人物 な行

中川重政(なかがわ しげまさ) ?-?

織田信長に仕え、黒母衣衆に任じられる。永禄11年(1568年)9月の信長上洛以後は、京畿の所務担当者として明智光秀・木下秀吉・丹羽長秀らと連判状を頻繁に出している。永禄13年(1570年)に琵琶湖周辺の城に信長が六角義賢らの残党に備えて重臣を配置した際には安土を任されており、ようやく部隊指揮官の地位に昇ったものと思われる。

ところが、柴田勝家と領地が隣接しており、複雑に入り組んでいた利権をめぐって争い、弟の津田盛月が勝家側の代官を殺害したことから、信長の怒りに触れて弟と共に改易されたうえ、徳川家康の許に追放・蟄居処分に処された。この時、剃髪して土玄と号している。元気3年(1572年)12月、三方ヶ原戦いでは家康に従って武田信玄の軍勢と戦った。

天正元年(1573年)、信長から罪を許されて召還された。後に信長から安土城の城代に任じられたが、以前のような地位を取り戻すことはなく、以後、合戦などの表舞台に立つことはなかった。信長の死後は織田信雄に仕え、天正12年(1582年)の小牧・長久手の戦いでは信雄に従って犬山城を守備したが、池田恒興の攻撃に敗れた。その後の行方は不明。

丹羽長秀(にわ ながひで)1535-1585

織田信長に仕える。柴田勝家と並び称される勲功の臣で,浅井・朝倉との合戦に功績があり,近江佐和山を拝領して居城とした。長篠の戦には一翼の大将として軍功をあげ,翌1576年(天正4)惟住(これずみ)の称号を得た。本能寺の変後,羽柴(豊臣)秀吉とともに明智光秀を討ち,ついで柴田勝家,佐久間信盛と戦った。戦後,秀吉より越前・若狭両国と加賀半国を与えられ,越前北ノ庄の城に住した。

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