源頼朝 石橋山での敗戦理由と伊豆脱出

源頼朝

石橋山の戦い

◆石橋山の戦い◆
初戦に勝利した頼朝ですが、伊豆を支配するには兵力が少なく、平氏の反撃も時間の問題でした。
そこで、三浦半島に勢力を持つ三浦一族を頼ることにしましたが、三浦一族は豪雨による酒匂川の増水で足止めされ、頼朝に合流できずにいました。
頼朝は政子を伊豆山権現に預け、300騎の兵で相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)まで進みます。


これに対して源仲綱の子・有綱を倒すために東国にきていた大庭景親が3,000余騎を率いて迎え撃つ形をとります。

頼朝は石橋山に陣を構え、以仁王の令旨を高く掲げ官軍であることを示すとともに、味方の士気を高めます。対峙する大庭勢は谷ひとつ隔てて布陣し、さらに伊東祐親も300騎を率いて石橋山の頼朝の背後に布陣し、頼朝は前後を敵に挟まれる形となってしまいます。頼みの綱の三浦軍は依然として、頼朝勢に合流できていませんでした。

大庭勢は三浦氏が合流する前に決着をつけようと、治承4年(1180)8月23日の夜に攻撃を仕掛けます。
頼朝も自ら見事な弓の腕前で防戦しますが、圧倒的な兵力の前に敗走することになります。
この間に、先陣を務めた岡崎義美の子・佐奈田与一義忠、さらに工藤茂光北条宗時らが命を落としています。
与一の亡骸は与一塚に葬られ、与一を祀る神社(佐奈田霊社)が建てられました。

◆敗走◆
敗走中の頼朝が洞穴(しとどの窟)に身を隠していたところ、大庭勢の梶原景時に見つかります。
しかし、景時はこれを見逃し「この山に人影なく、向こうの山が怪しい」と景親らに報告して、頼朝の命を救いました。
このことが縁で、後に景時は頼朝から重用されることになります。

危機を脱出した頼朝は土肥実平の案内によって、現在の岩海水浴場(神奈川県真鶴町)から出帆し、安房国(千葉県)に渡り再起を誓います。

三浦氏の対応

◆三浦義明◆
頼朝との合流に失敗した三浦義澄らは頼朝の敗北を知り、本拠地の衣笠城に帰る途中、由比ガ浜で頼朝の挙兵時には敵対していた畠山重忠と遭遇します。合戦となりますが、停戦となり衣笠城に戻ります。
城に戻り平氏の追撃を受けましたが、三浦義明が城に敵を引き付けている間に一族は頼朝同様に房総半島目指して脱出します。
三浦義明は一人城に残り、城を枕に打ち死にします。

まとめ

頼朝の第2戦は石橋山の戦い。
圧倒的な兵力の差のもと、頼りの三浦一族も到着せず、大庭景近、伊東祐親の軍勢に敗れます。
敗走中に大庭勢の梶原景時に見つかり、絶対絶命の危機に陥りますが、景時はこれを見逃します。
運よく伊豆山中から逃れた頼朝は岩海岸(神奈川県真鶴町)から安房国目指して脱出し、安房で再起を図ることとなりました。

付録

石橋山の戦い、伊豆脱出ゆかりの地ををご紹介しています。こちらで動画もご覧ください。

〈引用・参考〉

  • 株式会社晋遊舎 北条義時完全ガイド
  • 株式会社三笠書房 板野博行著 眠れないほどおもしろい吾妻鏡
  • 中央公論新社 元木泰雄著 源頼朝
  • 談社現代新書 呉座勇一著 頼朝と義時 武家政権の誕生
  • Wikipedia
  • コトバンク

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