- た
- 太原雪斎(たいげん せっさい)1496‐1555
- 平敦盛(たいら の あつもり)1169-1184
- 平清盛(たいら の きよもり)1118-1181
- 平維盛(たいら の これもり)1156-1184?
- 平滋子(たいら の しげこ)1142-1176
- 平重衡(たいら の しげひら)1157~1185
- 平重盛(たいら の しげもり)1138-1179
- 平忠清(たいら の ただきよ)?-1185
- 平忠盛(たいら の ただもり)1096-1153
- 平時子(たいら の ときこ)1126-1185
- 平時忠(たいら の ときただ)1127-1189
- 平知盛(たいら の とももり)1152~1185
- 平宗盛(たいら の むねもり)1147-1185
- 平基盛(たいら の もともり)1139-1162
- 平頼盛(たいら の よりもり)1131~1186
- 高倉天皇(たかくらてんのう)1161-1181
- 高山右近(たかやま うこん)1552-1615
- 滝川一益(たきがわ かずます)1525-1586
- 武田氏(たけだうじ)
- 武田信玄(たけだ しんげん)1521-1573
- 武田勝頼(たけだ かつより)1546-1582
- 武田信光(たけだ のぶみつ)1162-1248
- 武田信義(たけだ のぶよし)1128-1186
- 武田義信(たけだ よしのぶ)1538-1567
- 竹中重治(たけなか しげはる)1544-1579
- 多田行綱(ただ ゆきつな)?-?
- 伊達政宗(だてまさむね)1567〜1636
- ち
- 筑(竹)阿弥(ちくあみ)?-?
- 千葉常胤(ちば つねたね)1118-1201
- 長宗我部氏(ちょうそがべうじ)
- 長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)1539-1599
- つ
- 津川義冬(雄光)?-1584
- 築山殿(つきやまどの)?-1579
- 津田盛月(つだ もりつき)1534-1593
- 土橋胤継(春継)(つちはし たねつぐ(はるつぐ))?-1582
- 土橋春継(つちはし はるつぐ)?-?
- 土御門通親(つちみかど みちちか)(源通親 みなもとみちちか)1149-1202
- 筒井氏(つついうじ)
- 筒井定次(つつい さだつぐ)1562-1615
- 筒井順慶(つつい じゅんけい)1549-1584
- 坪内利定(つぼうちとしさだ)1538-1609
- て
- 天瑞院(てんずいいん)1513-1592
- と
- 土肥実平(どい さねひら)?-?
- 藤堂高虎(とうどう たかとら)1556-1630
- 藤堂高吉(とうどう たかよし)1579-1670
- 常盤御前(ときわごぜん)?-?
- 徳川家康(とくがわいえやす)1542-1616
- 徳川氏(とくがわうじ)
- 徳川秀忠(とくがわ ひでただ)1579-1632
- 督姫(良正院)(とくひめ(りょうしょういん))1975-1615
- 戸田宗光(とだむねみつ)?-1499
- 鳥羽天皇(とばてんのう)1103-1156
- 富田一白(とみた いっぱく)?-1599
- 鳥居忠吉(とりい ただよし)?-1572
た
太原雪斎(たいげん せっさい)1496‐1555
戦国時代の僧。明応5年生まれ。臨済宗。
京都妙心寺の大休宗休の法をつぎ、天文5年駿河で臨済寺をひらき住持となり、宗休を開山にまねく。19年妙心寺住持。清見寺。善徳寺住持もつとめた。
今川義元を補佐して三河侵攻や今川、武田、北条の同盟などに活躍した。
弘治元年閏10月10日死去。60歳。駿河出身。俗姓は庵原(いはら)。諡号(しごう)は宝珠護国禅師。
平敦盛(たいら の あつもり)1169-1184
経盛の子。一ノ谷の戦いで逃げ遅れた平敦盛は、源氏の熊谷直実に取り押さえられ、討たれます。
16歳または17歳といわれ、笛の名手で祖父忠盛が鳥羽院より賜った名笛小枝を携えていたという。
敦盛を討った直実は、人生の無常を感じ出家する。
平清盛(たいら の きよもり)1118-1181
保元、平治の乱で勝利し平氏に対抗できる勢力はいなくなり、1167年太政大臣となるがやがて辞任し、翌年病のため出家した。
出家後は摂津福原(神戸市)に住み、京都の政治は子の重盛・宗盛が主導したが、清盛はなお強力な発言力を持っていた。
清盛と後白河上皇の関係は親密で、清盛妻・時子の妹滋子(建春門院)が母の高倉天皇(上皇の皇子)の即位を両者協議の上決めた。
しかしこのころから、後白河が平氏の台頭を押さえようとしたこと、平氏が院近臣からから独立しようとしたことこら後白河と清盛の間に対立が生じ始める。
1177年法皇の近臣が鹿ヶ谷で平氏打倒の諜議をしたことが発覚し、両者の関係は更に悪化します。
1179年(治承3年)清盛は武力を行使して法皇を鳥羽院に幽閉し、院政を停止します。
翌年、高倉天皇は徳子(清盛娘)との間に生まれた安徳天皇に譲位し、上皇として名目だけの院政を行ったが、実権は清盛が握っていた。
後白河の皇子で、高倉天皇の即位に不満を持っていた以仁王が挙兵し、源頼朝が挙兵するなど全国的な内乱に広がっていった。
清盛は京都を高倉上皇、安徳天皇を伴い福原に移り遷都を目指すが、内乱に対処する必要性から半年で京にもどっている。
平氏への変更が強まる中、清盛は死去します。
平維盛(たいら の これもり)1156-1184?
清盛長男・重盛の長男。平氏の嫡流。
1180年源頼朝追討の総大将として富士川に退陣したが敗走し、清盛の怒りを買う。
翌年の尾張墨俣川の戦いでは源頼家の軍を破り、その功により右中将、蔵人頭、縦三位に昇進し、小松三位中将と呼ばれた。
1183年木曽(源)義仲追討のために北陸に向かったが、義仲の奇襲を受けて大敗、平家一門ともに都落ちした。しかし、讃岐(香川県)の屋島から脱出して高野山に入り、剃髪して浄円(じょうえん)と号し、1184年3月那智の海に入水したという。
平滋子(たいら の しげこ)1142-1176
後白河天皇の后。高倉天皇の生母。院号は建春門院。清盛妻・時子の妹。
初め、後白河天皇の妹・上西門院に仕えたが天皇の目にとまり、1161年憲仁親王(高倉天皇)を生む。後白河の寵愛が深かった滋子の存在は、義理兄・清盛の昇進を助け、平氏政権樹立に重要な役割を果たした。
平重衡(たいら の しげひら)1157~1185
清盛の五男。治承四年(一一八〇)源頼政を宇治川に破り、また東大寺、興福寺を攻めてこれを焼き払った。のち、一ノ谷の戦いで敗れ、捕えられて鎌倉に送られたが、東大寺、興福寺衆徒の要求で奈良に連行され、木津川で斬られた
平重盛(たいら の しげもり)1138-1179
清盛の嫡男。
保元の乱では源為朝と戦って名をあげ五位に叙され、平治の乱では源義朝のいる大内裏を攻めて戦功をあげて伊予守に任じられる。
その後は後白河上皇の近臣となり、1167年には権大納言に出世するとともに、東国・西国の山賊・海賊追討を命じられた。これは諸国の軍事権を平氏が手中にしたことを意味するもので、重盛は平氏の家督と院近臣の立場にあって政界に重きをなした。
1177年内大臣に任じられたのちは、身の病弱と妻が鹿ヶ谷事件の首謀者である藤原成親に妹であったことから、目立った活動は見られずに亡くなった。
平忠清(たいら の ただきよ)?-1185
伊勢を本拠とする平氏家人の家に生まれ、保元の乱に参戦。
治承3年の政変後は、縦五位下上総介に任じられた。また、坂東8ヵ国の奉行をしたとされる。
源頼朝挙兵の際は大庭景親に指示を出し、富士川の戦いには副将として参戦し平維盛に退却を勧めた。
平清盛の死後は出家、平氏に都落ちには加わらず、1184年の平田家継らの蜂起に参加したが、志摩で捕らえられ京で斬首された。一族とともに平氏軍の中核を占めた家人。
平忠盛(たいら の ただもり)1096-1153
平正盛の長男。清盛の父。白河・鳥羽両院政のもとで軍事力の中心となって活躍。
越前、伊勢、河内、備前、美作、播磨、但馬などの国守を歴任する間に、西国地方の武士と主従関係を形成して勢力を拡大、経済力を築いた。平氏繁栄の基礎を着実に築き上げた。
平時子(たいら の ときこ)1126-1185
平清盛の妻。宗盛、知盛、重衡、徳子(建礼門院)らを出産。清盛とともに出家。
1171年娘・徳子が高倉天皇に入内したため縦二位に叙され、二位尼と呼ばれる。
1178年徳子が皇子(安徳天皇)を出産、宗盛が平氏を継ぎ、平氏一門の主流となる。しかし、1185年壇の浦で平家一門が滅亡したときは、敗戦を知ると率先して入水して果てた。
平時忠(たいら の ときただ)1127-1189
平安時代後期の公卿。
大治(だいじ)2年生まれ。平時信の子。姉時子は平清盛の正妻、妹建春門院は後白河天皇の女御(にょうご)。正二位、権(ごんの)大納言にのぼって権勢をふるい平関白と称された。壇ノ浦の戦いいで捕らえられたが、源義経を娘婿として保身をはかる。のち、源頼朝により能登(石川県)に流された。文治(ぶんじ)5年2月24日死去。63歳。
平知盛(たいら の とももり)1152~1185
清盛の四男。権中納言。
源頼政を宇治で、源行家を播磨
室山で破った。一の谷の戦いで奮戦し、のち、壇ノ浦の戦いで入水。
謡曲・浄瑠璃などに脚色される。
平宗盛(たいら の むねもり)1147-1185
平清盛の3男で、重盛の死後は平氏に長者としてその中心に位置します。
以仁王の反乱、源氏の東国での反乱がおきると清盛を説得して都を福原から戻し、畿内の軍事組織である惣官職を設置して惣官となります。
清盛の死後は後白河の復活を認めつつ反乱軍に対応したが、折からの飢饉に悩まされ兵糧米の調達もままならない中、具体的な政治方針を示すことはなかった。
北陸に送った木曽(源)義仲追討軍が敗れ、安徳天皇とともに西国に落ちた。その後一時勢力を盛り返すが一ノ谷の戦い、讃岐の屋島、長門の壇ノ浦と次々に敗れ身を海に投じる。しかし、捕らえられ鎌倉に送還されたのち、京に送り返される途中で斬首されてた。
平基盛(たいら の もともり)1139-1162
平清盛の次男。母は高階基章の娘。
保元元年検非違使となり、京都の治安維持にあたる。保元の乱では源親治(ちかはる)を捕らえる。大和守、淡路守などを歴任したが、応保2年3月17日宇治川で水死した。24歳。
平頼盛(たいら の よりもり)1131~1186
忠盛の第五子。清盛の異母弟。正二位権代納言。
その居を池殿といい、池の大納言と称した。母池禅尼が頼朝の命を救けた功により、平氏滅亡後も所領を安堵された。
高倉天皇(たかくらてんのう)1161-1181
後白河天皇と建春門院滋子の皇子。1168年即位。父の院政のもとで成長する。
1172年平清盛娘・徳子を中宮とし、1178年生後間もない皇子(のちの安徳天皇)を皇太子とします。
1180年譲位し、福原遷都にも同行しますが、将来の病弱に加えて父・後白河法皇と義父・清盛の対立が重なり、翌年死去します
高山右近(たかやま うこん)1552-1615
高山友照の嫡男に生まれ、永禄7年(1564年)に受洗し,洗礼名をジュスト(あるいはユスト)Justoとした。
天正元年(1573年)、高槻城主となり、天正4年(1576年)の京都の南蛮寺建造に尽力する。
荒木村重の臣として織田信長に抗したが、イエズス会宣教師グネッキ=ソルディ・オルガンチノの勧めで降伏し、信長の部将となった。
本能寺の変後は豊臣秀吉に協力、山崎の戦いで功を立て明石に封じられた。天正15年(1587年)のバテレン追放令のとき、信仰を理由に除封、追放された。
その後、前田利家に招かれ 3万石を与えられた。前田家のもとで、秀吉による小田原城の北条氏攻めや、関ケ原の戦いに加わり、金沢城や高岡城の築城にも携わった。
慶長19年(1614年)、江戸幕府の禁教令に触れて国外追放となり、マニラに流され、到着後ほどなく没した。
生前、千利休に師事し、茶人南坊(みなみのぼう)、等伯(とうはく)としても名高い。
2016年1月21日、バチカンの教皇庁より福者に認定された。
滝川一益(たきがわ かずます)1525-1586
織田信長の臣として伊勢の長島城主。次いで関東管領として上野000の厩橋
城主。小牧・長久手の戦いで徳川家康に敗れて出家した。
武田氏(たけだうじ)
本姓は清和源氏であり,新羅三郎義光の子・義清が甲斐国巨摩郡武田荘へ荘官として赴任したところから武田姓を名のる。
義清の孫・信義は治承・寿永の乱で,源頼朝方として戦功をたて,鎌倉幕府成立後には,甲斐の有力御家人となり,守護職に任ぜられた。一族の逸見,加賀美,安田氏も栄えたが,甲斐源氏の勢力を恐れた頼朝によって,武田信義の長男・一条忠頼と弟・安田義定は謀殺された。嫡系は忠頼の弟石和信光がつぎ,以後その子孫が一族を分出させながら守護職を世襲し,あわせて,甲斐国内の諸荘園の地頭職をも獲得していった。
信光は承久の乱(承久3年(1221年))で東山道の大将軍として活躍するが,その子信政以後の数代は目だった動きがみられず,鎌倉末期には弱体化していた。ところが信武が南北朝の内乱期に北朝方として活躍し,安芸国守護職をも兼ねることとなり,甲斐国内でも実権を回復して,以後信満までは名実ともに守護大名として君臨した。しかし応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱で,信満は禅秀方に荷担し,その結果,鎌倉公方足利持氏に甲斐へ攻め込まれ,自害している。以後,守護不在の時期がつづき,信元,信重,信守と,いずれも国内の反対勢力に圧迫されて,その守護職は危機に瀕した。
信昌になってようやく国内の有力国人や在地領主を押さえて守護権を回復した。ところが明応7年(1498年)になると,その子信縄と信恵が家督の座をめぐって対立し,再び国内は動乱期に入った。近接する北条早雲や今川氏親らも甲斐国内へ攻め入り,武田氏は内憂外患の状況となった。
信虎は,まず対立する叔父信恵を屈伏させ,ついで国内の有力国人をつぎつぎと制圧していった。天文1年(1532年)ころまでにほぼ国内を統一し,やがて信濃への侵略を開始する。
天文10年(1541年)信虎は長男・晴信(武田信玄)に駿河へ追われ,以後この信玄によって武田氏は中部地方最大の戦国大名となった。領国が最大規模に達したのは,信玄の没した天正1年(1573年)ころであり,その支配は,甲斐,信濃,駿河,西上野と,飛驒,遠江、三河,美濃の一部に及んだ。
ところが信玄の死没後は,その子・勝頼が家督を相続したが,勝頼はこの領国規模を維持できず,まず天正3年(1575年)に,三河長篠で徳川家康、織田信長の連合軍に大敗し(長篠の戦),その後は徐々に他国での領国を失い,最後は甲斐1国を維持するのみとなった。天正10年(1582年),織田信長は武田氏討伐の兵を起こし,勝頼は一族の穴山氏や木曾氏の謀反や,重臣の小山田などの反逆にあって,わずか1ヵ月くらいの戦いで,名族武田氏は滅亡してしまった。
武田信玄(たけだ しんげん)1521-1573
戦国大名。名は晴信。幼名勝千代。号は徳栄軒。甲斐守護信虎の子。
1541年父を追放し自立。信濃の諏訪氏・小笠原氏を倒し,上杉謙信と数度にわたる川中島の戦で激突。さらに駿河に進出。西上を志し、1572年遠江三方原で徳川家康に大勝したが,陣中で病死。
甲州法度之次第を制定。治水、鉱山の開発など民政上の施策にもすぐれていた。
武田勝頼(たけだ かつより)1546-1582
父(信玄)の死後甲斐にはいって領国を継ぎ、美濃・三河・遠江と進出したが、長篠の戦いに大敗。以後信長、家康の勢力ににおされ、ついに信長に攻められて、天目山のふもとで自刃した
武田信光(たけだ のぶみつ)1162-1248
甲斐源氏信義の子。1180年一族とともに挙兵、駿河国(静岡県)に出陣し平氏方を破ります。
その後頼朝の傘下に入り、平家追討、奥州合戦にも参加する。阿野全成の逮捕や和田合戦などで活躍。
承久の乱の際にも東山道の大将軍として上洛した。
なお、兄一条忠頼が頼朝に誅殺されたため武田家の家督は信光が継ぎました。
武田信義(たけだ のぶよし)1128-1186
甲斐源氏源清光の子。1180年以仁王の令旨に応えて挙兵。
信濃国の平家余党を制圧したのち、源頼朝の要請に応じて駿河国に進出。
富士川の戦いでは夜襲をかけて平氏を敗走させ、頼朝より駿河国の守護に任じられた。しかし、甲斐源氏の台頭を警戒する頼朝は、1181年信義に叛意の有無を糾問。1184年には嫡子一条忠頼を誅殺した。このとき、信義も頼朝の怒りに触れ失意のうちに一生を終えます。



武田義信(たけだ よしのぶ)1538-1567
戦国時代の武将。
天文7年生まれ。武田信玄の長男。世継ぎとなるが父信玄と不和となり、謀反の嫌疑をかけられて投獄され、永禄10年10月19日自刃した。30歳。
竹中重治(たけなか しげはる)1544-1579
通称半兵衛。豊臣秀吉の軍師として有名。美濃国出身で永禄7年(1564年)斎藤龍興の稲葉山城を一時占拠、1567年織田信長の美濃進出以後これに仕えた。その後秀吉に属し,天正5年(1577年)以後は中国経略に従事、播磨国三木城包囲の陣中で病死。78年信長が黒田孝高(官兵衛)の離反を疑い、その子の殺害を命じたとき、これをひそかにかくまった逸話がある。
多田行綱(ただ ゆきつな)?-?
摂津源氏頼盛の子。1177年鹿ヶ谷事件で諜議に加わるが、やがて平清盛に内通。
その後も木曽(源)義仲、源義経に従うが、1185年源頼朝と対立して都落ちする義経一行を裏切り、襲撃するという変わり身の早さを見せた。
伊達政宗(だてまさむね)1567〜1636
初代仙台藩主。
18歳で家督を継いで陸奥(福島県)伊勢郡を領有し,二本松の畠山氏を討った。佐竹・結城氏らの強力な連合軍の侵入を撃退し,1589年蘆名氏を滅ぼし会津を領有した。
’90年豊臣秀吉が小田原後北条氏を攻めると、対抗を決意したが、小田原陣中で秀吉に服属。
関ケ原の戦い(1600)では東軍に属し上杉景勝を攻め、功により62万石を与えられた。
’13年には支倉 (はせくら) 常長をローマに派遣し,また和歌・茶道にも長じた。
ち
筑(竹)阿弥(ちくあみ)?-?
戦国時代の人物。通説では豊臣秀吉(藤吉郎)の生母仲(大政所)の再婚相手(秀吉の継父)で、小一郎(豊臣秀長)と旭(駿河御前(徳川家康正室))の実父とされている。
ただし通説には矛盾点が多く、木下弥右衛門と同一人物ともされ、現代でもその説を支持する歴史学者もいます。
千葉常胤(ちば つねたね)1118-1201
1135年父から上総国相馬御厨を相続したが支配が安定せず、支配を安定させるために保元の乱は源義朝に属したと見られる。しかし、平治の乱で義朝が滅亡すると相馬御厨は常陸の佐竹氏の所領となり、さらに自身の所領も平氏によって圧迫された。
源頼朝が挙兵すると、積極的にこれに応じ、木曽(源)義仲、平家追討には一族で源範頼の軍に属し、壇ノ浦合戦後も鎮西守護人として九州にとどまり、戦後処理にあたった。
1187年8月、上洛して京中の狼藉を鎮め、奥州藤原氏追討の際は東海道大将軍として出陣。
これらの武功によって日本各地に所領を獲得し、下総守護に補任された。
頼朝の信任はきわめて厚く、御家人の筆頭として奥州合戦では勲功の賞を最前に拝領した。
また、年頭の椀飯沙汰(祝儀の品を添えて椀飯を献ずる儀礼)も常胤が最初に努めるのが恒例であった。
1135年父から上総国相馬御厨を相続したが支配が安定せず、支配を安定させるために保元の乱は源義朝に属したと見られる。しかし、平治の乱で義朝が滅亡すると相馬御厨は常陸の佐竹氏の所領となり、さらに自身の所領も平氏によって圧迫された。
源頼朝が挙兵すると、積極的にこれに応じ、木曽(源)義仲、平家追討には一族で源範頼の軍に属し、壇ノ浦合戦後も鎮西守護人として九州にとどまり、戦後処理にあたった。
1187年8月、上洛して京中の狼藉を鎮め、奥州藤原氏追討の際は東海道大将軍として出陣。
これらの武功によって日本各地に所領を獲得し、下総守護に補任された。
頼朝の信任はきわめて厚く、御家人の筆頭として奥州合戦では勲功の賞を最前に拝領した。
また、年頭の椀飯沙汰(祝儀の品を添えて椀飯を献ずる儀礼)も常胤が最初に努めるのが恒例であった。
長宗我部氏(ちょうそがべうじ)
「ちょうそかべ」ともよみ、「長曽我部」とも書くが、「長宗我部」が有力。土佐(高知県)の豪族で戦国大名。
祖先は伝承に覆われており、秦(はた)氏とか蘇我(そが)氏の部民とか伝えるが、秦氏説が定着。平安後期~鎌倉前期ごろ秦能俊(よしとし)が信濃(しなの)より土佐国長岡郡宗部郷(そがべごう)(高知県南国市)に移り、子孫は地名をとって長宗我部氏を名のり岡豊城(おこうじょう)を本拠とした。
7代兼光(かねみつ)のころ広井、中島、野田、大黒らの庶流を派生し、11代信能(のぶよし)は足利尊氏に属して活躍。1345年(興国6・貞和1)ごろ子兼能(かねよし)は吸江庵(ぎゅうこうあん)(高知市五台山)の寺奉行となり、代々この任を受け継いだ。
守護代細川氏の入国後はその下で北朝方として行動した。17代元門(もとかど)は父文兼(ふみかね)の命に背いて内訌(ないこう)が起こり、弟の雄親(かつちか)が18代の家督を継いだ。1508年(永正5)ごろ19代兼序(かねつぐ)は本山(もとやま)、山田、吉良(きら)、大平ら周辺の豪族に攻められて敗死し、子国親(くにちか)は幡多庄(はたのしょう)中村で一条房家(いちじょうふさいえ)に養育された。1518年岡豊城に帰り家を再興したが、1560年(永禄3)宿敵の本山氏と対戦中に死んだ。
その子元親は土佐を統一し、四国を平定したが、1585年(天正13)夏豊臣秀吉に降伏し、土佐一国を安堵された。その子盛親は関ヶ原の敗戦で国を追われ、大坂の陣で豊臣方に属して戦ったが捕らわれて斬られた。
長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)1539-1599
土佐を平定し、阿波・讚岐・伊予を攻め四国全土を制覇した。秀吉に伊・讚二国の献上を拒否して戦い、降伏。土佐の領有を許される。九州平定、文祿・慶長の役に出兵。「長宗我部元親百箇条」は、戦国大名分国法として有名。
つ
津川義冬(雄光)?-1584
最初は織田信長に仕えたが、器量を見込まれて信長の次男・信雄の家老に任じられた。妻は北畠具教の娘で、信雄の妻の姉にあたる。
天正10年(1582年)、本能寺の変後、松ヶ島城を預けられ、南方の奉行とされる。同年1月13日、大坂での津田宗及の茶会に出席している。
信雄が羽柴秀吉と対立するようになると、秀吉は義冬・岡田重孝・浅井長時ら信雄の有力家臣が羽柴秀吉に寝返ったという流言を流し、この情報を信じた信雄によって長島城にて土方雄久にてにより3人共殺害された。秀吉は義冬らの殺害を契機に小牧・長久手の戦いで信雄と干戈を交えることとなる。
築山殿(つきやまどの)?-1579
徳川家康の正室。今川義元の重臣関口氏純の娘。母は義元の妹で,義元の姪に当たるといわれる。
駿府の今川家に人質としてとどめられていた家康(当時松平元康)と結婚。長男信康、長女亀姫(加納御前)を儲ける。
義元の戦死後、家康が本領の岡崎に戻ったため、築山殿母子は一時今川氏の人質状態に置かれた。このことが家康との不和の原因になったとされる。家康が浜松へ移居したのちも、信康の後見と称し、岡崎城にとどまった。信康の妻徳姫(織田信長の娘)とも不仲で、築山殿と信康は、信長から武田勝頼と内通しているとの嫌疑をかけられ、信康は謹慎させられる。
築山殿は家康の許へ弁明に赴く途中、遠江国富塚で家臣によって殺害された。墓所は西来院(浜松市)。
津田盛月(つだ もりつき)1534-1593
当初は織田信長に仕えるが、後に羽柴秀吉に召されて姫路に至る。秀吉の許にいるのが信長に露見し、切腹させられるところであったが、本能寺の変によって命拾いしたという。
天正12年(1585年)の小牧・長久手の戦いに秀吉側で参加。豊臣秀長が松ヶ島城を奪取した後、富田一白と共に同城の守備を任された。
また、秀吉の長久手の戦いでの敗北後、秀吉は砦を4つ作るなど、盛月と一白に木造長政が守る戸木城の攻略方法を指示した。
これらの功績により従五位下、隼人正に叙任され、津田姓に改める。戦後、家康と秀吉妹・朝日姫との縁談をまとめたのは、蜂須賀正勝と盛月の功績によるという。
天正15年(1587年)の九州平定にも参加し、秀吉から所領を与えられて3万5千石の大名となった。
天正17年(1589年)7月に真田氏の領土だった沼田城を小田原北条氏に引き渡す際、富田一白、榊原康政と共に立ち合いを行った。10月、北条氏の北条氏邦の家臣・猪俣邦憲による名胡桃城奪取事件が起きた際、富田一白と共に関係者の引き渡し・処罰を求める上使として北条氏に派遣された。この件を北条氏が拒否し、一旦は融和しつつあった秀吉と後北条氏の関係が完全に決裂し、北条氏追討(小田原攻め)へと繋がった。
北条氏直は高野山にて蟄居処分となったが、蟄居中の氏直が秀吉へ赦免を誓願する際にはやはり、富田一白と盛月を通して行っている。
文禄2年(1593年)に伏見にて死去した。享年58。跡を長男の信任が継いだ。
土橋胤継(春継)(つちはし たねつぐ(はるつぐ))?-1582
元亀元年(1570年)に始まる石山合戦では、鈴木重秀と共に本願寺に味方し、織田信長と敵対した。天正5年(1577年)に信長により雑賀が攻められた際には、鈴木重秀ら6人と連名で降伏を申し出て赦免された。
天正8年(1580年)、本願寺門主・顕如が織田信長と和睦すると、顕如の子・教如はそれに反対した。こうした中で同年6月、胤継は子の春継と連名で、顕如に馳走する旨を記した起請文を、佐久間信盛や松井有閑らに宛てて提出している。
天正10年(1582年)1月23日、胤継は鈴木重秀により殺害された。この直後、重秀を支持する織田軍により土橋氏の本拠である粟村城が攻められ、胤継の子の春継や平次は城から脱出したが、和泉職坊は討ち取られています。
土橋春継(つちはし はるつぐ)?-?
石山合戦では、本願寺に籠り織田信長に抵抗した。天正7年(1579年)9月には播磨国に派遣され、織田軍に包囲される三木城へと兵糧を運び入れる。天正8年(1580年)閏3月に本願寺が開城すると、信長に降り、同年6月、父・胤継と連署した起請文を佐久間信盛や松井有閑らに宛てて差し出している。
天正10年(1582年)1月23日、信長の了解を得た鈴木重秀により父・胤継が殺害される。これを受け、弟らとともに粟村(和歌山市粟)の居城に籠り鈴木重秀や織田信長の軍に抗戦したが敗れ、弟・平次とともに城を抜け出した。この際、舟で土佐に逃れたとも、紀南に落ち延びたともいう。同じく城を脱出しようとした泉職坊は討ち取られ、城に残った末弟は鷺ノ森(和歌山市)にいた顕如の仲介により助命された。
本能寺の変が起きるとその直後には雑賀に戻って明智光秀と連絡を取っており、高野・根来と相談し河内・和泉方面に出兵することを求められている。
その後、羽柴秀吉に家臣として招かれたが、仇敵の重秀も招かれていたために断ったという。
天正13年(1585年)3月、秀吉の雑賀攻め(紀州征伐)では秀吉に抵抗したが、粟村の居館を落とされ敗北。舟で土佐へと逃れた。
その後、北条氏政に仕え、小田原征伐で北条家が滅亡した後、毛利家に仕えたとされる。
土御門通親(つちみかど みちちか)(源通親 みなもとみちちか)1149-1202
村上源氏雅通の長男。
高倉天皇近臣となったが、平氏が都落ちした後は後鳥羽天皇の乳母・高倉範子を室に迎えるなどして後白河の近臣に加わった。
通親の朝務に対する手腕は政的九条兼隆にも讃えられるほどで、頼朝の娘・大姫の入内工作を依頼されるなど関東の信任も得た。
法皇の死後も、丹後局と結託して勢力の温存に努め、1195年範子の連れ子・在子に後鳥羽天皇の第一皇子仁が誕生するやその養育にあたり、翌年宿敵・親幕派の兼実一等を廟堂から追放した。
頼朝の死を契機に、京都の親幕勢力を一掃した。
筒井氏(つついうじ)
大和国添下郡筒井を本拠とした南北朝~安土桃山時代の武家。
興福寺一乗院門跡の坊人として仕える一方,宗徒の棟梁的地位たる官符衆徒の一員として大和において勢力を占めた。その発祥は諸説あるがつまびらかでない。南北朝期より,中央政界の動きと連動しながら大和の中小武士団をその勢力下に糾合しはじめる。
永享年間(1429-41)の大和国内の長期にわたる戦乱を経て,十市氏・越智氏らと並ぶ屈指の有力武士として成長。
1559年(永禄2年)に松永久秀が大和に進出するや,筒井順慶は大和の在地勢力の先頭に立ってこれと戦う。その後織田信長に仕えて大和の管領権を認められ,郡山に築城し,ここに移った。
1585年(天正13年)順慶の猶子・定次は豊臣秀吉の命によって伊賀上野に移ったが,のち徳川家康によって大坂冬の陣での豊臣方との内通を疑われ改易。大和に残った一族の定慶も,同夏の陣に際して豊臣方と戦って敗死し断絶した。
筒井定次(つつい さだつぐ)1562-1615
永禄5年(1562年)生まれ。従兄筒井順慶の養子となり、天正12年その遺領をつぎ大和(奈良県)郡山城主。翌年伊賀(三重県)上野にうつり20万石の領主となる。文禄(1592年)元年長崎でバリヤーノから受洗。関ケ原の戦いでは徳川家康にしたがい所領を安堵されるが、慶長13年(1603年)改易され、さらに豊臣方に通じていた疑いで死を命じられ、慶長20年3月5日自害した。54歳。
筒井順慶(つつい じゅんけい)1549-1584
興福寺衆徒で大和国(奈良県)の筒井城主。
永祿二年(1559年)東大寺大仏殿を焼いて攻めこんだ松永久秀に筒井城を追われ、久秀の失脚後、織田信長の下で大和を管領。
信長没後、山崎の戦で洞ケ峠に陣し、天下の形勢を見きわめて、豊臣秀吉の勝利直後に追従したといわれ、世に「洞ケ峠の故事」の潤色で名高い。
坪内利定(つぼうちとしさだ)1538-1609
美濃松倉城主。織田信長につかえ、美濃攻略の先鋒をつとめる。のち徳川家康のもとで関ケ原の戦いに功をたて、美濃羽栗・各務(かがみ)郡で6500石をあたえられ、旗本となった。
て
天瑞院(てんずいいん)1513-1592
豊臣秀吉の生母。名は、なか(仲)。尾張国愛知郡の生まれという。
木下弥右衛門(姓については疑問も)と結婚し、とも(智。三好吉房(みよしよしふさ)室)、秀吉を生む。
弥右衛門没後、織田家同朋衆(どうぼうしゅう)筑(竹)阿弥(ちくあみ)と再婚し、秀長、旭(朝日)姫(徳川家康室)を生む(父子関係には異論も)。秀吉とともに長浜城などに移り住み、大坂城築城後は城内に住む。
1585年(天正13)秀吉の関白就任によって、大紋所(おおまんどころ)と称せられる。尾張長久手(ながくて)での秀吉の敗戦、講和後、家康の上洛を促すため、1586年人質として岡崎に行く。よって家康は上洛し、大坂城で秀吉への臣従の礼をとった。
朝鮮出兵の時期に重病となり、1592年(文禄1)肥前名護屋にまで至った秀吉は、渡海を止まる。7月、京都聚楽第で没。准三后(じゅさんごう)が追贈された。
と
土肥実平(どい さねひら)?-?
相模国足下(あしのしも)軍土肥郷(神奈川県湯河原町、真鶴町)を本拠とした。
源頼朝の挙兵に参加、石橋山の敗戦後頼朝を真鶴岬から逃し再起の元をつくった。
頼朝に重用され、佐竹氏、木曽(源)義仲、平氏追討の参戦。備前、備中、備後国の惣追捕使に任じられる。
平氏が滅ぶと、平宗盛らを京に護送、源義経没落後の洛中警備の任にもあたった
藤堂高虎(とうどう たかとら)1556-1630
父虎高は、近江国(滋賀県)の郷士三井氏の次男で、犬上郡藤堂村の藤堂氏を継いだ。
高虎は初め与吉と称し、浅井氏に属して15歳の時、姉川の戦いで磯野員昌隊に属して初陣。
その後の宇佐山城攻めでも活躍し、浅井長政から感状と脇差しを受ける。
しかし元亀3年(1572年)同僚の山下某を勲功を巡る争論の末、切り捨てて逃走。
その後、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄に仕えるが同僚の殺害や加増を巡る揉め事で長続きはしなかった。
天正4年(1576年)木下秀長に300石を給され、与右衛門となる。容貌偉大で身長6尺3寸(約190センチメートル)といわれた。
やがて豊臣秀吉に認められ、天正13年(1585年)紀州一揆鎮圧の功で1万石になり、87年島津征圧の功で2万石に上昇して紀州粉川(和歌山県紀の川市粉河)の主となった。
北条征圧、文禄の役に参戦し、帰国して高野山に出家したが秀吉に下山を命じられ、伊予宇和島7万石の藩主になった。慶長の役にも出陣した。
関ケ原の戦いでは徳川家康に味方して今治(いまばり)城主20万石、従四位下、和泉守となった。1608年(慶長13)伊賀全国と伊勢国安濃・一志郡に20万石余を与えられ、安濃津(津市南部)に入城、15年(元和1)、17年伊勢国内で各5万石を増封され(のち5万石を山城・大和国の一部と交換)、伊予国越智郡内の2万石とあわせ計32万3951石の外様大名となった。
居城を津に置いて領地を支配したが、伊賀上野にも城を築いて有事に備えた。
藤堂高吉(とうどう たかよし)1579-1670
天正7年(1579年)6月1日生まれ。丹羽長秀の3男。
はじめ羽柴秀長、ついで藤堂高虎の養子となる。
関ケ原の戦いで功をたて、伊予今治万石を領した。のち高虎に実子・高次が生まれ跡をついだため、家老職として伊賀名張にうつる。藤堂宮内家の祖。寛文10年7月18日死去。92歳。
常盤御前(ときわごぜん)?-?
近衛天皇の中宮九条院の雑仕
であったが、源義朝の妾となり、 阿野全成 (今若)、 義円 (乙若)、 源義経 (牛若)を生んだ。
義朝の死後、母と子の放免を条件に平清盛の妾となり、のち、藤原長成に嫁したと伝えられる。
徳川家康(とくがわいえやす)1542-1616
江戸幕府の初代将軍(在職1603〜05)。三河(愛知県)岡崎城主松平広忠の長男。
幼時から隣国の織田・今川氏の人質として育ち,1560年今川義元が桶狭間で敗死後,岡崎に帰り独立。西上する織田信長と同盟を結び東へ進出。
信長の死後その子信雄を助け,小牧・長久手の戦い(’84)で豊臣秀吉と戦ったが和して臣従した。’90年小田原征討の後関東6カ国を与えられ江戸城に移った。
秀吉の死後,1600年関ケ原の戦いに勝って覇権を確立。’03年征夷大将軍となり江戸幕府を開いた。’05年将軍職を子秀忠に譲ったのちも駿府で大御所として政務をみ,周到な配慮で幕府の基礎を固めた。’15年大坂の役で豊臣氏を攻め滅ぼした。’16年太政大臣任官の後,駿府で病没。
【格言など】人の一生は,重き荷を負うて遠き道をゆくがごとし。いそぐべからず(遺訓)

徳川氏(とくがわうじ)
中・近世の武家。三河・常陸・因幡国の徳川氏があるが,江戸幕府の征夷大将軍家となった三河徳川氏が著名。
三河徳川氏は清和源氏新田義重の子四郎義季にはじまるという。義季は上野国新田郡世良田郷徳河(現群馬県太田市,旧尾島町)を分与され,徳川(また得川)を称した。6代政義は新田義貞に従って本領をはなれ,親季・有親と諸国を流浪,親氏が三河国加茂郡松平郷(現,愛知県豊田市松平町)の松平信重の婿になり,松平氏を継いだ。松平7代清康が一時世良田を称したこともあるが,8代広忠までは松平氏であった。
三河一国をほぼ統一した家康は,永禄9年(1566年)に勅許をえて徳川に復姓したという。これらは近世の史書が一致して記すところであるが,すべてを真とはできない。鎌倉初期に徳川三郎義秀が《吾妻鏡》に散見するが,義季との関係は不明で同一人説もある。また松平郷の近世の伝承は,親氏は諸国流浪の氏姓定かではない旅人といい,家康は天正14年(1586年)に〈三位中将藤原家康〉と署名している(浜松市鴨江寺文書)。関ヶ原の戦に勝利をおさめた家康は,慶長8年(1603年)征夷大将軍に任じられて江戸に幕府を開き,以後徳川氏は265年間将軍職を世襲した。
江戸時代分家は三家、家門、三卿、庶流に分類された。家康の9子義直を初代とする尾張家,10子頼宣を初代とする紀伊家,11子頼房を初代とする水戸家が三家として宗家継承権を有したが,のち8代将軍吉宗の子宗武・宗尹と9代家重の子重好を各々初代とする田安・一橋・清水の三卿もこれに加えられ,その嫡流が本家とともに徳川を称した。
家門は家康の次男結城秀康を初代とする越前松平家と秀忠の子保科正之(のち松平を称す)の会津家,庶流は以上の子弟のうち大名となったものをいい,近世までの分家とともに松平を称した。
慶応3年(1867年)15代将軍慶喜が大政奉還を行って幕府は崩壊し,隠居した慶喜にかわって田安家から家達が入って静岡70万石を領した。
1884年の華族令により本家は公爵,旧三家は侯爵,旧三卿は伯爵とされた。なお常陸徳川氏は同じく新田義季の子孫と伝え,近世秋田藩主佐竹家に仕えて徳川を称し続けた。
徳川秀忠(とくがわ ひでただ)1579-1632
江戸幕府2代将軍。徳川家康の三男。母は於愛の方(西郷氏)。幼名長松(長丸とも),竹千代。法号台徳院。
1590年聚楽第で元服,主として江戸城にあって,家康の留守を支えた。
関ケ原の戦いでは信州上田城の真田昌幸に遮られてまにあわず,家康の叱責を受けた。
1605年2代将軍を継ぎ,駿府の大御所家康との二元政治のもと,東国を中心とした大名の統率に当たった。家康死後は外交権などを将軍のもとに吸収,はじめて大名領知宛行状を発するなど,独自の政治を実施。一門・譜代を含む39大名を改易した大名統制,五女和子(東福門院)を後水尾天皇のもとへ入内させ二条城へ行幸した対朝廷政策,キリシタン禁制の強化と貿易の統制・管理を結合させた外交政策など,将軍権力の強化に果たした役割は大きい。
1623年家光に将軍を譲り,大御所として後見。鉄砲の名手であったと伝え,近年発掘の墓には遺愛の鉄砲が納められていた。
督姫(良正院)(とくひめ(りょうしょういん))1975-1615
徳川家康の次女。。母は家康の側室・西郡局(鵜殿氏の娘)。
天正3年11月11日生まれ。天正11年(1583年)北条氏直に嫁し,19年氏直が死去したため徳川家へもどる。
文禄3年(1594年)池田輝政に再嫁し5男2女をもうけた。
慶長20年家康と会うため滞在していた二条城で疱瘡にかかり、2月5日死去。41歳。名は富子。
戸田宗光(とだむねみつ)?-1499
戸田氏の祖。三河田原城主。もと碧海郡(へきかいぐん)上野の地侍。知多・渥美半島に進出し、大津城、田原城をきずく。さらに吉田の二連木城にうつったが、明応8年船形山の戦いで今川軍に敗れて討ち死に。
鳥羽天皇(とばてんのう)1103-1156
平安時代後期、第74代天皇。在位1107-23。
堀河天皇の第1皇子。母は藤原苡子(いし)。嘉承(かじょう)2年父の死により5歳で即位。祖父白河法皇の院政下にあり、譲位後もつづいた。大治(だいじ)4年白河法皇の没後院政をとり、崇徳(すとく)・近衛・後白河の3天皇28年におよんだ。保元(ほうげん)元年7月2日死去。54歳。
富田一白(とみた いっぱく)?-1599
若年の頃より織田信長に旗本として仕える。天正10年(1582年)、本能寺の変後は羽柴秀吉に仕えた。
天正12年(1582年)、小牧・長久手の戦いの際は伊勢神戸城(または木造城)を防衛。
戦後は秀吉の外交使節として活躍し、11月、桑名城に派遣され、織田信雄との和議の本使を務めた功績で、名馬星崎を授かった。続いて徳川家への使者ともなり、織田信雄家臣の滝川雄利を連れて浜松城を訪れ、家康の次男・於義丸(結城秀康)を秀吉養子として連れ帰った。同年、縦五位下左近将監に叙任された。
天正14年(1586年)5月、秀吉の妹の朝日姫と徳川家康との縁組が成立すると、浅野長政と共に輿入れに同行して浜松城に赴き、榊原康政と御規式の奉行を務めて、家康より杯を与えられた。帰国後、同じく秀吉より鯖尾の兜・具足一式を褒美として与えられた。
天正17年(1589年)、7月に真田氏の領土だった沼田城を小田原北条氏に引き渡す際、津田信勝(盛月)、榊原康政と共に立ち合いを行った。
10月には小田原征伐のきっかけとなった名胡桃城争奪戦における北条氏政・氏直親子への問責と上洛の催促の使者を津田信勝と共に務め、戦後は取次役となって伊達政宗との奥州仕置に関する交渉にあたった。
秀次切腹事件で浅野長政が謹慎を命じられた際には五奉行の職務を代行した。
事件への関与について施薬院全宗・石田三成と共に伊達政宗を尋問した。
この頃、秀吉の御伽衆となり、慶長3年(1598年)の秀吉の死に際しては遺物金30枚を受領した。慶長4年(1599年)に隠居して水西と号した。同年10月に死去。京都南禅寺の瑞雲庵に葬られた。信高が跡を継いだ。
鳥居忠吉(とりい ただよし)?-1572
戦国時代の武将。
長亨(1487-89)のころ三河で生まれ、松平清康、広忠、につかえる。広忠の子竹千代(徳川家康)が駿府で人質になっていたとき、今川義元今川義元指揮下の岡崎で総奉行をつとめ、家康の帰還後の活動にそなえ、ひそかに城内に物資をたくわえた。元亀3年3月25日八十余歳で死去。
