皇位継承問題と義仲軍の孤立、平氏追討出立
◆皇位継承問題◆
寿永二年(1183)7月安徳天皇が平氏と都落ちしたため、朝廷は代わりの天皇を立てることにします。
後白河法皇は天皇の皇子を優先するという原則により、第三皇子の惟明親王(5歳)、第四皇子の尊成親王から選ぼうとしましたが、二人ともまだ子供でどちらにするか迷っていました。
その時、義仲が北陸宮の擁立を要求してきました。これは院の最大の権力である皇位決定権を犯したことになり、後白河の逆鱗に触れます。
しかし、後白河は義仲の武力を警戒し、占いの結果として8月20日尊成親王(後鳥羽天皇)に皇位を与えました。
◆義仲の孤立◆
義仲軍は京市中での乱暴狼藉により評価が落ちていたこともあり、後白河と義仲の溝はさらに拡がっていきます。さらに、少しつながりのあった八条院も後白河に同調したため、義仲は孤立を深めて9月20日平氏追討のため西国に出立します。
しかし、10月1日義仲は備中国水島(岡山県倉敷市)で大敗を喫してしまいます。
こうして、義仲から朝廷、寺社をはじめ共に上洛した源氏の諸将の心も離れていくことになります。
頼朝と後白河の交渉 ・・・・・ 寿永二年十月宣旨
◆頼朝重視の姿勢へ◆
西国は平氏、京は義仲軍に抑えられ、朝廷の最期の便りは頼朝となります。
頼朝にととっても義仲に先に上洛された悔しさから、後白河と頼朝は交渉を開始します。
頼朝からの主要な申し出は、「朝廷や寺社の荘園、旧領から年貢を納めさせるようにするので、その権限をください」というものでした。
◆寿永二年十月宣旨◆
後白河は10月9日頼朝を従五位下に復帰させ、10月14日に朝廷から宣旨を下します。その内容は
・東国における荘園、公領の所有権を旧来の荘園領主・国衙へ回復させることを命じる
・その回復を実現するため源頼朝の東国行政権を認める
というものした。
後白河の悩み(京の治安維持と食料の確保)と頼朝の悩み(義仲に上洛の先を越された焦り、まだ罪人の身分で朝廷に話ができる立場ではなかった)解決の利害が一致した結果でした。
水島合戦から帰京した義仲が介入して北陸は権利の中から外されました。
しかし、後白河が頼朝重視の姿勢を打ち出したため義仲との関係は一層険悪になり、唯一の官軍を目指す頼朝にとって義仲は討ち取らなければならない相手となりました。
義経の出立
◆義経出陣◆
十月宣旨を受けて義経が鎌倉を出立します。
主な目的は
・院への貢物の持参
・十月宣旨の各地への伝達
とされますが、義仲追討も視野に入っていたでしょう。
頼朝の出立も噂されましたが、兵糧問題の他に志田義弘の乱の後も北関東で動揺が続き、藤原秀衡の脅威も大きく、上総広常の反対もあり実現しませんでした。
義仲の抵抗
◆法住寺合戦◆
義仲勢の中には、行家を中心に後白河に寝返る武士も出て、彼らは平氏追討という名目で京を離れていきました。
追い詰められた義仲は11月19日に院御所の法住寺を襲撃、後白河を五条東洞院に幽閉し、院近臣の藤原朝方、摂政の近衛基通を辞めさせ、自身の妻の兄・松殿師房を摂政につけます。
さらに、頼朝追討令、藤原秀衡に頼朝攻撃命令を出させ、自身は頼朝追討のために征東大将軍に就任します。
しかし、このことはさらに武士たちの反発を招き、頼朝に義経追討の名目を与えることにもなりました。
上総広常の殺害
◆殺害の目的◆
御家人には、様々な思惑、所領の大小、頼朝軍参加の新旧、長老・若手など様々な立場の御家人がおり、頼朝は御家人の結束を固め、方向性を統一する必要がありました。
そのような中、12月に頼朝の挙兵を勝利に導いた上総広常が侍所所司(次官)の梶原景時によって殺害されます。
広常は常々頼朝の上洛には反対し、東国の独立を目指し、頼朝が朝廷と接近することに対して不満を持っていたとされ、頼朝上洛派との対立から謀反の疑いをかけられ殺害されました。しかし、これは頼朝の誤認もありましたが、粛清に他なりません。
◆殺害の意味◆
広常は頼朝軍の最大の勢力でした。このことは頼朝が作戦を実行する上で広常の合意が必要なことを意味しました。広常の殺害により頼朝は権力を集中させ、その軍勢を意のままに動かせるようになるとともに、頼朝を頂点とする集団となっていきました。
義仲の滅亡
◆義仲の最期◆
広常殺害後、範頼が率いる軍勢が京に向かい出立し、先に出立していた義経勢と合流します。
範頼は近江から京を、義経は宇治から京を目指します。
1184年正月義経は、義仲に合流した志田義弘を宇治川合戦で破り、入京を果たし後白河を救済します。都を追われた義仲は逃亡の途中、近江国粟津(滋賀県大津市)で討ち死にします。享年31歳。
入京してから半年、法住寺合戦から2ヵ月後のことでした。
木曽義高の死
◆義高の最期◆
木曽義仲の死に伴い、嫡男義高(義仲から大姫の許嫁(人質)として鎌倉に送られていた)の身にも危険が迫ります。
義高は女房の姿に変装して、頼朝に仕える者たちの協力もあり、信濃を目指して逃亡します。
しかし、4月26日入間河原(埼玉県入間市)で藤内光澄に討たれます。
義高の死を知った大姫のショックは大きく、食事も喉を通らなくなり病になってしまいます
政子は頼朝から事前に相談がなかったことを非難し、光澄の処分を迫り、光澄は殺害されてしまいます。
まとめ
上洛を果たした義仲は、京の町人から反感を買い、皇位継承問題から朝廷とも対立し孤立を深めていきます。
平氏との戦いにも敗れた義仲は後白河法皇、後鳥羽天皇を幽閉し傀儡政権を樹立し、権力を手中におさめたかに見えました。しかし、頼朝より派遣された範頼、義経によって討たれ、嫡男・義高も殺害されます。義仲が討たれたのは上洛から半年後のことでした。
頼朝は地位を回復し、唯一の官軍としての地位を固めていきました。
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