源頼朝 誕生から伊豆への配流の経緯

源頼朝

源頼朝の父・源義朝

清和源氏の系図

◆父との不仲から東国での勢力拡大と上洛◆
源頼朝を知る上で頼朝の父・源義朝に触れます。
源義朝は、河内源氏の棟梁・源為義の長男でしたが、為義とは不仲であったため廃嫡され、次男の義賢が為義の嫡男になったと考えられています。
そのため義朝は東国に下り勢力拡大に努め、20代で三浦氏上総氏大庭氏ら東国の有力武士を傘下に加えていたといいます。南関東の武士を従えた義朝の武名は京都にも伝わり、義朝は長男の義平に郎党の統率を任せて上洛します。

朝廷との関係構築◆
そして、京都で熱田大宮司・藤原季範の娘と結婚し頼朝が生まれます。従って頼朝は京都生まれ、京都育ちになります。
頼朝の母の姉妹は鳥羽法皇の后や娘に仕えていたので、義朝はこの縁を利用して鳥羽法皇に接近し、1153年、31歳で縦五位下に叙され、下野守に任じられます。これにより義朝は父・為義の地位を抜き、河内源氏の棟梁と見られるようになります。

◆源義賢との戦い(大蔵合戦)◆
1155年には義朝 の庶長子・義平が、義朝への対抗策として北関東に下向していた義賢を、武蔵国大蔵館に襲い、殺害(大蔵合戦)したことで、義朝と為義の関係は一層険悪になっていきます。
※庶子:正室ではない女性から生まれた子供

流罪の原因となる保元の乱・平治の乱

◆保元の乱◆
1156年に保元の乱が起きると、源為義は崇徳上皇方、義朝は後白河天皇方について戦います。
結果は後白河天皇方の勝利に終わります。この戦いによって平清盛と源義朝が躍進し、左馬頭に任官した義朝は河内源氏の棟梁としての地位を確立させます。

頼朝は戦いには参戦しませんでしたが、父・義朝のおかげで上西門院蔵人に任命されるなど順調に出世していきます。頼朝は義朝の三男でしたが兄たちと比べ出世が早く、正室の子である頼朝が嫡男として扱われていたことが分かります。

◆平治の乱◆
1159年12月、義朝は後白河上皇側近の藤原信頼と組んでクーデターを起こします。
13歳の頼朝も父に従って参戦します。信頼・義朝はいったん朝廷を掌握し、義朝は縦四位下播磨守、頼朝は縦五位下右兵衛権佐となります。しかし、平清盛の挙兵によってクーデター政権は3週間で崩壊してしまいます。

池禅尼に嘆願で、伊豆へ流罪に

◆義朝の死◆
戦いに敗れた源義朝は尾張国野間(愛知県知多郡美浜町)で家人の長田忠致の裏切りにあって殺され、長男・義平ものちに捕らえられて処刑、次男・朝長は戦傷が悪化し自害します。
頼朝は平氏の追手から逃げる途中馬上で寝てしまい、義朝一行からはぐれて単身東国へ向かう途中、尾張国(愛知県)で同国の受領・平頼盛の家人である平宗清捕まり京に送られます。

◆頼朝の助命と伊豆への配流◆
通常は報復防止のために殺されてしまいますが、平忠盛(清盛の父)の正室で、忠盛亡き後も平氏一門に影響力を持っていた池禅尼(いけのぜんに)の嘆願により助命されます。
一説では頼朝が死んだ自分の息子(家盛)に似ていたことから、断食までして頼んだともいわれます。
命拾いした頼朝は、伊豆への流罪となります。
この縁で池禅尼の子、頼盛は平氏討伐の際も頼朝に守られ、厚遇されるようになります。

まとめ

河内源氏の棟梁となった頼朝の父・義朝は、朝廷との結び付きをも強めようとします。
保元の乱では勝利しますが、平治の乱では敗北してしまいます。
逃亡中に、義朝は殺害され、頼朝は捕まってしまいます。

敗れた頼朝は通常では殺害されてしまいますが、池禅尼(清盛の継母)の嘆願により助命され、伊豆へ流罪となります。

このことは、のちに平家滅亡につながり、さらに頼朝は鎌倉に幕府を開き武家政治を実現していきます。

〈引用・参考〉

  • 株式会社晋遊舎 北条義時完全ガイド
  • 株式会社三笠書房 板野博行著 眠れないほどおもしろい吾妻鏡
  • 中央公論新社 元木泰雄著 源頼朝
  • 談社現代新書 呉座勇一著 頼朝と義時 武家政権の誕生
  • Wikipedia
  • コトバンク

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