都落ちには加わらず、伊賀・伊勢の家人も所領に留まっていました。
(頼盛は頼朝の助命を嘆願した池禅尼の子で、頼朝に厚遇されることになります)

池禅尼(いけのぜんに)?-?

清盛父・忠盛の後妻となり、家盛、頼盛を生む。忠盛亡き後に出家。
平家の六波羅館の池殿に居住したことから池禅尼と称した。
平治の乱で捕らえられた源頼朝が、死んだ家盛に似ていたことから助命を願い、頼朝は伊豆への配流となった

石川数正(いしかわ かずまさ)?-1593

安土桃山時代の武将で、徳川家康の重臣。のち豊臣政権下の大名。父は康正、母は不明。
1549(天文18)に松平竹千代(家康)が今川氏の人質になったとき、駿府に随従して以来、つねに側近にあった。
1561年(永禄4)の尾張石瀬(いしがせ)合戦では先鋒となるが、この合戦後、織田信長との同盟を斡旋し、家康は今川氏と戦うこととなった。翌年2月には、数正は駿府にあった家康の嫡子信康(のぶやす)と正室築山殿の奪還に成功。1569年には叔父家成にかわり、西三河の旗頭となり、諸将を統括した。
姉川、三方ヶ原、長篠、小牧・長久手の合戦などでも戦功をあげたが、1585年(天正13)に路線論争に敗れて岡崎城を出奔し、豊臣秀吉に臣従した。1590年に小田原攻めの功により、信濃国松本城主8万石に封ぜられ、1592年(文禄1)に没した。

一条忠頼(いちじょう ただより)?-1184

武田信義の子で甲斐源氏嫡流。1180年父や安田義定らと共に挙兵。富士川の戦いで源頼朝に合流。
1184年1月の源義仲追討で活脅威となり逆にそのことが頼朝の脅威となり、同年6月幕府御所にて御家人が居並ぶ中誅殺される。

一条能義(いちじょう よしやす)1147-1197

能保は頼朝の同母妹を妻としたと思われる。
頼朝が権勢を得るとともに、その後押しによって官位が昇進。1193年縦二位になる。
北条時政に代わり2代目の京都守護となり、頼朝の京での情報収集役となる。頼朝の口利きで娘を後鳥羽天皇の乳母や関白九条兼実の子・良経の妻とし、自らは後白河法皇、後鳥羽天皇に近づき京での地位を高めた。
能保死亡の翌年嫡子・高能も死去し、また頼朝の死を契機として能保系の勢力は宮廷を追われた。

伊東祐親(いとう すけちか)?-1182

所領の伊東荘の分割を巡り工藤佑経と争い、子の河津三郎祐泰を殺害される。祐泰の子が曽我兄弟。
伊豆に流されていた源頼朝と娘が恋愛関係になり、子を出産したことから頼朝を殺害しようとするが失敗。石橋山の戦いでは頼朝を敗走させるが、富士川の戦いで捕まる。女婿の三浦義澄に預けられ、罪を許されるが、自らの行いを恥じて自害する。

伊東(藤原)忠清(いとう(ふじわら) ただきよ)?-1185

伊勢を本拠とする平氏累代の家人の家に生まれ、保元の乱に参戦。治承3(1179)年政変後には従五位下上総介に任ぜられた。また坂東8カ国の侍を奉行したとされ、翌年の源頼朝挙兵の際、大庭景近に指示を下している。
富士川の戦には副将として参戦,平氏の不利を察知して総大将の平維盛に退却を勧めた。平清盛の死後出家、平氏都落ちには同道せず京に留まったが、元暦1(1184)年、平田家継らの蜂起に参加、翌年志摩で捕らえられ京で斬首された。一族と共に平氏軍制の中核を占めた家人であった。

今川氏真(いまがわ うじざね)1538-1615

戦国時代の武将。
天文7年生まれ。永禄3年父今川義元の敗死で家督をつぐ。
7年ほどで領国の駿河・遠江、三河を徳川家康、武田信玄にうばわれる。のち家康の援助をうけて生涯をすごす。
和歌,蹴鞠をよくした。慶長19年12月28日死去。77歳。子孫は高家として幕府につかえた。

今川氏親(いまがわうじちか)1473-1526

戦国期の駿河国の武将。戦国大名今川氏の初代。
1476年(文明8)父義忠の戦死後,家督をめぐり家中に内紛がおきたが,伯父伊勢新九郎(北条早雲)に擁立され家督を相続。
明応・文亀・永正年間に遠江を侵略し,三河にも触手をのばした。1517年(永正14)に斯波氏を駆逐し,遠江を完全に制圧。この前後から守護大名からの脱皮をみせ,26年(大永6)には分国法「今川仮名目録」を制定。

今川義元(いまがわよしもと)1519-1560

戦国期の東海地方の武将。駿河・遠江・三河にわたる領国を築いた。
1536年(天文5)兄遍照光院恵探(えたん)を倒して家督となり(花倉の乱)、翌年武田信虎の女婿となった。その直後北条氏綱に駿河を侵されたが(河東一乱)、45年攻勢に転じ、北条勢をおし返した。一方三河では松平氏とともに織田信秀と争い、42・48年の2度小豆坂で戦った。
54年北条氏康・武田信玄と同盟を結び(善徳寺の会盟),織田氏との抗争に専念する態勢をつくったが、60年(永禄3)尾張国桶狭間で織田信長に急襲されて敗死。
内政面では徹底した検地とそれにもとづく兵力増強を行い,商工業の振興・統制など富国強兵を推進。53年には仮名目録追加を制定し,その一節「自分の力量を以て国の法度を申付」は,戦国大名を象徴する言葉として有名。

岩津松平家(いわつまつだいらけ)

三河松平氏の宗家2代目当主とされる松平泰親が岩津城(岡崎市岩津町東山(城山))を本拠にしたのに始まる。その後、信光・親長と継承されたが、今川氏の岩津宗家攻撃を受けて衰退し、庶流の安城松平家が三河各地を略取し惣領化した。
その後、安城家の庶流である三木松平家の信孝によって岩津領は押領されたという。
                岩津城址▶

上杉謙信(うえすぎ けんしん)1530-1578

享禄3年1月21日生まれ。長尾為景の子。天文17年兄長尾晴景の跡をつぎ越後守護代、春日山城主。
守護上杉定実の死後同国を支配。のち越中・加賀・能登までを勢力範囲とする。信濃、関東で武田信玄や北条氏康とあらそう。信玄との川中島の戦いは有名。
永禄4年上杉憲政より上杉の姓と関東管領職をゆずられる。関東への出陣直前の天正6年3月13日急死した。49歳。幼名は虎千代。名は景虎,政虎,輝虎。

宇佐美実政(うさみ さねまさ)?-1190

鎌倉初期の武士。伊豆国大見荘の住人。大見平次と称す。
治承4(1180)年の石橋山の戦では源頼朝に属し敗走。奥州合戦では、藤原泰衡の郎従由利惟平を捕縛し,武功を立てたが、建久1(1190)年に泰衡の郎党大河兼任が反旗を翻した際に、これと戦い戦死した。

鵜殿長照(うどのながてる)?-1562

今川氏真の家臣で,父(長持)の死後、三河(愛知県)上之郷城主となる。
今川義元の妹が生母ということで義元の甥にあたる長照も今川氏の親戚として重用された。
桶狭間の戦い以前から、尾張大高城の城代に任命されていたといわれる。
永禄5年(1562)松平勢は家康自ら軍勢を率いて上ノ郷城を攻撃。家康は甲賀衆に火計を用いさせたため、その混乱に乗じて城は攻め落とされ、長照は伴与七郎に討ち取られた。長照の二子・氏長・氏次は捕らえられ、駿府に留められていた家康の妻子と交換する形で今川氏方へと送られた。上ノ郷領は久松俊勝に与えられた。

奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)

平安後期,奥州の豪族。
前九年の役(1051〜62)に安倍氏に味方して敗死した亘理経清 (わたりつねきよ) の子清衡は、母の再嫁した清原氏に養われていたが、後三年の役(’83〜87)に源義家と結んで独立し、平泉に館を構えて奥羽両国に勢力をふるった。以後基衡・秀衡の3代に全盛をきわめ,京文化を吸収移植し、中尊寺・毛越 寺などを残した。秀衡は源平の争乱(治承・寿永の乱)に中立を保ち,源義経を保護して終世変わらなかったが、4代泰衡 は源頼朝の圧迫に屈して義経を討ち,その後、頼朝に滅ぼされた(1189)。

大内義信(おおうち よしのぶ)?-?

平治の乱を戦い、敗北後も源義朝に従った。1184年源頼朝の推挙により武蔵守となり、同国守護の役割も果たす。
頼家の乳母の夫であり、実朝元服時には加冠の役を務めるなど、御家人の中で高い地位にあった。

大江広元(おおえ ひろもと)1145-1125

下級貴族であったが朝廷実務を経験し、平家都落ち後まもなく鎌倉に下ったと思われる。
公文所別当および政所別当に取り立てられた。また、御家人らの訴えを頼朝に取り次ぐ「申次」を務めたほか、守護・地頭の設置を進言し、頼朝の信頼を高めた。
(源義経の「腰越状」も大江広元宛である)
頼朝の死後は、御家人同士の争いが起きたが一貫して北条義時を支える立場をとり、義時を支えた。承久の乱に際しては、積極的な京攻めを主張して、幕府の勝利に貢献した。
              大江広元の墓▶

太田広綱(おおたひろつな 源広綱)?-?

源頼朝挙兵時から平家追討軍に加わる。
1184年一の谷の褒賞として頼朝の推挙によって縦五位下駿河守に叙任される。
1190年頼朝の上洛に随行するが、頼朝が関東に下向する朝に突然逃走した。頼朝の右大臣拝賀の供奉人に選ばれなかったこと、駿河国の国務に希望がかなえられなかったことが理由と言われる。
子孫は太田氏として繁栄し、戦国時代初期には太田道灌を輩出している。

大庭氏(おおばし)

関東八平氏のひとつで鎌倉氏の一族。相模大庭御厨一帯を支配した。一族に梶原氏、俣野氏、懐島氏、豊田氏、桐原氏などがいる。
※坂東八平氏
平安時代中期に坂東(関東地方)に下向して武家となった桓武平氏流の平良文を祖とする諸氏。八つの氏族に大別されていたため、「八平氏」と呼ばれ、武蔵国周辺で有力武士団を率いた代表格の家門である。一般的には千葉氏・上総氏・三浦氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏の八氏が多く挙げられる。

大庭景親(おおば かげちか)?-1180

代々相模国大庭御厨の荘司。
保元の乱は兄とともに源義朝に従いますが、兄との不仲や一時囚人となった際に平家の計らいで助命されたことから、平治の乱では平家に属します。
頼朝挙兵の第一報は景親から清盛に伝わる。石橋山の戦いで頼朝を破るが、富士川の戦いでは平家軍と合流しようとしたが阻まれて、降参する。固瀬川で斬首される。

大庭景能(おおば かげよし)?-1210

保元の乱に弟・景親と源義朝に従い、白河殿の戦いで源為朝の矢で負傷する。
源頼朝の挙兵に参加し、富士川の戦いで降伏した弟・景親を斬った。
奥州藤原氏の追討に朝廷からの許可が得られなかった際に、故事を参考に頼朝に決断をすすめた。
一時鎌倉を追放されたが、許されて頼朝の上洛に供奉。相模の懐嶋で亡くなる。

大姫(おおひめ 源頼朝娘)1178-1197

頼朝との対立を疑われた木曽(源)義仲が人質として鎌倉に送った嫡男・義高の許嫁となる。
義仲滅亡の際に義高も殺害され、そのことで大姫は心を病みます。
その後、後鳥羽延納への入内も計画されましたが、実現せずに20歳の若さで亡くなります。

岡崎義美(おかざき よしざね)1112-1200

相模大住郡岡崎郷の住人。三浦義明の弟。
源頼朝の挙兵に参加し、石橋山の戦いで長子義忠(与一)を討った長尾定景の処分を任せれたが、頼朝に助命を申し出て許された。
頼朝のもとで宿老として重用された。出家後は窮迫し、北条政子が源頼家に所領を義実に与えるように取りなした。89歳の長寿を全う。

岡部元信(おかべもとのぶ)?-1581

今川義元・氏真に仕え、桶狭間の戦い際は鳴海城で織田勢にに抵抗した。
のち武田信玄・勝頼に仕え、長篠・設楽原の戦い後に徳川家康が遠江国小山城に侵攻した際は撃退した。最後は徳川家康との遠江国高天神城における防衛戦にて奮闘するも戦死した。

於大の方(おだいのかた)1528-1602

戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。松平広忠の正で、徳川家康の母。晩年は出家して伝通院と称した。
水野忠政は、松平氏とさらに友好関係を深めるため、天文10年(1541年)、松平広忠に於大を嫁がせた。天文11年12月26日(1543年1月32日)、於大は広忠の長男・竹千代(後の家康)を岡崎城で出産した。
天文12年7月12日、父・忠政が死去。家督を継いだ兄・信元は、天文13年(1544年)に今川氏と絶縁して織田氏に属した。これにより、同年9月、於代は広忠により離縁された。於大は、実家・水野氏の三河国刈谷城に返され、椎の木屋敷で暮らしたとされている。
天文16年(1547年)には信元の意向で知多郡阿古居城(坂部城、現・阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁した。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦い後、今川氏から自立し織田氏と同盟した家康は、俊勝と於大の3人の息子に松平姓を与えて家臣とし、於大を母として迎えた。
永禄5年(1562年)、上ノ郷城合戦の功により、夫・俊勝が同城を与えられた。同城には、子・康元が入り、俊勝と於大は岡崎城に居住した。
天正3年12月(1576年1月)、兄・水野信元が、謀反を疑った織田信長の命令により、家康に殺され、水野家は一時滅亡した。この時、真相を知らずに家康の下へ信元を案内した久松俊勝は隠退してしまう。
於大は俊勝の死後、俊勝菩提寺の安楽寺で剃髪して伝通院と号した。慶長7年8月29日、家康の滞在する伏見城(現・京都府京都市伏見区)で死去。75歳。遺骨は、翌年、江戸講師河の傳通院に埋葬された。

織田信長(おだのぶなが)1534-1582

天文3年(1534)生まれ。織田信秀の子。
永禄2年(1559)尾張(愛知県)を統一。3年桶狭間の戦いで今川義元を破る。徳川家康と同盟し,10年美濃を征服して岐阜を拠点とする。11年足利義昭を擁立して京都にはいるが、
のち対立。天正元年(1573)義昭を追放し,室町幕府をほろぼす。浅井・朝倉連合軍との姉川の戦いで勝利し、伊勢長島の一向一揆を鎮圧、武田軍との長篠の戦いにも勝利。4年近江に安土城をきずく。天下統一を目前にして、明智光秀の謀反にあい、天正10年6月2日京都本能寺で自刃した。
49歳。尾張出身。幼名は吉法師、三郎。官名は上総介(かずさのすけ)。
【格言など】人間五十年,下天の内をくらぶれば,夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか(「信長公記」)

織田信秀(おだのぶひで)1511-1551

清洲の尾張守護代織田大和守家の庶流で、三奉行の一人。初め弾正忠、のち備後守。信定の子で、信長の父。
勝幡城を居城とし、次第に勢力を広げ織田一族中最強となった。今川義元や斎藤道三とも戦ったが道三とは和約し、信長に道三の娘(濃姫)をめとらせた。
天文20年3月3日死去。41歳。没年には天文18年、21年説もある。

織田信広(おだ のぶひろ)?-1574

織田信秀の子。織田信長の異母兄。三河安祥城の守将であったが、天文18年今川軍に敗れて捕虜となり、人質の松平竹千代(徳川家康)と交換される。一時信長とあらそったがゆるされ、京都で室町幕府との連絡役をつとめる。天正2年9月29日長島一向一揆鎮圧の際、討ち死にした。

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