源頼朝 一ノ谷での義経の躍動と憂鬱・・・・・後白河と頼朝の板挟み

源頼朝

平氏と和平か追討か

◆平氏と対決か和平か◆
義仲を追討した頼朝は東国の支配と河内源氏の棟梁としての立場を確立します。
いよいよ、頼朝と義仲が争っていた間に勢力を回復し、讃岐国屋島(香川県高松市)から福原まで進んだ平氏軍との対決になります。
しかし、朝廷では対決か、神器の安全を第一とした和平か、意見が分かれていました。

◆後白河の意向◆
以下の理由から後白河の強い意向がはたらき、対決に決します。

  • 鹿ヶ谷事件での遺恨
    後白河の近臣が中心となり平氏打倒を計画したが、密告により露呈し関係者は殺害または流罪となったことへの恨み。
  • 院政を停止させられた治承3年の政変
    1179年11月20日平清盛が軍勢を率いて京都を制圧し、後白河を鳥羽院に幽閉し、院政を停止させられたことへの恨み。
  • 安徳天皇の入京を防止する
    自らが擁立した後鳥羽天皇を守るため、三種の神器を携えた安徳天皇の入京を防止する必要があった。

一ノ谷の戦い

◆義経の鵯越◆
1184年3月20日摂津国一ノ谷(神戸市須磨区)で合戦が起こります。
福原を東に進んだ平氏は東(生田森)、西(一ノ谷)に要害を築き、再上洛を狙っていました。

平氏追討の院宣を得た源頼朝は範頼に大手(正面)、義経に搦手(裏方)につかせて攻撃を開始しました。一ノ谷は背後に険しい山が連なり入口が狭い自然の要害となっており、戦いは一時膠着状態となります。
義経の鵯越の奇襲(急斜面を一気に馬で駆け下りた)により、平氏は混乱し屋島に敗走することになります。

◆平敦盛◆
この戦いで平氏一族の多くの者が討たれます。
平敦盛熊谷直実に討たれ、また、清盛の息子・重衡も須磨で捕われます。勝利した頼朝は京と畿内を手に入れました。

~~~平敦盛の最期~~~
熊谷直実は源義経とともに奇襲作戦に参加し、平家軍に一番乗りで突入します。
対決相手を探していたところ波際を逃れる若武者を見つけ、「卑怯にも敵に後ろをお見せになるのか」と呼び止めて、馬から落として首を取ろうとします。しかし、その武者は自分の子と同じくらいの少年少年でした。
直実が「大したものではないが、武蔵国住人熊谷次郎直実」と名乗ったところ敦盛は「名乗らずとも首を取って誰かに訪ねてみよ。きっと知っている者がいるであろう」と答えた。
直実は逃がそうとも考えたが背後に味方の兵士がせまっており、どのみち生き延びることはできないと思い「同じ事なら直実の手におかけもうして、死後の供養をいたしましょう」と言って泣く泣く首を斬りました。
直実はその後出家し、敦盛の菩提を弔い、高野山蓮華谷智識院で大往生を遂げます。

頼朝の恩賞

義仲の追討、一ノ谷の勝利で頼朝は後白河から正四位下に叙されます
元は縦五位下であったので、従五位上、正五位上・下、縦四位上・下を飛び越えての出世でした。

平氏の都落ち後、平氏の所領は義仲・行家に与えられていましたが、義仲の所領は頼朝に与えられます。頼朝はその中から、平頼盛(頼朝の助命を嘆願した池禅尼の子)の所領は返還しました。

一門の粛清

頼朝は真の源氏の棟梁となるべく、源氏一門の粛清を行っています。

甲斐源氏
一ノ谷の合戦まで頼朝の代官範頼、義経が大将軍でしたが、実態は甲斐源氏との混成軍でした。上総広常亡き後、甲斐源氏が最大の脅威となっており、従わせていきます。

  • 1181年後白河が甲斐源氏嫡流武田信義に頼朝追討の宣下を下すという噂が流れると、頼朝は怒り、信義は「子々孫々に至るまで弓を引くことはない」という起請文を出している。
  • 信義の三男板垣兼信は、御家人にすぎない土肥実平の配下になったことに不満を述べたが、頼朝はこれを一蹴し、一門よりも腹心を重視する姿勢を示した。
  • 武田信義の嫡男・一条忠頼に謀叛の疑いがあるとして、鎌倉で御家人が居並ぶ中で誅殺した。

これらによって、甲斐源氏は鎌倉に一御家人に転落します。

◆木曽源氏◆
義仲の嫡男義高は1183年鎌倉に送られ、頼朝の幼い娘・大姫の許嫁となります。しかし、頼朝が義仲を滅ぼしたことから、報復を恐れた頼朝は義高を殺害し、木曽源氏は滅亡しました。

大姫は大きな衝撃を受け、精神的に生涯苦しむことになります。この時義高は12歳で頼朝が平氏から助命された時とひとつ違いでした。

伊賀・伊勢平氏の蜂起

1184年伊賀国鞆田に住む平田家継が挙兵し、守護の大内惟義の郎党をことごとく殺害するという反乱を起こします。
これに対して、平信兼が鈴鹿山を塞ぎ、富士川の戦いで侍大将を務めた伊東忠清も参戦し、上洛も窺うようになります。
反乱軍は近江国大原荘で源氏と激突、平田家継は戦死しましたが、伊藤忠清以下の有力者は逃亡し潜伏しました。
このことは後に朝廷と源氏を悩ませることになります。

義経の自由任官問題

頼朝の申請通り、1184年6月の小除目において以下のように処遇されます

  • 平頼盛、その子らの元の官位への復帰(権大納言)
  • 頼朝妹婿藤原(一条)能保が讃岐守就任
  • 範頼が三河守就任
  • 太田広綱が駿河守就任
  • 大内義信が武蔵国守就任

◆頼朝・義経対立の発端?◆
鎌倉の御家人の賞罰は、頼朝の申請によって朝廷が行賞することになっていましたが、8月義経は後白河から左衛門少尉に任じられ検非違使を宣下されます。
頼朝は自分の許可を得ずに任官されたことに激怒し、平氏追討への参加をしばらく引き延ばしたと言われます。

これが頼朝と義経の対立の発端とされますが、義経はその後も後白河との取次ぎなど重要な役割を担当しています。さらに、義経は従五位下となり院・内昇殿をゆるされるまでに出世しますが、頼朝が制止した形跡はありません。
平氏討伐への参加見送りも、義経は伊藤忠清をはじめとして潜伏している伊賀・伊勢平氏の残党を捜索するために院の希望もあり、京に留まっているのでこの時点での頼朝と義経に官位を巡る対立はなかったと考えられます。

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