Generated by All in One SEO v5.0.0.1, this is an llms.txt file, used by LLMs to index the site. # 歴史うぉ~く 戦国時代を中心に、人物や史跡をご紹介!! ## Sitemaps - [XML Sitemap](https://rekisi-walk.com/sitemap.xml): Contains all public & indexable URLs for this website. ## 投稿 - [徳川家康32 豊臣氏滅亡への家康の戦略とは](https://rekisi-walk.com/徳川家康 豊臣氏滅亡への家康の戦略とは/) - 大坂冬の陣 慶長十九年(1614)九月七日付けで毛利秀就(毛利輝元の嫡男)・島津家久(島津義弘の三男)・鍋島 - [「関ケ原の戦い」の関連史跡:細川忠興陣跡](https://rekisi-walk.com/「関ケ原の戦い」の関連史跡:細川忠興陣跡/) - 細川忠興は豊臣恩顧の武将でしたが、石田三成とは仲が悪く、この関ケ原の合戦では最初から東軍として参戦しました。会津征伐の際は妻・玉(ガラシャ)を失い、さらに父・細川幽斎(藤孝)が守る田辺城は西軍によって包囲されるなど、厳しい状況におかれながらも石田隊を壊滅させた細川忠興の陣跡を紹介しています。 - [「関ケ原の戦い」の関連史跡:徳川家康最後陣跡](https://rekisi-walk.com/「関ケ原の戦い」の関連史跡:徳川家康最後陣跡/) - 本陣の桃配山で戦況を見守っていた家康は、自軍の苦戦に苛立って午前11時頃に、本陣を三成本陣まで直線距離で約800mのこの地へ移します。そして松尾山の小早川秀秋に向けて威嚇の発砲をし、東軍への寝返りを仕向け、関ケ原合戦を勝利へと導いたとされています。また、合戦後は敵の首級が実検された最後陣跡を紹介しています。 - [「関ケ原の戦い」の関連史跡:田中吉政陣跡](https://rekisi-walk.com/「関ケ原の戦い」の関連史跡:田中吉政陣跡/) - 関ケ原の戦いで田中吉政が布陣したと伝わる場所は徳川家康最後陣跡の隣にあります。田中隊はここから石田隊に向かって兵を進め、笹尾山麓より討って出る兵と激突したと伝わります。また吉政は合戦後6日目に伊吹山中で石田三成を捕縛、ニラ粥を勧め三成はそれを食したといわれています。田中吉政が陣を敷いた陣跡を紹介しています。 - [「関ケ原の戦い」の関連史跡:東首塚](https://rekisi-walk.com/「関ケ原の戦い」の関連史跡:東首塚/) - 関ケ原の戦い後、徳川家康が首実検をしたのちに東西2ヶ所に埋葬したことから「東首塚」と呼ばれています。当時この地の領主であった竹中重門が、家康の命により関ケ原の戦いで戦死した兵士たちを埋葬しました。この首塚に埋められている戦死者の数は定かではありませんが、東軍の戦死者が埋葬されと伝わる東首塚を紹介しています。 - [「関ケ原の戦い」の関連史跡:松平忠吉・井伊直政陣跡](https://rekisi-walk.com/「関ケ原の戦い」の関連史跡:松平忠吉・井伊直/) - 松平忠吉は家康の四男で、関ケ原の戦いには舅の井伊直政と参戦しました。井伊直政は初陣でもある忠吉に手柄を立てさせたい一念でした。東軍先鋒は福島隊でしたが、制止を振り切り、宇喜多隊へ発砲し開戦となりました。合戦の終わり頃、島津隊を追撃し、戦果を挙げますが、2人とも傷を負います。2人が陣を敷いた跡を紹介しています。 - [「関ケ原の戦い」の関連史跡:岡山(丸山)烽火場](https://rekisi-walk.com/「関ケ原の戦い」の関連史跡:岡山(丸山)烽火/) - 慶長5年(1600年)関ケ原の戦い時には、竹中重門(岐阜城陥落時に西軍から東軍に寝返り)と黒田長政はここに(標高164mの丘陵地・岡山)陣取り、戦機を見て烽火(のろし)をあげました。山頂からは周辺を見渡せ、烽火を上げる最適な場所であったことが分かります。開戦を伝える烽火を上げた岡山(丸山)烽火場を紹介しています。 - [「関ケ原の戦い」の関連史跡:徳川家康最初陣跡(桃配山)](https://rekisi-walk.com/「関ケ原の戦い」の関連史跡:徳川家康最初陣跡/) - 徳川家康は関ケ原の戦い(慶長5年(1600)9月15日)の早朝、赤坂から桃配山に移動して中腹に陣を敷きました。ここで家康は「軍議」を開き、午前10時くらいになると陣を引き払って「徳川家康最後陣」に本陣を移し、戦闘を本格化させていきました。家康が関ケ原で最初に陣を敷いた最初陣跡を紹介しています。 - [「関ケ原の戦い」の関連史跡:山内一豊陣跡](https://rekisi-walk.com/「関ケ原の戦い」の関連史跡:山内一豊陣跡/) - 慶長5年(1600年)、家康に従い上杉景勝討伐に参加した山内一豊は、居城の掛川城を明け渡して関ケ原に参戦します。桃配山後方の中山道に陣を敷き、南宮山の毛利勢の動きを牽制しました。一豊は関ケ原の戦いでは大きな武功をあげられませんでしたが、合戦前に居城を明け渡したことで土佐の国主となった一豊の陣跡を紹介しています。 - [徳川家康21 文禄の役の経緯と家康の関係](https://rekisi-walk.com/徳川家康 文禄の役と秀吉の三国国割構想/) - 天下統一を果たした豊臣秀吉は、天正20年(1592年)3月に朝鮮半島への渡海を命じます。5月には首都の漢城(京城)、6月には平壌を陥落させますが、明の大軍派遣などにより豊臣軍は次第に苦境に立たされていきます。文禄2年(1593年)4月には講和交渉が始まりました。秀吉による文禄の役の内容と家康の関わりに触れています。 - [「桶狭間の戦い」の関連史跡巡り1 ~桶狭間古戦場公園と周辺史跡~](https://rekisi-walk.com/桶狭間古戦場公園と周辺史跡/) - 永禄3年(1560年)5月19日、織田信長は桶狭間おいて今川義元を討ち取ります(桶狭間の戦い)。正面突破だったのか、奇襲だったのか、天候も影響したといわれ、諸説あるこの戦いが行われたとする場所が「桶狭間古戦場公園」として整備されています。公園内にある史跡や周辺の史跡についてご紹介しています。 - [「小牧・長久手の戦い」の関連史跡めぐり](https://rekisi-walk.com/「小牧・長久手の戦い」の関連史跡めぐり/) - 小牧・長久手の戦いは、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、徳川家康・織田信雄連合軍と豊臣秀吉の間で、小牧山と長久手を主戦場とした戦いです。約450年前の出来事になりますが、城(模擬城を含む)、古戦場跡、砦跡などが数多く残っています。豊臣秀吉が天下人になる決定的な戦いの史跡、訪問ルートを紹介しています。 - [「桶狭間の戦い」の関連史跡:大高城](https://rekisi-walk.com/大高城/) - 永禄3年(1560)桶狭間の戦いの際、大高城は鵜殿長照が守備していました。5月18日夜に松平元康(徳川家康)が兵糧を届け、長照に代わり元康が城の守備につきます。しかし、桶狭間での義元の死を知った元康が岡崎城に引いたため、大高城は再び織田家の領土となります。若き日の家康の活躍の場となった大高城に触れています。 - [「桶狭間の戦い」の関連史跡:丹下砦](https://rekisi-walk.com/丹下砦/) - 織田信長によって山口教継の裏切りで今川氏の配下となった鳴海城を取り囲むように、善正寺砦、中島砦とともに築かれました。永禄3年(1560)5月今川義元の尾張侵攻に対して、信長は清洲城を出陣し、丹下砦、善照寺砦、中島砦の順に移り、桶狭間へ出陣しました。信長が最初に入った丹下砦を紹介しています。 - [「桶狭間の戦い」の関連史跡:善照寺砦](https://rekisi-walk.com/善照寺砦/) - 織田信長によって山口教継の裏切りで今川氏の配下となった鳴海城を取り囲むように、丹下砦、中島砦とともに築かれました。永禄3年(1560)5月今川義元の尾張侵攻に対して、信長は清洲城を出陣し、丹下砦、善照寺砦、中島砦の順に移り、桶狭間へ出陣しました。信長が兵を集めたともいわれる善照寺砦を紹介しています。 - [「桶狭間の戦い」の関連史跡:中島砦](https://rekisi-walk.com/中島砦/) - 織田信長によって山口教継の裏切りで今川氏の配下となった鳴海城を取り囲むように、丹下砦、善照寺砦とともに築かれました。永禄3年(1560)5月今川義元の尾張侵攻に対して、信長は清洲城を出陣し、丹下砦、善照寺砦の順に移り、中島砦から桶狭間の今川義元本隊に攻撃を仕掛けました。信長出陣の中島砦を紹介しています。 - [「桶狭間の戦い」の関連史跡:鷲津砦](https://rekisi-walk.com/鷲津砦/) - 永禄3年5月19日(1560年6月12日)には桶狭間の戦いの前哨戦が行われます。朝比奈泰朝率いる軍勢によって門扉や営柵に火が放たれて激戦となり、守将・飯尾定宗らは死傷、残兵も敗走し、午前10時頃までには陥落したといいます。桶狭間の戦いの前哨戦が行われた鷲津砦をご紹介しています。 - [「桶狭間の戦い」の関連史跡:鳴海城](https://rekisi-walk.com/鳴海城/) - 「桶狭間の戦い」の際に、鳴海城は今川氏の家臣・岡部元信が城主を務めていました。桶狭間で義元が敗れると、元信は義元の首級と引き換えに城を明け渡しました。その後は佐久間信盛・信栄父子が城主を務めましが天正末期には廃城になったようです。今川氏の重要拠点として機能していた鳴海城についてご紹介しています。 - [「桶狭間の戦い」の関連史跡:沓掛城](https://rekisi-walk.com/沓掛城/) - 沓掛城は桶狭間の戦いに関連する場所として知られます。永禄3年5月18日(1560年6月11日)今川義元は沓掛城に入ります。ここで義元は大高城への兵糧入れや各武将の部署の再確認を行ったものと思われます。翌19日朝、沓掛城を出発した義元は桶狭間の戦いに遭遇します。今川義元が生涯最後の夜を過ごした沓掛城を紹介しています。 - [「桶狭間の戦い」の関連史跡:丸根砦](https://rekisi-walk.com/丸根砦/) - 永禄3年5月19日(1560年6月12日)、桶狭間の戦いの前哨戦が行われました。大高城への兵糧入れに成功した松平元康(徳川家康)が率いる軍勢の攻撃によって、佐久間盛重を守将とする織田勢は全滅したといわれます。桶狭間の戦いの前哨戦となった織田勢と徳川勢の戦いの場となった丸根砦について触れています。 - [徳川家康20 家康の関東統治構造](https://rekisi-walk.com/徳川家康 家康の関東統治構造/) - 徳川氏の関東支配構造は、当主の家康が中核部の本領国を管轄し、それぞれの領域の地縁・外縁部に一門・重臣のもと、松平諸家と従属国衆を配するという、それぞれの領域の地理的・歴史的態様をふまえた、重層的複合構造を成していました。家康が一門衆や重臣を配置した地域やその意味について、詳しく触れています。 - [「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:血池公園・鎧掛け松](https://rekisi-walk.com/「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:血池公園・/) - 長久手合戦後、徳川家康方が血の付いた刀や槍を洗ったといわれる「血の池」と呼ばれていた池があったとされる血の池公園。池で刀や槍を洗う時、将兵たちが鎧(甲冑)をかけたといわれる松について説明しています。 - [「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:長篠古戦場首塚](https://rekisi-walk.com/「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:長篠古戦場/) - 小牧・長久手の戦いで勝利した徳川家康は、戦場処理を行なわず小牧山へ引上げてしまった為、戦死した将兵たちは敵味方の区別なく放置されていたといいます。岩作村の安昌寺の雲山和尚と地元民が中心となり、遺体を集めて首塚を築いたと伝えられています。当時としては画期的な人道的取り組みで築かれた首塚を紹介しています。 - [「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:長久手古戦場](https://rekisi-walk.com/「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:長久手古戦/) - 池田恒興、森長可に徳川軍出現の報が伝わり、引き返した両将は徳川軍と対峙します。天正12年(1584年)4月9日午前10時頃、両軍が激突。戦況は一進一退でしたが、前線の森長可が狙撃されると徳川軍優勢となります。 池田恒興も槍を受けて討死するなど池田・森勢は壊滅。徳川軍の勝利に終わった長久手の戦いを説明しています。 - [「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:桧ヶ根合戦地](https://rekisi-walk.com/「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:桧ヶ根合戦/) - 「三好信吉(豊臣秀次)が白山林の戦いで総崩れになった」という報が、先陣の堀秀政隊に入ったのは約2時間後でした。堀隊は直ちに引き返し、桧ヶ根に陣を敷いて徳川軍を待ち構えました。勢いに乗った徳川先遣隊でしたが返り討ちにされて逆に追撃されてしまうという結果を招きます。秀吉方の勝利に終わった桧ヶ根合戦地を紹介しています。 - [「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:木下勘解由塚](https://rekisi-walk.com/「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:木下勘解由/) - 秀吉方の岡崎侵攻の総大将の三好秀次(豊臣秀次)は、天正12年(1584)4月9日早朝に徳川先遣隊の奇襲攻撃を受け、総崩れとなります。秀次は混戦のうちに馬を失い逃げる途中、この地で家臣の木下兄弟に出合います。弟の木下勘解由左衛門利匡が自分の馬を秀次に譲り、秀次を逃がした後、奮戦し討ち死にした場所の紹介になります。 - [「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:白山林古戦場](https://rekisi-walk.com/「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:白山林古戦/) - 天正12年(1584年)4月8日羽柴勢は徳川氏の本拠地・岡崎城を攻めるべく「三河中入り作戦」を開始します。9日早朝、途中の白山林で休息をとっていた三好秀次隊に徳川勢は鉄砲を一斉射撃。不意を突かれた秀次隊は戦い開始から1時間余りで壊滅します。長久手の戦いの引き金となった白山林の戦いの古戦場を紹介しています。 - [「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:八幡林古戦場(羽黒の戦い)](https://rekisi-walk.com/「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:八幡林古戦/) - 小牧・長久手の戦いはここから始まりました。羽柴秀吉方は池田恒興が犬山城を奪取し、森長可は八幡林に陣取りました。徳川家康方は酒井忠次、榊原康政、奥平信昌らが陣取りました。天正12年(1584)3月17日の夜明けとともに戦いが始まり、徳川勢の勝利に終わりました。小牧・長久手の戦いの緒戦となった八幡林古戦場を紹介しています。 - [「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:武蔵塚](https://rekisi-walk.com/「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:武蔵塚/) - 森長可は、本能寺の変で織田信長と共に亡くなった森蘭丸の兄になります。彼は池田恒興の娘婿で、小牧・長久手の戦いでは共に羽柴軍として参加していました。岡崎攻撃隊として岡崎に向かっていたところ、徳川家康との決戦になり長久手の戦いで討ち死にします。長可が亡くなった場所といわれる武蔵塚を紹介しています。 - [「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:勝入塚](https://rekisi-walk.com/「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:勝入塚/) - 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いで、羽柴秀吉方の武将・池田恒興が無念の戦死をした場所になります。恒興は、天正10年(1582年)本能寺の変で主君・信長亡き後入道し、勝入齋と名乗りました。塚名はこの法名にちなむものです。長久手古戦場公園内に建立された勝入塚をご紹介しています。 - [「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:三将の墓(常照寺)](https://rekisi-walk.com/「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:三将の墓(/) - 常照寺は真宗高田派の寺院で、長久手古戦場公園の北西1.2kmに位置します。天正12年(1584年)の長久手の戦いで戦死した池田勝三郎恒興(享年49)、その子息の池田紀伊守之助(享年26)、婿の森武蔵守長可(享年27)の墓があります。墓所がここにあるいきさつについては不明ですが、3将の墓がある常照寺を紹介しています。 - [「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:二重堀砦](https://rekisi-walk.com/「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:二重堀砦/) - 二重堀砦は小牧・長久手の合戦で羽柴方の砦として築かれ、南北70m、東西100mと規模が大きく、 二重の堀が巡らされていたと推測されます。ここから家康の本陣、小牧山には約2km程の距離しか離れていないので、しばしば夜襲を受け、両軍の小競り合いがあったそうです。日根野備中守弘就が守備した二重堀砦を紹介しています。 - [「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:田中砦](https://rekisi-walk.com/「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:田中砦/) - 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いにおいて羽柴秀吉方の砦として築かれました。 規模は東西約30m、南北約36mで、高さ約1.5mの土塁があったそうで、兵数は約1万3千人。守将としては堀秀政、蒲生氏郷、加藤光泰などが伝えられる田中砦を紹介しています。 - [「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:岩崎山砦](https://rekisi-walk.com/「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:岩崎山砦/) - 小牧・長久手の合戦で羽柴方の砦として築かれ、稲葉一鉄・貞通父子が4千の兵で守りました。小牧山城から3㎞に位置し、標高55mの頂からは城が一望でき敵の動きを見張る監視点と考えられます。また花崗岩質の岩山で、切り出された岩は小牧山城と名古屋城の石垣に使用されました。小牧山城を見張った岩崎山砦をご紹介しています。 - [「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:久保山砦](https://rekisi-walk.com/「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:久保山砦/) - 天正12年(1584年)小牧長久手合戦において羽柴秀吉方の砦として築かれました。東西八間(約14.4m)、南北十間(約18m)の規模といわれます。また長久手合戦の後は、秀吉が本陣の楽田城からこの砦に来てこの砦で指揮したとも伝えられ、太閤山とも呼ばれています。現在の熊野神社一帯が砦跡の久保山砦を紹介しています。 - [「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:小松寺山砦](https://rekisi-walk.com/「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:小松寺山砦/) - 天正12年(1584年)小牧長久手合戦において羽柴秀吉方の砦として築かれました。丹羽長重(一説に長秀)、三好秀次(豊臣秀次)が守備したとされます。東の砦は十間四方(約18m)、西の砦は南北十間(約18m)、東西八間(約14m)の二つの砦であったといわれます。秀吉も訪れたという伝説も残る小松寺山砦を紹介しています。 - [「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:内久保砦](https://rekisi-walk.com/「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:内久保砦/) - 小牧・長久手の合戦時に、秀吉軍の砦として築かれたもので、東西九間、南北十三間の規模であったとされる。蜂屋出羽守頼隆・金森長近等を将とした、三千余が陣を敷きました。現在、内久保山西南麓にある三明神社周辺が砦の位置と考えられますが、正確な位置ははっきとは分かりません。秀吉方の砦の一つ内久保砦を紹介しています。 - [「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:楽田城](https://rekisi-walk.com/「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:楽田城/) - 楽田城は十六世紀前半、尾張守護代・織田久長によって築城されたといわれます。織田信長の家臣・坂井政尚(さかいまさひさ)の城主を経て、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、小牧山城を本陣とした徳川家康・織田信雄軍に対抗して、羽柴秀吉軍は楽田城を改修し、本陣として使いました。秀吉の本陣・楽田城を紹介しています。 - [「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:御旗山](https://rekisi-walk.com/「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:御旗山/) - 天正12年(1584年)4月9日、色金山に兵を進めていた徳川家康に、白山林の戦いでの三好信吉(豊臣秀次)軍を撃退したこと、しかし桧ヶ根の戦いで堀秀政軍に敗れたとの知らせが入ります。家康は救援を決め、ここ御旗山に進軍して頂上に金扇の馬標を立て豊臣方の動きを牽制しました。決戦にのぞむ家康が陣を敷いた御旗山に触れています。 - [「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:色金山歴史公園](https://rekisi-walk.com/「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:色金山歴史/) - 色金山は、小牧・長久手の戦いにおいて、羽柴秀吉方の池田恒興、森長可らの別働隊を追撃してきた徳川家康軍が進軍を止め、軍議を開いたと伝えられる山です。山頂には、家康が腰掛けたとされる巨石「床机石」が今も残ります。現在では歴史公園として整備された色金山歴史公園をご紹介しています。 - [徳川家康19 「関東・奥両国惣無事」活動としての小田原合戦と秀吉の奥州仕置き](https://rekisi-walk.com/徳川家康 「関東・奥両国惣無事」活動としての/) - 小田原合戦は豊臣秀吉の勝利に終わり、北条氏は滅亡します。戦いの後、徳川家康は関東移封を命じられ関東地方の安定と奥州方面への抑えとされます。秀吉の奥州仕置きによって「関東・奥惣無事」は実現し、天下統一が達成されました。小田原合戦と北条氏滅亡の過程。家康の関東移封と秀吉の奥州仕置き、その後の奥州の情勢について触れています。 - [徳川家康18 「関東・奥惣無事」活動と北条氏への対応(小田原攻めへの過程)](https://rekisi-walk.com/家康の「関東・奥惣無事」活動と北条氏への対応/) - 家康の「関東・奥両国惣無事」活動の役割は北条氏に秀吉への従属を促すことでした。北条氏は明確な態度を示めさず、防備を固めます。家康が北条氏に最後通告すると、氏規が上洛し臣従の意を示します。しかし北条氏が真田領の名胡桃城を奪ったことで秀吉は討伐を決意します。小田原征伐に至る秀吉、家康、北条氏の関係と経緯に触れています。 - [「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:長久手城](https://rekisi-walk.com/「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:長久手城/) - 最初の築城年代や築城者は不明で、織田信雄に仕えていた加藤忠景が、前領主・斎藤氏の古城を修築して居城としていました。 小牧・長久手の戦いの際、加藤忠景は徳川家康に従い、岩崎城の戦いで討死したとされています。この戦いの際、森長可によって焼き討ちにされ、廃城となった長久手城について紹介しています。 - [「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:岩作城](https://rekisi-walk.com/「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:岩作城/) - 岩作城(やざこじょう)は室町時代前半(14世紀後半)に築城されたとされています。城と言ってもこの地域の有力者・今井氏の居館周辺に堀と土塁を巡らせたものだったと思われています。小牧・長久手の戦い際、城主の今氏氏は徳川方に参加。池田恒興による岩崎城の戦いで戦死します。あまり知られてこなかった岩作城を紹介しています。 - [「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:岩崎城](https://rekisi-walk.com/「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:岩崎城/) - 「岩崎」は、尾張、三河間を結ぶ街道の要衝地で、天正12年(1584年)の豊臣秀吉と徳川家康が戦った小牧・長久手の戦いでは、岩崎城の戦いの舞台になりました。城代丹羽氏重は後方攪乱を狙った豊臣方の池田恒興隊を阻止しましたが。自身以下300余名が討ち死にしたと伝わります。戦いの舞台となった岩崎城を紹介しています。 - [「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:小幡城](https://rekisi-walk.com/「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:小幡城/) - 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いにおいて、徳川家康はこの城を修築し本多広孝に守備させました。家康は長久手の戦いで池田恒興、森長可ら豊臣方の別働隊を破った後、小幡城に入城します。 その後、豊臣方によって徹底的に焼き払われ廃城となった小幡城について紹介しています。 - [「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:北外山砦](https://rekisi-walk.com/「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:北外山砦/) - 由来は、尾張国守護代として上四郡を支配した岩倉織田家の織田与四郎が、居城した北外山城になります。その後廃城となり小牧・長久手の戦いの際、修復されて北外山砦となり蟹清水砦・宇田津砦と小牧山城の右方の連砦として秀吉軍に対抗しました。 また、羽黒の戦いの時は本多忠勝ら、 長久手の戦いの時は奥平信昌らが護もりました。 - [「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:蟹清水砦](https://rekisi-walk.com/「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:蟹清水砦/) - この地には織田信長が永禄6年(1563年)、丹羽長秀に小牧山に築城を命じた際、長秀が建てたと言われている屋敷がありました。徳川家康はこの屋敷を修復して砦としたとされます。名前の由来は清水があり蟹がいたからといわれますが、現在その清水を確認することはできません。また、江戸時代には尾張徳川家の御殿となった砦を紹介します。 - [「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:小牧山城](https://rekisi-walk.com/「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:小牧山城/) - 小牧山城は、愛知県小牧市にある平山城で、歴史上2回のスポットが当たります。1回目は織田信長が永禄6年(1563)に美濃攻めの拠点として築城し清洲城から移転した時。2回目は天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで、徳川家康が大改修を行い、この地に本陣を敷しいた時になります。歴史上重要な小牧山城を紹介しています。 - [「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:犬山城](https://rekisi-walk.com/「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:犬山城/) - 尾張における小牧・長久手の戦いの発端となった犬山城。築城は天文6年(1537)頃に織田信長の叔父・信康といわれ、その立地から戦国時代から江戸時代を通じて数々の武将たちが奪い合った城でした。天守は現存する日本最古のもので現存十二天守、また姫路城、松本城、彦根城、松江城と並ぶ国宝五城の一つに数えられています。 - [徳川家康33 徳川公儀の諸制度と家康の最期](https://rekisi-walk.com/徳川家康 徳川公儀の諸制度と家康の最期/) - その後の豊臣氏 大坂城落城後に、家康は諸大名や代官らに命じて、大坂方の残党の捜索を、全国にわたってきびしく行 - [徳川家康31 大阪冬の陣に至る経緯とは](https://rekisi-walk.com/徳川家康 大阪冬の陣に至る経緯とは/) - 大阪城の秀頼 慶長十六年(1611)三月、二条城での対面で秀頼が家康に臣従し、徳川公儀が豊臣公儀に優越するこ - [徳川家康30 大御所政治の外交政策とキリスト教への対応](https://rekisi-walk.com/徳川家康 大御所政治の外交政策とキリスト教へ/) - 外国との関係 ・・・ オランダとの交易開始 慶長十四年(1609)五月末、ポルトガル船を追撃してきた二艘のオ - [徳川家康29 家康はいかに大名を統制し、秀頼と付き合ったか。](https://rekisi-walk.com/徳川家康 どのように諸大名を統制したか。そし/) - 御手伝普請・・・徳川公儀の実質化 家康が将軍になったことで、新たに徳川公儀を打ち立てることが可能になったこと - [徳川家康28 全国統治への布石と征夷大将軍就任](https://rekisi-walk.com/徳川家康 全国統治への布石と征夷大将軍就任/) - 都市や鉱山の直轄化 家康は関ケ原の合戦で圧勝し天下の実権を握ると、開幕以前からさっそく全国統治への意欲を示し - [徳川家康27 関ヶ原後の諸大名の処遇と徳川体制への布石](https://rekisi-walk.com/徳川家康 関ヶ原後の諸大名の処遇と徳川体制へ/) - 【今回の記事に関連する場所】 ①佐和山城、②大阪城、③伏見城、④高野山、⑤駿府城、⑥米子城、⑦懸川城、⑧浦戸城 - [徳川家康26 小山評定から関ヶ原へ](https://rekisi-walk.com/徳川家康 天下分け目の関ヶ原へ進む過程/) - 【今回の記事に関連する場所】 ①佐和山城、②大阪城、③伏見城、④下野国犬伏、⑤下野国小山、⑥下野国宇都宮、⑦江 - [徳川家康25 関ヶ原に向けて・・・上杉討伐と三成の挙兵](https://rekisi-walk.com/徳川家康 上杉討伐と三成の挙兵、関ヶ原に至る/) - 上杉氏謀反の嫌疑 豊臣秀吉の死後、徳川家康の権力掌握過程で、失脚に追い込む第一ターゲットが前田利長とすると、 - [徳川家康24 秀吉の死と家康の権力増大](https://rekisi-walk.com/徳川家康 秀吉の死と家康の権力増大/) - 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[「源頼朝」ゆかりの地を巡る2 ~小田原市、湯河原町、真鶴町~](https://rekisi-walk.com/源頼朝ゆかりの地を巡る ~小田原市、湯河原町/) - 初戦に勝利した頼朝の次戦は石橋山で勃発。しかし、平氏(大庭景景ら)との圧倒的な兵力の差に敗れてしまいます。石橋山に残る戦った武士たちの史跡、頼朝敗走中のエピソードに関係する史跡、そして再起を図るために安房(千葉県)に向けて出帆した地を巡り、ご紹介いたします。 - [「源頼朝」ゆかりの地を巡る1 ~北条氏・伊豆の国市~](https://rekisi-walk.com/源頼朝、北条氏ゆかりの地を巡る ~伊豆の国市/) - 伊豆の国市は源頼朝が配流された地で、北条政子と出会い、平氏討伐、鎌倉幕府樹立の第一歩を印した地です。コンパクトな地域にたくさんの史跡が残っており、伊豆時代の北条氏や配流時・挙兵時の頼朝に関係する場所をご紹介します。訪問する際のご参考にして頂けると幸いです。 - [「長篠の戦い」の関連史跡:長篠城](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:長篠城/) - 長篠の戦いの発端となった長篠城。長篠城は長篠菅沼氏の2代当主・菅沼元成によって1508年(永正5年)に築城され、以後5代にわたり長篠菅沼氏の居城となりました。徳川氏に属していた天正3年(天正3年)武田勝頼に攻囲され、長篠の戦いが始まる舞台となります。長篠城の歴史、長篠の戦いの関連の場所ついて写真とともに触れています。 - [「長篠の戦い」の関連史跡:織田信忠本陣跡](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:織田信忠本陣跡/) - 天正3年(1575年)5月21日の長篠設楽原の戦いのとき、織田信忠は野邊神社に陣所を置きます。信長が戦地本陣を置いた茶臼山の南側、弟の家康の嫡男・岡崎信康本陣地跡の後方に位置します。信忠はこの時、19歳。この後、岩村城や甲斐を攻め、武田家を滅ぼして織田家当主として磐石の地位を築いていきます。 - [「長篠の戦い」の関連史跡:岡崎信康本陣跡](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:岡崎信康本陣跡/) - 天正3年(1575年)5月21日の長篠設楽原の戦いのとき、徳川家康の嫡男である岡崎(松平)信康は、石川数正や平岩親吉と共に松尾神社に布陣しました。家康の本陣から400mほど後方、織田信長の本陣の南側に位置します。この時、信康17歳。後に信長の命によって 二俣城 にて自刃させられています。 - [「長篠の戦い」の関連史跡:鳶ヶ巣山砦](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:鳶ヶ巣山砦/) - 天正3年(1575)の長篠の戦いの際、武田軍は鳶ヶ巣山砦をはじめとする5つの砦を築き、長篠城を監視しました。そこで長篠城救済のため、5月20日夜に徳川家康の家臣・酒井忠次が四千の兵を率いて、5つの砦を奇襲。激戦となりましたが、武田軍の包囲網は崩壊、多くが討死して砦は落城。長篠城の城兵と合流することができました。 - [「長篠の戦い」の関連史跡めぐり2 ~長篠城周辺~](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡めぐり2 長篠城周辺/) - 天正3年(1575年)5月、織田・徳川連合軍と武田勝頼の戦いとなった長篠・設楽原の戦いで、長篠城周辺に残る本陣跡や武将の墓、城、砦などの史跡を巡るコース紹介と各史跡を説明しています。長篠・設楽原の戦いの発端となった長篠城周辺の史跡めぐりのコース設定にお役立てください。 - [「長篠の戦い」の関連史跡めぐり1 ~設楽原周辺~](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡めぐり1 設楽原周辺/) - 天正3年(1575年)5月、織田・徳川連合軍と武田勝頼の戦いとなった長篠・設楽原の戦いで設楽原周辺に残る本陣跡や武将の墓などの史跡を巡るコース紹介と各史跡を説明しています。馬防柵の設置や火縄銃の大量使用等、その後の築城法や戦術に画期的変化をもたらしたといわれる設楽原の戦いの史跡めぐりのコース設定にお役立てください。 - [「長篠の戦い」の関連史跡:柳田前激戦地](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:柳田前激戦地/) - 武田軍中央隊が主に激戦を行った戦地を総称して「柳田前」と呼び、武田軍の武田信廉・内藤昌豊・原昌胤 らが激戦を繰り広げました。 また、生き残った各隊が中央隊と合流し、最後の戦闘を行ったところでもあります。甘利信康も天王山のふもとにあたるこの柳田の辻までじりじりと押し戻され、その奮闘もむなしく自らの命を断ちました。 - [「長篠の戦い」の関連史跡:設楽原・連吾川](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:設楽原・連吾川/) - 設楽原は雁峰山から南流して豊川に注ぐ連吾川を挟む平地です。南北に長い狭隘な窪地のような形状で、所々に丘陵の連なりや川に沿う部分の多くは湿地帯(湿田)で、しかもでこぼこだらけの難所でした。戦いの中心となる家康の本陣(弾正山)と山県昌景の陣地(信玄台地)との間はわずか300m程度にすぎない距離でした。 - [徳川家康16 真田氏の離反、石川数正の出奔、そして秀吉の「家康成敗」へ至る過程](https://rekisi-walk.com/真田氏の離反、石川数正の出奔、そして秀吉の「/) - 天正13年(1585年)は、信濃国衆・真田昌幸の離反、宿老・石川数正の出奔と2つの大きな試練に見舞われます。2つの事件には豊臣秀吉も関わり秀吉と家康の関係も悪化し、秀吉は翌年の出陣を表明するまでに至ります。この2つの事件が発生した背景と原因、そして秀吉との対立につながる家康の対応について触れています。 - [「長篠の戦い」の関連史跡:大宮前激戦地](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:大宮前激戦地/) - 馬場信春による丸山占領に続き、勢いに乗じた真田信綱・昌輝兄弟や土屋昌次、穴山信君らの諸隊が次々と繰り出され、激戦が行われた場所になります。ここには連合軍からは佐久間信盛、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、蒲生氏郷、森長可、水野信元、佐々成政、前田利家が加わり、武田軍からも内藤隊が加わり、さらに戦線は拡大していきました。 - [「長篠の戦い」の関連史跡:丸山砦](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:丸山砦/) - 丸山は織田軍の佐久間信盛が6千の兵で陣を敷きますが、武田軍の馬場信春が7百の少数で攻め占拠しました。丸山砦は武田軍右翼の要石であったので、馬場信春は終始ここから動けませんでした。最初から最後まで、戦場を俯瞰して見ていたはずです。敗戦と決まったとき、信春は殿軍を務め最後まで戦場に踏みとどまって討ち死にしました。 - [徳川家康14 信長亡き後、羽柴秀吉は如何に織田家の主導権を握ったか? そして、その時家康は?](https://rekisi-walk.com/信長亡き後、羽柴秀吉は如何に織田家の主導権を/) - 清洲会議で三法師を当主に宿老が織田家を運営する体制を決めますが、信雄・秀吉VS信孝・勝家という対立構図になっていきます。秀吉は賤ケ岳で勝家を破り、信孝を自害に追い込み天下人への意欲を示します。しかし、次は信雄・家康との関係が次第に悪化していきます。秀吉が織田家で主導権を握る過程と家康の行動について触れています。 - [徳川家康15 小牧・長久手の戦いと秀吉天下人への過程とは?](https://rekisi-walk.com/小牧・長久手の戦いと秀吉天下人への過程とは?/) - 織田家中で主導権を握りつつあった羽柴秀吉に織田信雄は徳川家康と手を結び抵抗し、小牧・長久手の戦いに発展します。信雄・家康軍は長久手の戦いで勝利しますが、最終的には戦力で勝る秀吉軍が有利となり和睦を結びます。秀吉が天下人としての立場を明確にした戦いの過程とその後の秀吉の関白就任などの政治状況について触れています。 - [「長篠の戦い」の関連史跡:山県昌景の墓](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:山県昌景の墓/) - 天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは内藤昌秀・原昌胤らと武田軍左翼の中核を担います。山県勢は「一番」に攻撃を仕掛けますが、敵の弾丸に馬を撃たれ落馬。家臣の志村又右衛門によって胴切山に運ばれますが、すでに死亡していました。臨終の際、故郷に帰りたいと家臣に伝えたため首は山梨へ、胴は後日、ここに葬られました。 - [「長篠の戦い」の関連史跡:原昌胤の墓](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:原昌胤の墓/) - 設楽原で昌胤は、武田軍の最左翼・山県昌景の隣に甘利信康ととともに布陣。徳川家臣・大久保忠世、大須賀康高隊と戦います。昌胤は、山県とともに9回突撃するも、柵を破れませんでした。山県が討ち死にしたことを知ると、壊滅状態の山県隊を吸収し踏みとどまりますが、織田鉄砲隊の一斉射撃が続き、昌胤も大量の銃弾を浴び、討ち死にします。 - [「長篠の戦い」の関連史跡:信玄塚(大塚)](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:信玄塚(大塚)/) - 天正3年(1575)の長篠の戦いの戦死者を埋葬した塚とされます。武田軍は1万人が、織田・徳川連合軍は5000人が犠牲になったといわれます)。築いた塚の上に松を植え、武田軍側の死者を弔った方が大塚と呼ばれたとも伝承されます。 - [「長篠の戦い」の関連史跡:小幡信貞の墓](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:小幡信貞の墓/) - 小幡信貞のお墓があるのですが・・・。信貞は討死せずに生き残りました。大怪我はしたみたいなのですが武田領に戻りました。その後、織田信長の甲州征伐跡は滝川一益の配下となります。本能寺の変後は北条氏邦の家臣、小田原征伐後は真田昌幸の元へ行き、天正20年(1592年)52歳まで生きました。 - [「長篠の戦い」の関連史跡:土屋昌次の墓](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:土屋昌次の墓/) - 長篠の戦いで、信長自らの出陣を知って、信玄時代からの重鎮たち、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀らと共に撤退を進言したと言われているが、武田勝頼は決戦を行うことを決定する。戦が始まると、真田信綱、真田昌輝と共に右翼の天神山に陣を敷いた。大宮前激戦地で織田勢の三重柵の二重まで突破したが、一斉射撃を受け戦死したという。 - [「長篠の戦い」の関連史跡:内藤昌豊の墓](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:内藤昌豊の墓/) - 武田軍の副将的立場の内藤昌豊は、馬場信春、山県昌景らと撤退を主張しますが、勝頼は承知しませんでした。設楽原で昌豊は、勝頼本陣の隣に布陣、開戦後左翼に移動し奮戦します。しかし、山県が討ち死にしたことを知ると、勝頼に退却を進言。勝頼を馬場とともに退却させたあと、殿として本陣に踏みとどまり、奮戦の末、討ち死にしました。 - [徳川家康13 天正壬午の乱後の五カ国領有と領国化](https://rekisi-walk.com/家康は、天正壬午の乱後の五カ国領有と領国化を/) - 天正壬午の乱のあと、家康は5ヵ国(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃)を領有する大名となります。関東の政治的・軍事的戦略拠点の駿河国河東二郡、奥三河の奥平領。そして、新たに組み込まれた甲斐国、信濃国。これらの国を武田旧臣などの在地勢力とどのように関わり、統地をどのように進めていったのかについて触れています。 - [「長篠の戦い」の関連史跡:横田綱松の墓](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:横田綱松の墓/) - 天文19年(1550年)の砥石城攻め(砥石崩れ)で武田家足軽大将の横田高松が戦死したために、横田高松の婿養子になり、家督を継いで武田信玄に仕えた。足軽大将として騎馬30騎・足軽100人を与えられていたという。信玄の没後は勝頼に仕え、天正3年(1575年)5月21日、長篠の戦いで息子3人とともに戦死した。享年51。 - [「長篠の戦い」の関連史跡:甘利信康の墓](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:甘利信康の墓/) - 長篠の戦いでは山県昌景らとともに100騎の侍大将として左翼隊に属し徳川軍に対しました。当初は中央部隊とも合流して第3の柵をも破る勢いでした。しかし、次第に押し戻され、柳田前激戦地近くの天王山麓の庄屋屋敷まで来たときには、武田軍は総崩れとなっていました。信康は住民たちの寝返りを恨みながら、立ったまま切腹したといいいます。 - [「長篠の戦い」の関連史跡:武田勝頼観戦地](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:武田勝頼観戦地/) - 長篠の戦いで総大将の武田勝頼は織田・徳川連合軍との決戦を決断し、寒狭川を渡って清井田の戦地本陣へと軍を進めました。さらに、設楽原決戦の開戦時には、連吾川を見下ろすこの才ノ神の赤禿山に陣を移して観戦します。ここからは家康の本陣弾正山、柳田前激戦地、北の丸山砦など連吾川沿いの戦線を一望、全軍を指揮したとされる場所です。 - [徳川家康12 信長亡き後、家康の行動は?・・・天正壬午の乱](https://rekisi-walk.com/信長亡き後、家康の行動は?/) - 本能寺の変の発生で、甲斐・信濃・上野にも動揺が広がります。北条氏や上杉氏が旧武田領に触手を伸ばし始め、家康も旧穴山領を押さえて信濃に進出し天正壬午の乱が始まります。徳川と北条は甲斐国で対峙しますが、織田信雄・信忠らの和睦要請を受けて和睦を結びます。天正壬午の乱の発生経緯から終結まで各地の情勢を交えながら触れています。 - [「長篠の戦い」の関連史跡:高森恵光寺の塚](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:高森恵光寺の塚/) - 長篠の戦いのとき、高森恵光寺宗賢は、武田信実の指揮下に入っており、当初、鳶ヶ巣山砦を守備していたようです。しかし、酒井忠次の奇襲攻撃を受け壊滅状態となり、下山して設楽原の武田勢と合流したと考えられます。しかし、子の恵光寺快川はじめ、主従ことごとく戦死し、ここに葬られたと推定されています。 - [「長篠の戦い」の関連史跡:真田兄弟の墓](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:真田兄弟の墓/) - 真田幸隆(幸綱)の長男・真田信綱と、二男・真田昌輝兄弟は真田幸村の父真田昌幸の兄です。長篠の戦いでは、西の連吾川、東の五反田川に挟まれた丘陵地に馬場信春、土屋昌続らと右翼に構え、丸山砦の佐久間信盛との戦いで討死しました。真田源太左衛門尉信綱、真田兵部丞昌輝の名が彫られた墓と共に奮戦した家臣の墓も同じ場所にあります - [「長篠の戦い」の関連史跡:馬場信春の墓](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:馬場信春の墓/) - 武田四天王の一人。武田信玄から武田氏譜代の名門である馬場氏を継ぐことを許され、川中島の戦い、駿河侵攻、三方ヶ原の戦い等で武功をあげる。信玄の死後は勝頼を補佐するが、勝頼からは疎まれていたといわれる。長篠の戦いでは武田軍の右翼に陣取り奮戦するが、勝頼に撤退を進言し、自らは殿を務めた。勝頼撤退を見届けると命を落とした。 - [徳川家康11 本能寺の変と家康の対応は?](https://rekisi-walk.com/本能寺の変と家康の対応は?/) - 武田征伐後、織田信長の招待で安土城を訪れていた家康は、堺見物に足をのばしてしました。その時、本能寺の変の報に触れます。家康は一旦は追腹しようとしますが、重臣たちの意見で重い留まり三河に戻って弔い合戦をすることを決意します。家康の本能寺の変前後の行動、また家康の「三大危機」に数えられる「伊賀越え」について触れています。 - [「長篠の戦い」の関連史跡:医王山 武田勝頼本陣跡](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:医王山-武田勝頼本陣/) - 武田勝頼本陣は、天正3年(1575年)の長篠の戦いの際、勝頼が医王寺の裏山に陣城として築いたものとされます。 この陣城は標高約120mに位置し、 約600m南方に位置する長篠城に睨みを利かし、また、武田軍の各陣をくまなく展望することができました。さらに豊川下流方向からの長篠救援の軍が近づくことも確認できました。 - [徳川家康10 武田氏滅亡の過程は?](https://rekisi-walk.com/武田氏滅亡の過程は?/) - 御館の乱への対応により、武田氏は北条氏とも対立します。さらに高天神城を見殺しにしたことで木曽義昌、穴山梅雪らの重臣も離反します。天正10年(1582)織田信長は甲州征伐を決めます。圧倒的な軍事力の織田勢を前に不利な情勢となり、ここでも小山田信茂が離反し勝頼一向は田野で討たれます。武田氏が滅亡に至る過程に触れています。 - [「長篠の戦い」の関連史跡:医王寺](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:医王寺/) - 長篠山医王寺は永正11年(1514)の創立とされ曹洞宗で薬師如来を本尊とする寺院です。天正3年(1575)長篠の戦いの時、武田勝頼が最初の本陣を背後の医王寺山に置きます。出撃前夜、勝頼の夢枕に現れた老人が戦を避けるよう勧めますが、勝頼は無礼とし腕を切り落とします。翌朝、境内の池の葦が全て片葉になっていたということです。 - [「長篠の戦い」の関連史跡:信玄塚(小塚)](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:信玄塚(小塚)/) - 天正3年(1575)の長篠の戦いの戦死者を埋葬した塚とされます。武田軍は1万人が、織田・徳川連合軍は5000人が犠牲になったといわれます)。築いた塚の上に松を植え、徳川・連合軍側の死者を弔った方が小塚と呼ばれたとも伝承されます。 - [徳川家康9 松平信康事件の真相とは?](https://rekisi-walk.com/松平信康事件の真相とは?/) - 天正7年(1579年)9月15日に徳川家康の嫡男・信康が自刃、それに先立つ8月29日に家康正妻・築山殿が自刃するという事件が起こります。通説では信康正妻・徳姫が父・織田信長に信康・築山殿の不正を訴え、信長が自刃を命じたとされています。事件の推移、当時の三河の情勢、研究が進んだ事件真相などから、この事件に触れています。 - [「長篠の戦い」の関連史跡:馬防柵](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:馬防柵/) - 当時最強と言われていた武田騎馬隊の突進を防ぐだけでなく、銃を載せる台として使うことで火縄銃による狙撃の命中精度も上がり、連合軍を勝利へと導きました。設楽原の中央を流れる連吾川沿いに全長2キロメートル、三重で作られていたようです。使われた丸太は、すべて信長の領地・岐阜から運び込まれ、現地調達はしていないといわれます。 - [「長篠の戦い」の関連史跡:徳川家康本陣跡](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:徳川家康本陣跡/) - 長篠の戦いのとき、徳川家康は「高松山・八剣高松山、弾正山」などと呼ばれ、連吾川から西に300m離れたこの地に本陣を構えたと伝えられています。織田・徳川連合軍は徳川家康と佐久間信盛が最前線に陣を構え、対峙する武田軍は前線に馬場信房らの武田四天王が布陣し、その背後に武田勝頼が本陣を置いています。 - [徳川家康7 武田勝頼の侵攻(長篠の戦いへ向かう過程)と信康事件のきっかけ](https://rekisi-walk.com/反信長包囲網と徳川家の内紛による武田勝頼の奥/) - 信玄の死により家康は三河・遠江で領地の回復に成功します。しかし信玄の喪があけた勝頼は遠江、美濃、三河に進軍を開始します。その時、信康の家臣が武田氏に内通する事件が発生します。家康は勝頼の進軍を止めますが、長篠城が取り囲まれます。反信長包囲網、信玄の死、家康と勝頼の戦いと長篠の戦いにつながる経緯について触れています。 - [「長篠の戦い」の関連史跡:羽柴秀吉本陣跡](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:羽柴秀吉本陣跡/) - 長篠の戦いの時、羽柴秀吉は織田信長戦地本陣(茶臼山)の北側、織田・徳川連合軍の最左翼に陣を構えていました。「ひょうたん」の馬印が風になびいたであろう陣地一帯を「はたぼこ」と呼び、今もその名を伝えています。戦いの前年、秀吉は、木下藤吉郎から羽柴筑前守に改めたため、「木下秀吉陣地」と「羽柴秀吉陣地」の両方の石碑があります。 - [「長篠の戦い」の関連史跡:茶臼山 織田信長本陣跡](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:茶臼山-織田信長本陣/) - 天正3年(1575年)5月20日、織田信長は設楽原の戦いに備えて、最初の本陣(極楽寺跡)で軍議を開き、武田軍の騎馬隊攻略の作戦を練った後、茶臼山に本陣を移しました。すぐ北側に羽柴秀吉陣地、最前線の弾正山に徳川家康本陣を配置して総指揮をとりました。新東名長篠設楽原下りPAからも行ける本陣跡を写真とともに触れています。 - [「長篠の戦い」の関連史跡:極楽寺 織田信長本陣跡](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:極楽寺-織田信長本陣/) - 織田信長は、天正3年5月14日(1575年6月22日)、熱田神宮で戦勝祈願をした後、翌日に徳川家康の岡崎城に入り、長篠城の武田軍包囲網を抜け出した鳥居強右衛門の救援要請を聞くと、5月18日にのまずこの極楽寺跡に着陣します。その後、前線の茶臼山に本陣を構えますが、最初に設楽原に着陣した極楽寺跡を写真とともに触れています。 - [「長篠の戦い」の関連史跡:鳥居強右衛門の墓](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:鳥居強右衛門磔の墓/) - 天正3年武田勝頼によって長篠城が包囲されると、鳥居強右衛門は城を脱出して岡崎の徳川家康に援軍を求めた。しかし、その帰路、武田軍に捕まり、「援軍は来ない」と知らせることを強要されますが、援軍が来ることを伝え、その場で磔に処せられたといいいます。子の信商が建立したと伝わる新昌寺の強右衛門の墓を写真とともに触れています。 - [「長篠の戦い」の関連史跡:鳥居強右衛門磔の地](https://rekisi-walk.com/「長篠の戦い」の関連史跡:鳥居強右衛門磔の場/) - 天正3年(1575年)5月、長篠城は武田勝頼によって取り囲まれ窮地に陥ります。その時、鳥居強右衛門が徳川氏への救援要請に志願します。岡崎城で救援の承諾を得て城に戻る途中、武田の兵に捕まります。嘘をつくことを強要されますが、それに背いて磔となります。強右衛門のエピソードと磔となった場所について写真とともに触れています。 - [豊臣秀長 後継者の秀保とその後の豊臣家](https://rekisi-walk.com/豊臣秀長 後継者の秀保とその後の豊臣家/) - 秀長の死後、養子の秀保が家督を継ぎ領国運営を行います。しかし、17歳で秀保は病死し家系は断絶します。豊臣政権でも秀吉は秀次を後継とし関白に据えますが、秀次事件により粛清されます。幼少の秀頼を中心とした体制は不安定化し、秀吉死後に徳川家康が台頭。最終的に豊臣家は滅亡します。秀長死去後の後継者・秀保、豊臣家に触れています。 - [徳川家康8 長篠の戦いの戦略と遠江平定への道のり](https://rekisi-walk.com/長篠の合戦の戦略と遠江平定への道のり/) - 織田信長の協力を得て武田勝頼との長篠の戦いに勝利した徳川家康は、武田信玄によって荒らされた三河の再統一と遠江国の平定を目指していきます。長篠の戦いに至る過程と戦いの様子。その後の三河再統一、武田氏と上杉氏、北条氏の関係、勝頼と高天神城を巡る遠江の攻防と平定など、二ヵ国領有大名になる過程について触れています。 - [徳川家康6 三方原合戦と武田信玄の死](https://rekisi-walk.com/武田氏との対立から三方原合戦へ、そして、信玄/) - 足利義昭の上洛を果たし「天下布武」を目指す信長に対して朝倉氏、浅井氏、三好三人衆、大坂本願寺が挙兵。家康と領国を接する武田信玄とも対立し、家康は三方原の戦いで敗戦します。この敗戦を不安に思った義昭は信長への対立姿勢を明らかにします。この対立構図の原因となる三方原の戦いに至る過程とその影響について触れています。 - [徳川家康5 将軍足利義昭を巡る信長、家康、信玄の関係と今川氏の滅亡](https://rekisi-walk.com/将軍足利義昭と信長・家康、そして今川氏の滅亡/) - 室町幕府の弱体化で政治の混乱が続くと、織田信長は足利義昭の上洛を助け、室町幕府を再興させます。その過程で信長と徳川家康は武田信玄と同盟を結びます。甲斐から信玄、三河から家康が今川領に侵攻し、今川氏は滅亡しますが、両者は対立していきます。義昭の上洛と今川氏の滅亡を巡る信長、家康、信玄の関係に触れています。 - [徳川家康4 織田信長との同盟成立と三河一向一揆を鎮めて三河平定への過程](https://rekisi-walk.com/織田氏との同盟で三河平定、そして徳川家康へ/) - 桶狭間の戦い後、元康(家康)は今川氏と決別し織田信長との同盟を結びます。家康は西三河の一向一揆を鎮め、東三河の吉田城、田原城を落として三河平定を成し遂げて統治を進めていきます。そして、永禄九年(1566)三河国を統治する徳川家康が誕生します。家康と信長の同盟、三河統一過程と統治体制について触れています。 - [豊臣秀長 取次と領国運営で多忙を極める](https://rekisi-walk.com/豊臣秀長 取次と領国運営で多忙を極める/) - 天正16年(1588年)から17年の秀長は、秀吉と諸大名を結ぶ取次として接待や交渉を担い、毛利、北条などを政権に統合していきました。領国でも紀伊制圧や寺社の造営・修造を進め、町への貸し付けといった政策も進めていきました。家臣の不正問題に直面しつつも、中央と地方の両面で政権を支えた秀長の多忙な日々について触れています。 - [「桶狭間の戦い」の関連史跡巡り2 ~沓掛、大高、鳴海城と5つの砦めぐり~](https://rekisi-walk.com/桶狭間の戦い 大高城-鳴海城と5つの砦めぐり/) - 永禄3年(1560年)5月、織田信長が桶狭間に陣取った今川義元を破り、天下統一の第一歩となった「桶狭間の戦い」。戦いの緒戦となった今川勢の大高城、鳴海城、そしてその周辺に築かれた織田勢の砦を巡るコースを紹介しています。各史跡の説明もあります。信長が全国区となった「桶狭間の戦い」の史跡巡りコースの設定にご活用ください。 - [徳川家康2 織田、今川家に翻弄された幼少~青年期の人質時代](https://rekisi-walk.com/今川家への従属と織田家との対立へ/) - 松平広忠は一族を統率しますが、織田氏・今川氏と対立し、織田・今川両国に挟まれる状態となります。織田氏の侵攻竹千代は織田家の人質に。広忠死後、今川氏が竹千代を奪還し駿府で保護し、松平家は今川支配下に入ります。家康誕生時の松平家の状況、家康の人質時代、婚姻、嫡男・信康の誕生についても触れています。 - [豊臣秀長 権大納言就任と闘病の始まり](https://rekisi-walk.com/豊臣秀長 権大納言就任と闘病の始まり/) - 秀長は九州征伐後、家康とともに権大納言に昇進し豊臣政権の中枢を担います。しかし、多忙な日々を送る秀長は発病してしまいます。この時は回復しますが以後病に悩まされるようになっていきます。そのような状況でも秀長は最高位の一門として秀吉を支えていきます。豊臣政権の権力構造、秀長の発病について触れています。 - [豊臣秀長 因幡侵攻と「鳥取の渇殺し」](https://rekisi-walk.com/豊臣秀長 因幡侵攻と「鳥取の渇殺し」/) - 播磨・但馬を平定した秀吉は、毛利氏の勢力下にある因幡国に天正8年(1580年)と天正9年の2度にわたって侵攻します。2度目の侵攻では「鳥取の渇殺し(かつごろし)」と呼ばれる兵糧攻めを展開して落城させ、秀吉の勢力は東伯耆まで広がりました。その過酷な兵糧攻めの実態について触れています。 - [豊臣秀長 長浜時代の秀長の活動](https://rekisi-walk.com/豊臣秀長 長浜時代の秀長の活動/) - 天正元年(1573)9月、織田信長によって浅井氏が滅ぼされと、秀吉は信長から北近江三郡を与えられます。天正3年(1573年)夏頃に保秀吉によって「今浜」に城が完成すると、地名を「長浜」と改め、長浜城主として活動を始めます。秀吉が長浜城主となる過程と数少ない史料から秀長の長浜での活動を読み解いていきます。 - [豊臣秀長 秀吉の昇進と秀長の武士への決意](https://rekisi-walk.com/豊臣秀長 秀吉の昇進と秀長の武士への決意/) - 織田家中で秀吉が足軽から侍大将へ昇進し、所領も増えるにつれ、秀長も武士になる決意をします。秀長に武士になる決心をさせた秀吉の昇進過程とはどのようなものだったのか、秀吉最古の発給文書にも触れながら解説しています。また、彼らの結婚についても触れています。 - [豊臣秀長 秀長誕生とその家族](https://rekisi-walk.com/豊臣秀長 秀長誕生とその家族/) - 兄・秀吉の補佐役に徹し、豊臣政権を支えた豊臣秀長。これまであまり知られていなかった彼の誕生、家族と武士を志す前の彼の生活の様子。そして、彼の生涯に大きな影響を及ぼす秀吉の織田家への士官と織田家の情勢を戦国時代の重要な出来事を交えながら、解説しています。 - [豊臣秀長 九州征伐](https://rekisi-walk.com/豊臣秀長 九州征伐/) - 豊臣秀吉は命令に従わない島津氏を討つために九州征伐を開始。豊臣軍は秀長らが出陣し、圧倒的な兵力・兵器で各地で勝利、特に根城坂の戦いでの勝利がこの戦いの勝利を決定づけます。戦いの結果、島津氏は降伏し薩摩一国を安堵されて豊臣政権に服属し、九州の領地再編が進められることになります。秀吉・秀長の九州征伐について触れています。 - [豊臣秀長 九州征伐に至る過程](https://rekisi-walk.com/豊臣秀長 九州征伐に至る過程/) - 四国、北陸を平定し、徳川家康を従属させた豊臣秀吉は九州の統一に着手します。九州では大友氏・島津氏・竜造寺氏が争い、秀吉は停戦命令と九州分国案で調停を図ります。秀長も交渉役を務めましたが、島津氏は従わず豊後へ侵攻。調停が破綻し、秀吉が九州征伐に進んでいく過程について触れています。 - [豊臣秀長 病とともに過ごした晩年](https://rekisi-walk.com/豊臣秀長 病とともに過ごした晩年/) - 秀長は晩年、病に苦しみながらも取次や政務を担い続けます。伊賀を加え83万石の大名となりますが、小田原征伐には病のため不参加とでした。秀吉の天下統一後は病状も悪化。後継の秀保体制を整え、天正19年(1591年)1月22日に郡山城で亡くなります。その死は豊臣政権に大きな損失となります。秀長が死に至る最晩年に触れています。 - [豊臣秀長 徳川家康の上坂・秀長との関係](https://rekisi-walk.com/豊臣秀長 徳川家康の上坂・秀長との関係/) - 豊臣秀吉と徳川家康の関係は一時軍事衝突の局面を迎えますが、天正地震の影響等により、秀吉は従属へ方針転換します。家康も織田信雄らの説得や秀吉の妹・朝日との婚姻を条件に臣従します。ここでも秀長は両者の調停など取次の責務を果たしています。家康の臣従など秀長が豊臣政権で重きを成していく過程について触れています。 - [豊臣秀長 小田原征伐の背景と展開](https://rekisi-walk.com/豊臣秀長 小田原征伐の背景と展開/) - 秀吉は関東の北条氏に従属を迫りますが、北条氏は応じませんでした。名胡桃城事件を契機に秀吉は北条氏討伐を決意。天正18年3月秀吉は自ら出陣、約21万の兵で小田原城を囲みます。約3ヵ月に及ぶ籠城戦ののち、北条氏は降伏・滅亡し、秀吉は関東を掌握し、全国統一をほぼ完成させます。小田原征伐に至る経緯と戦いの過程に触れています。 - [豊臣秀長 秀長の紀伊平定と支配](https://rekisi-walk.com/豊臣秀長 秀長の紀伊平定と支配/) - 天正3年8月、四国征伐から帰陣した秀長は紀伊南部の制圧と支配に本格的に取り組みます。しかし、秀長は閏8月に秀吉から大和国を与えられ郡山城に入ります。実際の支配は家臣が行ったと思われますが、根強い抵抗に遭いながらも実施された支配の実態と紀伊平定までに5年を要した紀伊南部・熊野への侵攻について触れています。 - [豊臣秀長 秀長の大和支配](https://rekisi-walk.com/豊臣秀長 秀長の大和支配/) - 豊臣政権による畿内再編と親族支配の一環として大和国を拝領した秀長。家臣統制、百姓保護、寺社政策など数々の政策を打ち出して政策を進めました。郡山城を修築し、城を中心とした城下町の整備などの都市政策、「奈良貸」とよばれる融資による都市経済の活性化も推進していきました。ここでは秀長の大和支配の実態について触れています。 - [豊臣秀長 秀吉の四国征伐の歴史的意義と展開](https://rekisi-walk.com/豊臣秀長 秀吉の四国征伐の歴史的意義と展開/) - 四国で勢力を拡大していた長宗我部元親は賤ケ岳の戦いでは柴田勝家、小牧・長久手の戦いでは織田信雄・徳川家康への接近を図り、勢力の維持・拡大を図っていました。しかし、両合戦に勝利し主導権を握った秀吉との対立は決定的なものになっていました。総大将として四国征伐に向かった秀長の行動を中心に合戦中の出来事も含めて触れています。 - [豊臣秀長 秀吉の関白就任と秀長の大和拝領](https://rekisi-walk.com/豊臣秀長 秀吉の関白就任と秀長の大和拝領/) - 四国征伐の最中、秀吉は摂関家の対立に乗じて関白に就任すると、正親町天皇から「豊臣」のという本姓を下賜されます。そして、秀吉に抵抗していた越中の佐々成政を降伏させると畿内周辺の国替えを実施し、秀長に大和国を与えます。関白就任、豊臣姓下賜の意味と統一国家形成に向けて秀長に大和国を与えた目的について触れています。 - [豊臣秀長 小牧・長久手の戦い](https://rekisi-walk.com/豊臣秀長 小牧・長久手の戦い/) - 賤ケ岳の戦い後、織田信雄は「天下人」としての振る舞いを強めていく秀吉と対立、徳川家康も秀吉が関東政策に介入したことで対立し。両者は秀吉と衝突します。戦局が長引くと兵力に勝る秀吉軍が優勢となり、信雄・家康は降伏します。秀吉が織田家に代わる天下人としての立場を確立した小牧・長久手の戦いを秀長の活躍を含めて触れています。 - [「豊臣秀長」ゆかりの地を巡る ~奈良県大和郡山市~](https://rekisi-walk.com/大和郡山市 豊臣秀長めぐり/) - 奈良県大和郡山市にある豊臣秀長ゆかりの史跡を紹介しています。・源九郎稲荷神社(郡山城の守護神) ・洞泉寺(秀長建立の寺) ・郡山八幡神社(郡山城の南を守る) ・大納言塚(秀長の墓所) ・永慶寺(郡山城の現存する門) ・郡山城(秀長の居城) ・春岳院(秀長の菩提寺)以上の場所、史跡の説明、移動時間を紹介しています。 - [豊臣秀長 和泉・紀州征伐と支配の開始](https://rekisi-walk.com/豊臣秀長 和泉・紀州征伐と支配の開始/) - 小牧・長久手の戦いに勝利した秀吉は、織田信雄に味方した勢力の鎮圧を進めていきます。まずは、雑賀一揆と紀伊根来寺の和泉・紀伊へ侵攻。制圧後両国は秀長に与えられ、秀長は禁制と調整を重視した統治を進めていきます。惣国秩序を否定して、中央集権支配へと進む過程としての和泉・紀伊侵攻と秀長の統治について触れています。 - [豊臣秀長 清須会議とその後の政局展開](https://rekisi-walk.com/豊臣秀長 清須会議とその後の政局展開/) - 天正10年(1582年)6月27日本能寺の変後の織田政権の再編を目的として清須会議が開かれます。会議後の領地配分により秀吉の勢力が拡大、さらに信長の葬儀を主催することで政治的にも主導権を握り、政権内で柴田勝家らと対立します。清須会議を経た秀吉の勢力拡大過程と賤ケ岳の戦いにつながる両者の対立経緯について触れています。 - [源頼朝4 石橋山での敗戦理由と伊豆脱出](https://rekisi-walk.com/頼朝敗れる!! 石橋山の戦いでの敗戦と伊豆脱/) - 初戦に勝利した頼朝の第2戦は石橋山の戦いです。頼朝は勢力拡大のため三浦半島に勢力を持つ三浦一族を頼りとしますが合流が遅れてしまいます。そして、平氏の大庭景親、伊東祐親の軍勢に前後を挟まれ敗れてしまいます。石橋山の戦いの戦闘過程、敗走過程と頼朝を助けた人物の登場、そして安房を目指しての伊豆脱出について触れています。 - [源頼朝3 頼朝が挙兵を決意した背景](https://rekisi-walk.com/平氏に横暴に以仁王が挙兵を決意!頼朝が挙兵に/) - 平氏の圧政が続く中で、後白河天皇の第3皇子・以仁王が平氏打倒の令旨を諸国の源氏に配布します。令旨は伊豆の頼朝にももたらせ、頼朝は東国源氏の蜂起を呼びかけます。治承4年(1180年)8月17日(三嶋大社の祭日)頼朝は挙兵。知行国主の目代・山木兼隆を倒します。頼朝が挙兵に至る背景、初戦の戦いの様子について触れています。 - [豊臣秀長 賤ケ岳の戦い後の秀長の播磨・但馬支配](https://rekisi-walk.com/豊臣秀長 賤ケ岳の戦い後の秀長の播磨・但馬支/) - 賤ケ岳の戦い後、織田政権の運営は当主の信雄を秀吉が補佐して進められていくことになります。戦後の領地配分で秀吉は摂津大坂城に新たに拠点を定め、姫路城には秀長が入ります、これにより秀長は播磨を与えられ、但馬と合わせた二か国を領国とします。秀長の播磨、但馬支配。そして毛利氏との外交交渉について触れています。 - [豊臣秀長 賤ケ岳の戦い・・・秀吉と柴田勝家の決戦](https://rekisi-walk.com/豊臣秀長 賤ケ岳の戦い・・・秀吉と柴田勝家の/) - 織田家中で主導権を握りつつあった秀吉は、天正11年(1583年)4月21日に賤ケ岳で柴田勝家と衝突します。また。この中で秀長は「美濃守」に改称して、秀吉の代行を果たすことができる一門衆となります。勝家の戦略やまたしても「美濃大返し」と呼ばれる秀吉の機敏な対応。現場指揮にあたった秀長の様子について触れています。 - [豊臣秀長 山崎の戦い](https://rekisi-walk.com/豊臣秀長 山崎の戦い/) - 中国大返しで畿内に戻った秀吉は勢力を増し、信長を討った明智光秀と山城国・山崎で織田政権の主導権を巡る戦い(山崎の戦い)を行います。秀長も参戦し激戦が続きましたが、池田恒興らの奇襲をきっかけに秀吉が勝利し、織田家中の実権を掌握していきます。秀吉、光秀双方の動きと戦いの様子、光秀の最後と明智氏の滅亡について触れています。 - [源頼朝2 伊豆での配流生活の様子](https://rekisi-walk.com/源頼朝 伊豆での生活の様子/) - 平治の乱で敗れた源頼朝は池禅尼の嘆願により助命され伊豆へと配流になります。配流された伊豆での生活はどのようなものだったのか? 敵対した者、助けてくれた者、そして恋愛は・・・ 以後生涯をともに過ごす北条氏との出会いを含めて、後に鎌倉幕府を開いた源頼朝が挙兵前の伊豆での生活を説明しています。 - [源頼朝1 誕生から伊豆への配流の経緯](https://rekisi-walk.com/なぜ、平治の乱で敗れた源頼朝が助命されたのか/) - 河内源氏の棟梁・源義朝の子として生まれた頼朝。平治の乱で敗れた頼朝は東国への逃亡中に平氏の追手に捕まります。命の覚悟をしますが、平忠盛(清盛父)の正妻・池禅尼の嘆願で助命され伊豆への配流となります。のちに征夷大将軍となり鎌倉幕府を開き、平氏を滅亡に追い込んだ源頼朝がなぜ助命されたのか?その経緯を説明しています。 - [豊臣秀長 備中高松城の戦いと本能寺の変](https://rekisi-walk.com/豊臣秀長 備中高松城の戦いと本能寺の変/) - 天正10年(1582年)2月の八浜合戦で宇喜多氏(織田氏に従属)が毛利氏に大敗を喫すると、秀吉は、中国地方への出陣を決意します。秀吉は備中高松城を包囲して「水攻め」の最中、本能寺の変の報に接します。秀吉は毛利氏と和睦を結び「中国大返し」と呼ばれる早業で畿内に帰還します。毛利氏、本能寺の変への対応について触れています。 - [豊臣秀長 秀長の但馬支配](https://rekisi-walk.com/豊臣秀長 秀長の但馬支配/) - 但馬国を平定した秀長は但馬の統治を進めていきます。その統治は秀長が但馬一国を統治するものではなく、複数の家臣が分担して統治する構造でした。しかしながら、秀長が発給した文書をもとに秀長が進めていった但馬統治の内容とその困難さ。そして、家臣が遂行した織田政権の領地支配の方針について触れています。 - [豊臣秀長 秀吉の播磨侵攻](https://rekisi-walk.com/豊臣秀長 秀吉の播磨侵攻/) - 当初、織田家と毛利家は良好な関係でした。しかし、将軍・足利義昭の備後鞆へ下向などで両者の関係は悪化します。さらに天正4年(1576年)7月の第1次木津川の戦いで両者は戦闘状態に入ります。信長は毛利氏との交渉役だった秀吉を中国方面司令官に指名し、播磨に侵攻します。毛利氏との対立、秀吉の播磨侵攻過程について触れています。 - [豊臣秀長 秀長の但馬侵攻と別所長治・荒木村重の反乱](https://rekisi-walk.com/豊臣秀長 秀長の但馬侵攻と別所長治・荒木村重/) - 秀長が活躍し始めるのは、天正5年(1577年)の「但馬侵攻」からです。秀長は初めて「一軍の大将」として独立した軍勢を指揮し、秀吉軍とは別に但馬に進軍したことに特色があります。しかし、その背後で別所長治・荒木村重が反乱を起こします。 これらを通して、秀長が単なる補佐役から本格的な武将へと成長した過程に触れていきます。 - [豊臣秀長 秀長も参戦 信長の伊勢長島侵攻](https://rekisi-walk.com/豊臣秀長 秀長も参戦 信長の伊勢長島侵攻/) - 元亀元年(1570年)9月の大坂本願寺の蜂起に伴い、伊勢長島でも一向宗門徒が蜂起します。信長は近江で浅井・朝倉氏の対応に追われ弟・信興を失います。しかし、信長は元亀2年(1571年)5月から3度に渡り伊勢長島に侵攻。天正2年(1574年)7月の3度目の戦いには秀長も参戦。戦いの様子、秀長の活躍について触れています。 - [徳川家康17 秀吉への臣従と秀吉の天下統一「惣無事令」とは?](https://rekisi-walk.com/秀吉への臣従と秀吉の天下統一「惣無事令」とは/) - 天正13年(1585)徳川家康と豊臣秀吉は対決が避けられない状況になっていました。しかし、天正大地震の発生により融和路線に切り替わり、家康は秀吉に出仕します。家康が秀吉に出仕していく過程と豊臣政権における立場と役割、天下統一を進めていく秀吉の惣無事令と九州征伐、惣無事令への関東、奥羽での対応について触れています。 - [徳川家康3 家康にとっての桶狭間の戦い](https://rekisi-walk.com/今川義元、桶狭間に散る/) - 武田氏・北条氏と甲相駿三国同盟を結んだ今川義元は、永禄3年に三河支配安定と織田討伐のため出陣します。緒戦の戦いで優位に立ち、桶狭間山で休憩していた所、天気が急変。急な豪雨で混乱する中、織田信長が少数で正面攻撃し、義元は討ち取られます。今川勢として戦いに参加した家康の行動と敗戦後の対応について触れています。 - [徳川家康1 家康誕生までの松平家の成り立ち](https://rekisi-walk.com/家康誕生まで/) - 松平家発祥の松平郷を本拠とした松平太郎左衛門家は、信重の娘婿となった親氏を家祖とし勢力を拡大していきました。泰親・信光の代には岩津・安城へ進出し、松平一族は各地に拡がっていきました。内乱や家中対立、清康の暗殺を経て、広忠が今川氏の支援で統一し、竹千代(家康)が誕生します。家康誕生までの松平家について触れています。 ## 固定ページ - [出来事 あ行](https://rekisi-walk.com/出来事 あ行/) - あ 会津征伐(あいづせいばつ) 慶長5年(1600年)8月、徳川家康による陸奥国会津若松城主・上杉景勝の討伐戦 - [人物 は行](https://rekisi-walk.com/人物 は行/) - は 羽柴小吉秀勝(はしば こきちひでかつ)1569-1592 永禄12年(1569年)、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の - [人物 さ行](https://rekisi-walk.com/人物 た行/) - さ 西郷局(さいごうのつぼね)1562-1589 徳川家康の側室。永禄5年生まれ。西郷義勝と結婚し、1男1女を - [人物 た行](https://rekisi-walk.com/人物 さ行/) - た 太原雪斎(たいげん せっさい)1496‐1555 戦国時代の僧。明応5年生まれ。臨済宗。京都妙心寺の大休宗 - [出来事 さ行](https://rekisi-walk.com/出来事 さ/) - さ 前九年の役(ぜんくねんのえき) む永承6年(1051)から康平5年(1062)にかけて、陸奥の豪族安部頼時 - [人物 な行](https://rekisi-walk.com/人物 な行/) - な 内藤昌秀(昌豊)(ないとう まさひで(まさとよ))?-1575 甲斐の人。武田信玄につかえ、天文15年50 - 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