源頼朝 源氏と平氏の最終決戦・・・頼朝と義経の思惑のズレ

源頼朝

源範頼の出撃

◆範頼の出撃
一ノ谷の戦いののち頼朝軍はさらに進軍しましたが、山陽道で土肥実平梶原景時が苦戦していました。義経も伊東忠清潜伏による警備のため京に留まったままでした。
1184年8月、一旦鎌倉に戻っていた範頼北条義時、足利義兼、千葉常胤らの東国武士千騎を従えて、鎌倉から西国に向けて出立します。

◆義経の出撃遅れ
義経が追討官符を受け、範頼も追討官符を受け京を出立します。
義経・京武士が屋島、範頼・東国武士が山陽・長門彦島(山口県長門市)を目指す、2方面作戦が計画されましたが、忠清問題で義経の出立はまたも延期されました。

◆範頼の進軍
範頼は出発から1ヵ月あまりで土肥実平・梶原景時の先導もあり、平氏の重要拠点安芸国(広島市西部)を攻略。11月には平知盛が拠点とする長門国(山口県西部)に到達します。
しかし、範頼軍は陸上では優位でしたが、彦島の平氏勢力に対抗できる水軍の整備が必要で長門に長期滞在することになります。長門は元々平氏の知行国で影響力も強く、兵糧の確保も苦労し、徐々に地元民の反感を買うことになります。

義経の婚姻

範頼の遠征中、川越重頼の娘が義経と婚姻するため、一族と共に上洛します。
重頼は武蔵国の在庁官人を務めた有力武士で比企尼の婿でした。つまり、義経の室は比企の尼の外孫となります。

幕府機構の整備

侍所に続いて、10月に公文所吉書始めと問注所が開設され、幕府運営の基礎的な3つの帰還が設置されました。主な役割と別当(長官)は以下の通りとなります。

  • 侍 所:御家人の統制   別当:和田義盛
  • 公文所:文書の作成・発給 別当:大江広元
  • 問注所:裁判を担当    別当:三好康信

範頼軍の苦戦

範頼軍は長門国で停滞しており、すでに制圧した山陽道を平氏が奪回する危険性が高まってきました。頼朝は範頼に以下の指示を出します。
 ・地元の者と衝突せずに九州に進出すること  →  兵糧や物資の徴収を優先する
 ・安徳天皇二位尼時子の身柄確保  →  神器の確保を優先する
この時点で頼朝は平家追討軍の主力は範頼軍と考えており、範頼への指示となりました。その後の義経の活躍と進軍に関しては予想していなかったでしょう。

義経の出撃  ~屋島の戦い~

◆義経の出撃
1185年1月義経がいよいよ京を出立、2月中旬まで摂津国(大阪府北西部と兵庫県南東部)の渡辺津(旧淀川河口付近)に滞在し、渡辺党以下の畿内武士団を組織します。
義経の京での任務を継続するため鎌倉より中原久経が派遣されてきたことから、頼朝は義経の出撃を把握していたと考えられます。

◆屋島の戦い◆
後白河は忠清がまだ潜伏したので心配し、義経の出撃を制止しようとしましたが、義経はこれを振り切り渡辺党の協力を得て、暴風雨をついて出撃し短時間で阿波(徳島県)に渡り、屋島を攻撃します。
暴風雨の出撃で敵の不意をつき、家屋や山野を焼き払うことで大軍にみせかける作戦で勝利し、平氏は彦島に退くことになります。

~~~~~ 扇の的 ~~~~~
合戦が休戦状態となった時、平氏軍から美女が乗った小舟が現れ、竿の穂先の扇の的を射よと挑発します。的を外せば源氏の名折れになると、義綱は弓の得意な武士を探し畠山重忠を指名しました。しかし、重忠は辞退し下野国の那須十郎を推薦します。しかし、十郎も辞退し弟の那須与一を推薦し与一はやむなく引き受けます。
与一は宇海に馬を乗り入れると、弓を構え「南無八幡大菩薩」と唱え、鏑矢を放ちます。矢は見事に見事に扇の柄を射抜き、扇は空に舞い上がり春風に一もみ二もみされさっと海に落ちました。

壇の浦の戦い

◆平氏の滅亡◆
平氏は安徳天皇とともに最後の拠点である長門彦島にたどり着きます。頼朝は範頼による攻撃を想定して神器の奪還を命じていました。しかし、3月義経率いる軍勢が戦いをはじめ源氏が圧勝。二位尼時子(清盛妻)は安徳天皇を抱いて入水し、神器のうち宝剣は水中に沈んでしまいます。
1180年8月の頼朝の挙兵から4年半で平氏は滅んだことになります。

◆頼朝への報告◆
頼朝はこの報を4月、父の菩提を弔い勝長寿院の立柱の儀式の最中に受けます。頼朝は鶴岡八幡宮に向かい言葉を発することができなかったといいます。
しかし、範頼からではなく義経からの報告であったこと、安徳天皇・時子が入水し、神機のひとつ宝剣を失ってしまったことに喜びを困惑を感じたのではなかったでしょうか。

朝廷の対応

◆頼朝の昇任◆
4月に朝廷にも壇ノ浦の合戦の報告が入ります。
安徳天皇の死により、後白河院・後鳥羽天皇の王権は盤石となり、頼朝は上洛しないまま従二位に叙され公卿になりました。

◆義経の昇任◆
同月義経が上洛すると、翌日には院の親衛隊長である院御厩司(いんのみまやのつかさ)に補任され、8月には伊予守に任命されます。伊予守は播磨守と並ぶ受領の最高峰で、院政期には大物の院近臣が補任され、伊予守から公卿に昇進する者の多数いました。
受領への任命は頼朝の申し入れに対するもので、この段階でも両者の関係は最終的な破綻には至っていなかったと考えられます。

まとめ

1185年(文治元年)3月24日、壇ノ浦で源義経が平氏を攻撃(壇ノ浦の戦い)。
平氏は戦いに敗れ安徳天皇は入水、総帥・平宗盛は生け捕られ平氏は滅亡します。
しかし、安徳天皇が入水してしまったこと。三種の神器のうち宝剣を失ってしまこと。更に戦功によって義経が昇任していったことが頼朝の対立を招く火種となっていきます。

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