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山木兼隆(やまき かねたか)?-1180
平安末期の武士。和泉判官、山木判官と号す。検非違使、右衛門尉。平信兼の子。
治承3年(1179)父との不和により解官、伊豆に配流された。同4年伊豆国が平時忠の知行国となり平時兼が国司となるとその目代となった。
源頼朝の挙兵に当たり、兼隆は「且は国敵として且は私の意趣」のゆえに第1の攻撃目標とされた。治承4年8月17日三嶋大社の祭礼に乗じて、頼朝は要害の地であった兼隆の館攻撃。兼隆は佐々木盛綱らによって討たれた。
山口教継(やまぐちのりつぐ)?-1560?
織田信秀(信長父)に重用され、三河との国境の要地である鳴海城を任され尾張南東部の備えとなっていましたが、信秀の死後、子の信長の代になると、織田氏から離反して今川氏に寝返ります。
教継は織田方の大高城、沓掛城を調略を用い奪取しますが、その後駿河へ呼び寄せられ親子共ども切腹させられます。山口父子の殺害は信長の調略ともされる。
山内首藤経俊 (やまのうちすどう つねとし)1137-1225
保延3年生まれ。山内首藤俊通(としみち)の子。母は源頼朝の乳母摩々局(ままのつぼね)。
治承4年(1180)頼朝の挙兵の際、平氏方の大庭景親軍にくわわり石橋山に頼朝を攻めた。戦後山内荘を没収さるが、母の嘆願により命はたすけられた。のち伊勢・伊賀の守護となる。